【教育基本法改正】

グローバリズムに身構える「国民国家」

―「社会の危機」は「国民道徳」で救えるか―

(インターナショナル第163号:2006年3月号掲載)


 小泉内閣最後の通常国会の開会前の熱気を孕んだ様相は、目玉であった皇室典範改正の頓挫と偽メール事件による民主党の腰砕けによって早くも消えうせ、政局の焦点は、すでに秋の自民党総裁選へと移っているかのような感を呈している。
 その中で次の目玉として浮上しつつあるのが、憲法改正を視野に入れた国民投票法案と教育基本法改正案の上程である。
 中でも教育基本法改正は、与党間で「愛国心」の文言を入れるかどうかを巡る対立があるとは言え、今国会中に成立を目指して精力的な調整が続いている。そしてこの教育基本法の改正は、それ自身として憲法改正の露払いであり、グローバリズムの進展の中で「危機」にある日本社会を救うために「国家・社会に奉仕する心」という「国民道徳」を復活させることによって「国民的統合」を再生させようと狙うものである。
 本小論では、その改正によって本当に「社会の危機」が救えるのかという観点から、改正案の概要やその狙いや限界を検討しておきたい。

▼「個人の育成」から「国民の育成」へ

 教育基本法改正の政府原案の根幹は、現行教育基本法がその前文と第1条「教育の目的」において宣言していた、「平和的な国家および社会の形成者」として「自主的な精神に満ち」た「個人の育成」という大目標を廃止することにある。
 そしてそのかわりに持ち出したのが、「公共の精神の重視」と「伝統文化を尊重し郷土と国を愛」する態度の涵養という、いわば戦前の教育勅語で称揚されていた「国民道徳」の涵養をいれることである。
 またこの基本法の精神を変えることにともなって、現行基本法では高らかに宣言されている「個人の尊重」「学問の自由の尊重」「男女平等」という戦後的価値観の根幹をなす思想が背後に押しやられ、教育は一人一人の個人が持つ豊かな可能性を伸ばすものから、国家社会が要請する「国民道徳」の涵養と、専門的知識の習得を目的とするものに切り縮められることとなる。
 そしてあろうことか、改正原案では第8条「学校教育」において、「学校は、規律を守り、真摯に学習する態度を重視する」と定め、「国家的目標」の実現を妨げるような児童・生徒・学生の行動は「規律」によって排除されると宣言し、学校教育の正常化のためには、規則・処罰という公権力をも動員することが宣言されている。
 これは、学校はそこで学ぶものにとって、自分の可能性を伸ばす場ではなく、国家社会が要請することに対して従順に従う牢獄でしかなくなる事を示している。
 さらに改正原案は、第14条「政治教育」において、「学校は党派的政治教育、政治活動をしてはならない」という曖昧な規定を盛り込み、国家が定める教育目標や教育活動に反対する教員の抗議行動や教育活動のすべてを「党派的政治教育・政治活動」の名の下に弾圧できる体制をとることを明言し、この面においても、学校を強い国家統制の下に置く事を宣言しているのである。
 まさに、今回練り上げられた教育基本法の改正は、「個人の育成」=「個人の価値・可能性の尊重」を目指した教育のあり方を、「国民の育成」=「国家が要請する道徳と知識の習得」へと、戦後の日本の教育のありかたを根本的に改変しようと狙っているのである。

▼規律と統制による価値観の強制

 ではこのような「国家の要請する道徳・知識」の習得を目指す教育とは、どのように実施されようとするのか。
 この点は、2000(平成12)年に教育基本法の改正を答申した「教育改革国民会議」の報告に詳しい。この提言は、すでに部分的に実施されているので、これを参考に見てみよう。
 この提言の第1は、「人間性豊かな日本人を育成する」と題して、家庭教育・学校教育のありかたを提言している。
 教育基本法改正原案でも、第6条に「家庭教育」の項を起こし、「家庭は子育てに第一義的な責任を有する」と定め、教育の原点は家庭であるという姿勢を示しているが、国民会議報告でも同様である。
 すなわち提言として、『親が信念を持って家庭ごとに、例えば「しつけ3原則」と呼べるものをつくる』を真っ先にあげ、家庭教育は、「しつけ」という「道徳」を身に付けさせるものと規定し、その第一義的責任は親にあると明記する。そしてその親が、子供とできるだけ多くの時間をともにすることができるように社会や地域が支援するものとするが、その支援の主体は「国および地方自治体」であり、親や住民自身が、主体的に子育てをする親を支援する態勢を作るものとはされず、家庭教育をも、国家の強い統制下に置く事が示されている。
 そして提言は第2に、「学校は道徳を教えることをためらわない」とし、具体的提言として、「道徳」「人間科」「人生科」という教科を設けて善悪をわきまえる感覚を育て、さらに『伝統や文化を尊重するとともに、古典、哲学、歴史などの学習を重視』し、様々な体験学習を重視するとともに、『「通学合宿」などの異年齢交流や地域の社会教育活動への参加を促進する』としている。
 また「奉仕活動を全員が行うようにする」として、『小・中学校では2週間、高校では1か月間、共同生活などによる奉仕活動を行う』と提言する。学校教育もまた「国民道徳」の涵養を第一義とし、その学習場面として「集団的合宿生活」という、「徳育涵養の場」を学校教育において拡充するよう提言しているのである。
 この提言はすでに実行に移され、長い間実施が棚上げにされていた道徳の授業の励行が強制されている。そしてそれとあわせて、文部科学省が編纂した「国定教科書」である「心の教育ノート」が子供達に配布され、それを使った授業によって、戦前の修身と同じく「国民道徳」を正しいものとして押しつけることが行われている。
 また「奉仕活動の義務化」もすでに学習指導要領によって定められ、「個の尊重」と「社会的連帯」の精神に基づく助け合い・支えあいではなく、より上位の価値に奉仕するものとしての「奉仕活動」が、「集団的合宿生活」によって実施されようとしている。
 ここで行われていく教育は、規律と集団的統制で価値観を押しつけるものであり、これでどのようにして「豊かな人間性」が養われるというのか。
 この提言の主眼は「豊かな人間性の育成」ではなく、「日本人の育成」の方に主眼があるのであり、教育改革国民会議の提言は、家庭と学校とを「国民道徳の涵養」=「善悪をわきまえる態度の育成」の場として位置付けているのだ。その上で実は、このような「教育活動」への児童・生徒・学生の抵抗を排除することをも提言しているのである。
 すなわち「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない 」として、『問題を起こす子どもによって、そうでない子どもたちの教育が乱されないようにする』ために、『教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して出席停止など適切な措置をとる』と、明かに排除の論理をうたっている。
 このように国民道徳の涵養の場となった家庭と学校を背景として、そこで「一人一人の能力に応じた教育」を名目にして、習熟度別学級編成や飛び級制の採用、そして高校での学年別での学習到達度試験の実施と、それを大学選抜試験の代りとすることが提言され、「国民道徳の強制」に素直にしたがった「良い子」の中から、それぞれの能力にあったコースを選択させ、その中からエリートを抽出すべきことを提言しているのである。
 まさしく能力の低い者や規律に従わない者は排除され、教育は全体として「国民道徳の涵養」と「国家社会の必要とする知識の習得」へと変えられるのである。

▼グローバリズムへの危機感

 ではこのような方向へと教育を改変することが、何故必要とされるのだろうか。
 教育改革国民会議報告では、報告の冒頭に「危機に瀕する日本の教育」と題して、次のように教育改革の必要性を述べている。
 「いまや21世紀の入口に立つ私たちの現実を見るなら、日本の教育の荒廃は見過ごせないものがある。いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している。
 日本人は、世界でも有数の、長期の平和と物質的豊かさを享受することができるようになった。その一方で、豊かな時代における教育の在り方が問われている。子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている。また、自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている」と。
 そしてさらに「大きく変化する社会」が取り上げられ、「21世紀は、ITや生命科学など、科学技術がかつてない速度で進化し、世界の人々が直接つながり、情報が瞬時に共有され、経済のグローバル化が進展する時代である。世界規模で社会の構成と様相が大きく変化し、既存の組織や秩序体制では対応できない複雑さが出現している。個々の人間の持つ可能性が増大するとともに、人の弱さや利己心が増幅され、人間社会の脆弱性もまた増幅されようとしている。従来の教育システムは、このような時代の流れに取り残されつつある」と、時代の急速な変化の中で「社会の危機」がさらに深化する危機感を表明している。
 つまり、大人も含めた日本人全体が「利己的な価値観」に染まり、「他人へのおもいやりも自制心」も持つこともない社会になっており、それゆえに学校が崩壊するような状況や凶悪な青少年犯罪が起きている。
 そしてこのような状態を放置したままでは、「経済のグローバル化が進展」し、「既存の組織や秩序体制では対応できない」状況が出現する時代においては、日本人のもつ脆弱性や社会の脆弱性が増幅され、「社会がたちゆかなる」という危機感が、教育基本法改正の背景にあるのだ。
 この点は、安倍官房長官などが、昨年来頻発している「親殺し」や「幼女殺し」そしてライブドア事件などに触れるたびに、「道徳観の欠如」や「金さえ儲かれば良いという観念の蔓延」がこれらの事件の背景にあることを強調し、だからこそ教育基本法の改正が必要なのだと発言していることにも相通じるものがある。
 「国家社会に奉仕する日本人」の育成を排除し、個人主義・拝金主義を広めてきた戦後教育が「社会の危機」の元凶であり、これを放置したままではグローバル化が進展する中では、「社会の危機」がさらに増幅されるという「認識」なのである。

▼「個人を尊重しない社会」が生む事件

 しかし、ここで指摘されている「学校教育の崩壊」と言える現象や凶悪な青少年犯罪、さらにはライブドア事件のような犯罪は、「個人の利益だけを追求する態度」=「国家社会に奉仕する精神の欠如」に起因するのだろうか。ここには、事件の詳細な検証を抜きにした、イデオロギー優先の政治的判断しかないように思える(ライブドア事件については本号の別項の考察にゆずる)。
 「いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊」という現象は、利己主義が原因なのであろうか。学校教育の現場でこれらの問題に取り組んできた経験から判断すると、これらの問題は、個人の利己主義的な価値観に問題があるのではない。それはむしろ個人の価値に目覚め、「自分らしさ」を追求しようとする個人を押しつぶそうとする「強制や暴力的支配」がいまだに支配的な、日本の学校のあり方や家庭・社会のありかたが問題なのである。
 そして、そのような抑圧的な社会によってつぶされそうになった個人が、傷つけられた心の痛みを社会の「現実のルール」に従ってより弱いものへとぶつけてみたり、自分自身が価値のないだめな存在だと思い込んで自分自身を苛んだりした結果起きた現象が、さまざまな「学校崩壊」の現象である。だからこのような問題への取り組みは、「道徳論」を振りまわしてその行為を断罪してみても、何も解決しない。
 いじめを行った子供は、家庭に問題を抱え、大人たちから暴力を受けたり放置されたりして、心に大きな傷を負っている場合が多い。したがっていじめの解決のためには、いじめが人の心を苛み傷つける行為であることを認識させるためにも、いじめる子供自身が自分を取り巻く環境を認識し、自分への暴力に立ち向かったり、自分自身の価値に気がつかせたりする必要がある。
 そして不登校の子供たちへの対応は、無理やり登校を促すのではなく、子供が自分自身や学校や友人や家庭をどのように捉えているのかを充分に汲み取る努力を払い、子供に寄り添いながら、子供自身が、自分が直面している問題に立ち向かっていけるように援助することが必要である。そして、その子供の家庭への働きかけを通じて、親などが子供の現状を受け入れ、よりそっていけるよう援助するしかない。
 さらに校内暴力というものは、その背景には必ず教師による暴力がある。そして学級崩壊は、そうした教師の支配が崩壊した状況なのである。したがってこれらの現象は、学校そのものを、真に子供が主人公で、教師はその援助者であるという体制を作ることなしには、根絶できないのである。
 そして多発する青少年犯罪についても同じことが言える。
 本誌05年6月号の『●板橋管理人夫婦殺害事件:児童虐待を生む「家父長制家族」の悲劇』でも論じたが、犯罪を犯した青少年の大部分は、親による虐待を受けた経験があるという調査結果も出ており、多くの青少年が、親による暴力的対応や家庭崩壊状況の中での育児放棄などの虐待や、逆に親の過剰な期待や干渉という精神的な虐待を受けている。親を殺してしまった青少年の一人一人の状況を観察してもこれは言えるし、最近、家に放火して親を困らせてやろうとして、結果として親に大怪我をおわせ幼い妹を殺してしまった少年の場合にも、同じことが言える。
 家庭が子育ての場として万全ではないために、子供達の居場所が無くなっているのである。そしてこれは、親が生活に追われ、子供のことを気にかける余裕がない時には状況は悪化し、近年リストラが横行して生活基盤が崩壊する中では、子供の置かれた状況はさらに悪化するのである。
 日本の家庭は、子供一人一人の価値を尊重し、一人一人の子供の人間性を育て、可能性を伸ばす場としては存在していない。それは頻発する児童虐待や配偶者による暴力に示されるように、男親の支配・暴力が社会的に容認された世界である。
 夫婦の諍いが起きたときに、「誰が食わしてやっているんだ」という男親の捨て台詞が長い間通用してきた場であり、子育てはすべて女親に押し付けられ、男親は社会で身をとして稼ぐ事が強制される。そんな場では、親に頼るしかない弱い存在である子供は、親の言いなりになるしかない。その中で、権威への服従と蔭での反抗、そしてより弱いものへの虐待という「ルール」を、子供は自然に身につけていく。
 また学校も、教師による支配・暴力が社会的に容認された世界である。
 しばしば中学校・高等学校において、運動部でおきる「しごき」と呼ばれる指導者や上級生による暴力事件などは、学校で日常的に起きる教師による暴力の氷山の一角にすぎない。学力だけではなく、価値観や社会的行動などの面についても子供の評価権を握る教師は、学校と言う狭い世界の中においては、しばしば独裁者となる。だからこそ、その統制下で「力こそ全て」「自分さえよければ」という価値観を学んでしまった子供達によって、子供同士のいじめや教師による子供いじめが起きるし、抵抗する術を持たない子供の自殺も横行するのだ。
 そして家庭や学校を取り巻く日本の社会全体も同じく、上級者や年長者による支配と暴力が横行する社会である。それは会社におけるいじめの存在や、親会社による下請けいじめなど、至る所にその本質が噴出している。
 日本の社会は今でも、このような様々な権力者による暴力的支配が認められた「家父長制的社会」なのである。しかし戦後の資本主義の発展は、個人の価値を尊重することを促し、個人の自立する傾向を助長してきた。しかもそれは、国家社会の主人公としての自覚的個人の尊重ではなく、経済社会の中において、金を持っている程度に応じての個人の自由の促進であったが故に、本来自覚的個人が具有する社会的連帯と社会的責任を伴ったものではなく、極めて利己主義であり拝金主義的なものになるという、歪みを伴うものであった。
 ともかく、こうした個人主義の成長は不断に「家父長制的社会」構造とぶつかり、しかもそこで成長した個人は、「家父長制的社会」が持つ「力そこ正義」「権威への服従」という価値感に染まったままであり、経済社会の進展の中で身についた「自分さえよければ」「金がすべて」という価値観にも染まり、「家父長制的社会」を乗り越える道を獲得していないが故に、そこで押しつぶされる中での鬱憤を暴力的に他者や自分にぶつけ、さまざまな事件を起こしてきたのである。
 教育基本法改正の理由とされている様々な事件は、個人を尊重しない日本社会と、それに抵抗する個人との軋轢から生じたものである。また道徳観の欠如は、個人を尊重する社会へと日本の社会を意図的に改変する努力を怠ってきたことの結果として生まれたものであり、これ自身もまた、個人を尊重しない社会と個人とのぶつかりあいから生まれたものだったのである。

▼人々の不安が呼び出した過去の亡霊

 戦後の日本は、戦前から続く「家父長制的社会」をそのままに維持して、個人を社会のくびきに繋ぎとめたままでアメリカ的資本主義を受け入れ、それを発展させてきた。
 その結果、経済的発展によって旧来の「家父長制的社会」の統制力は弱められたが、他方では個人も「個として自立」する気概も価値観も持たず、また社会的生物としての個人が互いに助けあい支えあって生きていくという社会的連帯と責任の精神もなく、自立と共生を具現化する仕組みもないまま、競争的社会の中に投げ込まれてきた。
 それでも高度経済成長が続いている間は、成長によって得た富が、まがりなりに社会の底辺にまで還流する事によって、それぞれが明るい将来をそれなりに夢見て活動することが可能であった。それゆえ、競争的社会の中で身に寸鉄をも帯びずに投げ出されていることの悲劇が、社会的に表面化することは少なかった。
 だが80〜90年代を通じた経済のグローバル化と、その流れに日本も掉さすことによって、社会の底辺にまで富が還流する社会の仕組みは徐々に解体され、競争的社会の中に裸の個人が投げ出されている現状が剥き出しになってきた。
 個人と社会とのあつれきに起因する様々な社会的事件の頻発に直面して初めて、伝統的な「家父長制的社会」が機能不全に陥り、その中での諸個人相互の争闘が激化している様を突きつけられて、日本社会が社会的連帯もない「利己主義」と「拝金主義」とにまみれた争闘の場でしかない現実に人々は気がついたのである。
 そして経済のグローバル化に伴う規制緩和と、それによる競争主義の激化は、社会の中に共有されてきた「皆で中流」という希望を打ち砕き、いつ自分が「下流」へと突き落とされるかという恐怖に人々を慄(おのの)かせるようになった。多数の不満を抱える人々を抱える社会の現実が白日の物となり、激発する社会的事件が、「社会が崩壊する」「自身が下流に突き落とされる」という集団的不安を増幅しているのである。
 だからこそ、この集団的不安に駈られた人々は、競争的社会を勝ちぬいたかに見えるホリエモンなどの「社会的勝者」にエールを送り、自分もそうなれるかもしれないという淡い期待に浸るという幻想の幸福を求めるし、社会の閉塞感を打破してくれそうな顔をした政治家を熱狂的に支持もする。
 そしてその一方で、その期待はいつ裏切られるかという不安に駈られるがゆえに、社会の中の弱いものや異質なもの、そして不当に優遇されていると映るものへとその不安が暴力的排除となって噴出する。頻発するホームレスへの暴行事件や外国人差別、そしてイラクでの日本人人質や耐震偽造マンションの被害者たちへのバッシング、公務員バッシングなどはそれである。
 そして人々の不安は、日本の国家社会のありうべき姿を求めて漂流し始めるが、グローバル化する資本主義に替わる物が未来にむけて提示されていないが故に、ありうべき姿は過去の日本の栄光の姿に重ね合わせられることとなる。
 しかし日本の過去の栄光は、血と泥にまみれている。そのままでは「理想」とは成り得ない。だからこそ歴史の偽造が行われ、アジア侵略の過去はなかったこととされ、歴史的に存在すらしなかった「武士道」が、ありうべき国民精神=国民道徳として称揚されることとなるのである。
 「国民道徳」を復活させ、それによって日本の社会の国家的再統合を果たそうと言う傾向は、このような集団的不安に基礎を置いているのである。

▼問われる「個の自立」と「社会的連帯」

 しかしこれは、人々の不安が呼び出した過去の亡霊に過ぎない。亡霊はすでにこの世に復活する基盤を失っているがゆえに、亡霊なのだ。
 教育基本法改正の政府原案で示されている「国民道徳」は、「個の自立」と「社会的連帯」の実現を拒む、「家父長制的社会」に基礎を置いている。しかしそのような社会は、すでに社会的統合をなす実効力を失っており、個人個人がぶつかり合い、社会的統合が壊れかけている中では、「国民道徳」はなんら有効性を発揮できない。「国民道徳」を規律と統制によって強制しようとする教育のしくみの確立は、ただ社会的混乱を招くだけであろう。
 そしてこれは、君が代・日の丸の強制を図るなかでますます荒廃しつつある東京都の学校の姿の中に、すでにその敗残の姿を示しているのである。
 問われているのは、グローバリズムが生み出す既存の社会や倫理観の崩壊に慄いて、既存の社会のもつ負の側面を直視せず、それを理想化しようとするナショナリズムの袋小路に入るのではなく、既存の社会組織のもつ負の側面を直視して、それを「個の自立」と「社会的連帯」の精神に基づいて組替えることなのである。
 必要なことは、家庭が真に子育ての場であるために、夫婦が共同して子育てをできるような働き方や給与のあり方を定め、夫婦を社会全体が援助していける体制を組むことである。また学校教育においては、子供が学校の主人公である事を前提とし、子供を教師や親や地域の人々の共同の力で支え援助し、子供達がお互いをかけがえのない存在として認め合う中から、さまざまなルールや知識を学んでいけるような体制を組む事である。
 そしてこのような取り組みは、すでにNGOやNPOとして各所で自主的に開始されており、国家や地方自治体がやるべきことは、これらの社会的な動きと連携して、既存の社会組織を作りかえていくことなのである。

(3月25日:すどう・けいすけ)


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