●板橋管理人夫婦殺害事件

児童虐待を生む「家父長制家族」の悲劇

―「個の尊重」に基づく社会と家族の創造―

(インターナショナル第156号:2005年6月号掲載)


 6月20日、東京の板橋区で起きた社員寮の管理人夫婦殺害事件は、15才の長男の犯行であることが分かった。少年による「親殺し」は、昨年11月の茨城県の水戸および土浦での夫婦殺害事件、同じく12月の千葉県木更津での母親殺害事件、そして今年5月の兵庫県神戸での両親殺害未遂事件と、このところ立て続けに起きている。そして事件についてのマスメディアのセンセーショナルな報道によって「おとなしい子でも何をするかわからない」「子育てに自信がなくなった」などの不安の声が巷では聞こえている。
 しかしメディアに溢れる情報は、少年の「親殺し」は何を物語るのかという、もっとも肝心なことについてはほとんど触れていない。真実は今の家族のありかたにこそ問題があるのであり、親を殺した少年はその犠牲者であり、子どもに殺された親もまたその犠牲者であるということだ。

▼事件の背景を掘り下げない報道

 「親殺し」は、わが国では「年間20件ほど起きている」(毎日6月22日夕刊・福島章上智大名誉教授の話)そうであるが、その背景にあるものはメディアではほとんど掘り下げられることはない。
 今回の板橋の事件でも報道で触れられているのは、「事件前日に父親から『おれより頭が悪い』と頭を押さえ付けられた」、「父親に土日や夏休みも(社員寮の)食事の用意などでこき使われた」、昨年12月、空き家に侵入し学校で問題になったのをきっかけに「親が厳しく冷たくなった」。そして父親の殺害を決意したのは、前日の父親との口論によって憎悪が「抑えられなくなってしまった」のだし、母親の殺害については「母親は仕事に忙しく、いつも『死にたい』と言っていた」からという。どれをみても断片的な「事実」の羅列である。
 これだけではどこにでもある話しであり、両親を殺した少年が、普段は寡黙で礼儀正しくおとなしい少年であるという報道ともあいまって「まじめなおとなしい少年がなぜ?」から「おとなしい子は何をするかわからないから恐い」という不安を煽る結果となっているのである。
 なぜメディアの報道は、断片的になってしまうのか。それは、このような事件の背景についての情報は、取調べにあたっている警察官が少年から聞き出した「事実」と、接見した弁護士に少年が語った「事実」に依拠しているだけだからである。
 しかし事件を起こした少年自身が、事件の背景を総体として捉えていることはまれであり、背景まで含めて動機を系統的に整理して話せる場合はほとんどない。少年が語る「事実」と少年の周辺を取材して掴み取った家庭環境などを照らし合わせ、少年が語った「事実」が何を意味しているのかを推理し考察する作業が不可欠なのである。
 そしてこの作業を行うには、少年犯罪と心理学・精神分析学などについての深い知識と経験が必要であり、このような知識や経験は捜査にあたっている警察官にも弁護士にも、そして報道に従事している記者たちにもほとんどないのが現状である。したがってメディアが断片的な「事実」を元にして、このような専門的な知識を持った複数の人物に事件の背景を推理してもらうような特別番組なり特集なりを組まない限り、事件の背景を深く掘り下げ、少年による「親殺し」が何を意味しているのかをメディアが明らかにすることはないのである。
 つまり少年事件を捜査する体制にもそれを報道する体制にも問題があり、それゆえ事件は断片的に報道され、不安をいたずらに煽るだけになってしまうのである。

▼「親殺し」の背景は?

 では「親殺し」の背景にあるのは何か?
 板橋の事件の犯人が長男であることが報道された時、浅川道雄・元東京家裁少年部調査官は、「時限装置まで作る計画性や加害行為の執拗性から、親子関係に何らかの問題が以前からあったことが推察される。現段階ではその問題を突き止めることが重要だ」(日経6月22日朝刊)とコメントした。
 また7月1日に弁護団が記者会見した際に、弁護士は「この事件は親子間の葛藤の問題なので刑事事件にしないでほしい」との趣旨の発言をしている。
 つまりこの「親殺し」は、親子関係の問題に起因している事件だということだ。しかし報道では、これ以上突っ込んだ指摘はされていない。
 では親子間のどこに問題があったのか。
 端的に言ってこれは、親による子どもの虐待を背景にした事件なのである。
 児童虐待にはさまざまなケースがあるが、概ね4つの種類に別けられる。一つは殴る蹴るなどの身体的虐待。さらに養育放棄による虐待。そして過剰な期待をかけることなどによる心理的虐待。最後は子どもを親の性欲のはけ口とする性的虐待である。「親殺し」は長年の虐待に耐えかねた子どもが、ある出来事をきっかけにして殺意を暴発させて起きる事件なのである。したがって背景にあるのは親の暴虐性。子どもを自己の所有物のようにあつかっていることに問題の原因があるのである。
 今回の事件でも、断片的な「事実」はこのことを示唆している。
 少年は長い間親の仕事の手伝いをさせられ、中学生になってからは管理人の仕事の多くを押しつけられていたと言う。そして少年の腕には父親によってつけられた傷があったことも報告されている。さらに父親の転勤に伴う転校によって、少年は友達という外部の心の拠所も失っていると報道されている。
 これは、父親が少年を自己の所有物のようにあつかって身体的虐待を行っていた証拠であり、少年の口から母親への愛が語られていないことから母親もまた少年の心の拠所になっていたとは考えられず、相次ぐ転校によって少年が友達を持てなかったことは、彼が家庭以外の逃げ場すらなかったことを示している。だからこそ少年は以前から、親に対する殺意を「友人」に語っていたのである。
 さらに少年が父親に対する殺意を押さえられなくなった直接のきっかけは、事件の前日に「お前はおれと違って頭が悪い」と言われたということである。「この程度のことで」と思うかもしれないが、過去の「親殺し」、とりわけ青少年の「親殺し」に関する新聞記事などを通読して見ると、親に「頭が悪い」「馬鹿だ」「この程度の学校にしか入れないのか」「お前は役立たずだ」という言葉を浴びせられたことを直接のきっかけにしていることは多い(赤塚行雄編『青少年非行・犯罪史資料』@〜B:1983年:刊々堂刊など参照)。これらの言葉は、親によって少年の全存在が否定されたに等しいのである。
 板橋の両親殺害事件は、親による子ども虐待を背景にしておきた事件であり、少年は虐待の被害者である。そしてこの虐待は、親が子どもを自己の所有物のようにあつかう家父長制家族のありかたそのものが原因になっているのである。
 そして同時に親による子どもの虐待は、昨今増加している「子どもが子どもを殺す事件」の背景であることも忘れてはならない(この件については、本紙146号:2004年7月号掲載の「少女の殺意は親に向けられていた―佐世保同級生殺害事件の真実」:に詳述した)。

▼防衛される家父長制家族

 では児童虐待や「親殺し」などの虐待の結果としての犯罪が起きた時に、なぜこの家族のありかたの問題が語られないのか?。
 児童虐待の問題が様々な精神病理や犯罪の背後にあることを最初に明らかにしたのは、高名な精神分析家のフロイトである。彼は1896年に出版された「ヒステリー病因論」という論文で、彼があつかった18人のヒステリー患者の全員が例外なく子ども時代に年上の兄姉や親から性的暴行を受けていたと、治療の過程で記憶を手繰り寄せて語り始めたことを報告している。そしてフロイトは同論文において、これらの患者が幼児期において性的虐待を受けていなかったら、ヒステリーと言う病気になることもなかっただろうと明確に述べたのである。
 しかし彼はこの歴史的発見を1年後の1897年に自らの手で否定した。そして彼が代わりに提出した仮説が「衝動理論」、すなわち子どもには幼児性欲があり、異性の親を独り占めにして同性の親を排除しようとする傾向(これがエディプス・コンプレックスである)を4才児ごろにもっとも強めるという理論だった。つまり「衝動理論」によれば、ヒステリー患者が治療過程において幼児期に親または年上の兄姉に性的虐待をうけていたと語るのは、自己の欲望を他に転嫁して語っているに過ぎず、児童虐待などということは存在しないと解釈される。
 ではなぜフロイトは自分の発見を自らの手で葬ってしまったのか。
 それは彼が発見した児童虐待は、その時代にも通常のことであった「家父長制家族」の為せる技であり、父親だけが絶対的権威を持ち、妻や子どもという家族を自己の所有物のようにあつかうという世間一般の家族形態が必然的に起こすものだったからである。ヒステリー症という病気、さまざまな犯罪の原因ともなる病気の背後に子どもを虐待する親の存在があることを指摘することは、社会で一般的な家族制度を槍玉にあげ、その解体を示唆する危険な思想と見なされる恐れがあり、危険思想の持ち主としてフロイト自身が社会的に抹殺される怖れがあったからである(以上は、アリス・ミラー著『禁じられた知―精神分析と子どもの真実』1985年:新曜社刊による)。
 そして以後、精神分析学・心理学で「衝動理論」は定説になり、児童虐待が様々な神経病理や犯罪の背後にあることは覆い隠され、家父長制家族は救済されたのである。
 この19世紀末期のフロイトが置かれた状況は今日でも続いている。家父長制家族はいまだに通常の家族形態であり、それを防衛するフロイトの「衝動理論」は今でも精神分析学と心理学における多数派である。この理論が臨床的事例に反しており、それ自身が家父長制家族による社会的圧力によって生まれたことを喝破したアリス・ミラーも学会から非難され、社会から葬られたぐらいである。

▼近年にも残る家父長制家族の防衛

 しかし近年、児童虐待はもはや無視しがたいほどの状況になっており、2000年に児童虐待防止法が制定されて問題の深刻さが周知された結果として、児童相談所への相談例もうなぎ上りに増えている(東京都の児童相談所でも平成3年から12年までの10年間で、相談件数は15.4倍、件数にして1940件となっている。「児童虐待の実態―東京の児童相談所の事例に見る」東京都福祉局平成13年
 http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/press_reles/2001/pr1005.htm  )。
 さらにさまざまな調査研究がなされ、最新の情報では、青少年非行と児童虐待が極めて密接な関係にあることが厚生労働省の調査でもあきらかとなっている(全国児童相談所長会が昨年10月に全国182の児童相談所を対象に、2003年度に盗みや家出・外泊などの非行相談を受けた1万千人について背景を調査。親などの虐待を受けた経験があると答えたのは全体の30%。身体的虐待が78%、養育放棄が73%、心理的虐待が50%、性的虐待が32%であった:日経6月27日夕刊による)。
 しかしさまざまな虐待についての調査を読んで見ても、虐待を行う家庭の特殊性を強調するだけで、現代においても多くの家庭においておこりうるという指摘はまったくなされていない。しばしば児童虐待と平行しておこる配偶者による暴力(ドメスティック・バイオレンス)との関連性の指摘もない。そしてその根拠は、相談事例数の全児童数に対する数の少なさなどである。
 前記東京都の調査でも、虐待を受けた子どもは千人に0.7人であるので「どの家庭でもおこるというものでない」とし、相談自身が氷山の一角であることを無視している。また虐待をした親の中で親自身が虐待を受けていた例は9.1%にすぎないという結果から「虐待の世代間連鎖」を否定しているが、これはひどい虐待の場合は子どもはそれを認識することすら拒否するという精神分析の実例的な常識をも無視している。
 さらにはこの調査にもあるように、児童相談所に持ちこまれた虐待の80%は身体的虐待で心理的虐待はゼロという実態も、虐待は普通の家族でも起きることを押し隠してしまっている。発見される虐待、そして虐待された子ども自身によって認識される虐待は身体的虐待が多く、心理的虐待や性的虐待は、子ども自身の自己防衛本能によって意識の表面からは追放され、なかったことになるのが通例だからである。そして親の期待による重圧という心理的虐待は多くの家庭において通常起きていることであり、この心理的虐待を除外した分析は、虐待は特殊な家庭においておきるものであるという結論になりがちであり、現代における通常の家族形態である家父長制家族自身が必然的に起こす問題が虐待であると言う認識を広げるさまたげになっているのである。
 今でも家父長制家族は社会的に防衛されており、この家族形態が社会的常態であり、その問題点を指摘することは、社会を崩壊に導く危険思想であるという隠された常識があるがゆえに、虐待や青少年犯罪に専門的に携わる人々の口をも重くし、家父長制家族の問題点のなせるわざが児童虐待であり、その結果としてさまざまな精神病理や犯罪が起きていることを明確に指摘する声は、社会的に圧殺されているのである。

▼拡大する家父長制家族の矛盾

 しかし、いつまでも臭い物に蓋をしているわけにはいかないのである。
 前記の厚生労働省による青少年非行と虐待の関係の調査でも、非行の背景には30%の虐待を受けた子どもがいた。そして虐待、とくに心理的虐待や性的虐待は子ども自身が認識することは少ないし、周囲に知られて通報されることも少ないことを考え合わせて見る時、青少年非行の背景に占める虐待の比率はもっと高いはずである。
 そしてさらに重大な犯罪においては、背景として親による子どもの虐待の占める割合はもっと高いはずである。
 青少年非行・犯罪は近年増える傾向にあり、人口千人あたりの犯罪率もとりわけ80年代以降急上昇している(前田雅英著『日本の治安は再生できるか』:ちくま新書2003年刊)。また今問題にしている「親殺し」については、系統的な統計がないのであるが、前記の『青少年非行・犯罪史資料』や新聞の縮刷版などを参考に作成されたネット上の「少年犯罪データベース」 http://kangaeru.s59.xrea.com/ を参考にして見ると、それまでは10年間に20件程度だった青少年による「親殺し」が、80年代以後急増し、以後は10年間に30〜40件にも達しているのである。
 前記『日本の治安は再生できるか』の中で著者の前田氏は、80年代の青少年犯罪の増加を次のように評している。「この時期の少年犯罪の特徴は『いきなり型』である。…『悪い行為を抑制する機能』が少年の中に教育されてきていない。…日本社会の犯罪増加の根に横たわる基本的な要因は、戦後にもなお残存していた戦前からの社会・地域・家庭の規範が徐々に崩されていき、そのようなプロセスの中で教育を受けたものが親となり、さらに規範の破壊を助長したことによるように思われる。そして一時期もてはやされた規制緩和論・競争至上主義もそれを加速したといえよう」(同書p135)と。
 この分析の「戦前からの社会・地域・家庭の規範」が、家父長制家族を基本とする旧来の日本社会の規範であることは言を待たない。そしてこれが破壊されて行く過程である1960年代から80年代は、日本におけるフォーディズム資本主義の受容・拡大過程であり、欲望の拡大と無制限の消費の拡大という市場主義に基づく日本社会の再編過程であったことも明らかである。その過程で、父親が妻および子どもを自己の所有物であるかのようにあつかう家父長制家族は徐々にその基盤を失っていったわけだが、家父長制家族を基盤とする経営形態や雇用形態そして教育や福祉制度などの社会制度は依然として存続し、これと共に家父長制家族にもとづく親子関係に関する価値観も存続し、それがまた家族を縛る状況が続いてきたのである。
 父親の稼ぎだけで一家が暮らすことができなくなり父親の権威は実態としては崩壊しているのに、家族を所有物としてあつかう価値観は存続し、父親も家族もその価値観に囚われる。それゆえ児童虐待もドメスティック・バイオレンスも、この過程でかえって増大すると言う逆説的状況が生まれたのではなかろうか。
 そして80年代以後の規制緩和主義・競争主義の導入は、フォーディズム資本主義の導入によっても温存された家父長制的諸制度を、新たなる国際標準=グローバル資本主義の競争主義・市場主義によって最後的に解体・再編成をはかるということであり、伝統的な家父長的家族とそれを基盤にする社会は深刻な危機に陥っている。
 いまこそ真に望まれるのは、家父長制家族に代わる新しい社会と家族の形態とその価値観の形成である。その基本は、一人一人が同じ権利をもった自立した個人だという考え方である。自立した個人どうしが協力して家族をつくり、家族の自立を助けるために互いに助けあう場であるという価値観と、その家族を地域社会が包み込み人々の相互の援助と共同で支えるという価値観である。
 これを作っていくための取り組みが、社会の様々な場面でなされることが真に問われているのであり、そのためには家父長制家族がもたらす悲劇にまっすぐに向き合い、その問題点を抉り出し、どのようにしたら虐待を防ぐことが出来るのかを考え、そのための社会制度を構築する作業が不可欠なのである。
 この作業によって家父長制に代わる新しい家族とその価値観が形成されないかぎり、グローバル資本主義の展開によって攻撃されればされるほど、人々は旧来の家父長制的価値観にしがみつこうとするだろう。そしてそれは、親の期待という重圧をますます子どもにかけるであろうし、暴力的な虐待が増え、結果として「親殺し」などの悲惨な犯罪を今後も増加させると言うことを意味しているのである。

(7/10:すどう・けいすけ)


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