●江藤さん追悼

 最期まで国労に思いを寄せていた

                            千葉 茂

(インターナショナル第228号:2017年8月31日発行掲載)


 江藤さんと初めて親しく話をしたのは、新橋の居酒屋だったと思います。国鉄の分割・民営化に反対して闘い続ける国労組合員が「人活センター」に追いやられていた頃で、国労組合員を支援する集会に参加した帰りです。
 とりとめのない話のなかで私が「三里塚反対同盟も全国に支援をお願いするだけでなく、国労がんばれと野菜でも贈って激励して交流すればいいのにね」と話をすると盛り上がりました。
 その直後、「労働情報」に国労組合員の久下さんの記事が載りました。「品川の人活センターに三里塚の婦人行動隊から荷物が届いた。組合員は爆弾でも入っているんじゃないかといいながら開けたら激励文と薩摩芋が入っていた」という内容だったと記憶します。笑ってしまいましたが、おしゃべり江藤めという思いでした。
 その後、国鉄闘争の集会やイベントの後は必ずのように一緒に居酒屋にむかいました。
 協同組合のシンポジウムが開かれたときです。各地の国労闘争団も地域おこしの事業を開始したり、物販などを開始した頃で、その報告をしました。
 帰りに、私が「これで国労闘争団も負けないで闘い続けられる基盤ができたね」と感想を述べました。直後の「労働情報」のシンポジウム報告記事の冒頭にこの発言がそのまま引用されていました。取材記者は記事を書くとき、勝手に他者の発言を盗みます。

 江藤さんは、労働現場からのリタイヤ組のサロン「現代の労働研究会」の事務局を担っていました。2015年初め、体調がすぐれないということで私がバトンタッチをしました。
 2015年秋、江藤さんから電話がありました。「国労東京駅分会が従業員代表選挙でおもしろい闘争をしたから研究会でその報告をしてもらったらいいよ」。
 JR東日本には子会社・株式会社JR東日本ステーションサービス(JESS)があり、東京駅では約270人が働いています。そこにはプロパー以外にJR東日本からの国労や東日本労組員などの出向者もいます。
 選挙後に発行されたパンフレットです。
「昨年(2014年)秋、内勤室に張ってある『時間外労働に関する協定届』を見て、1人の国労組合員が変なことに気づきました。JESS東京駅営業所のように、労働者の過半数が加入する労働組合のない事業所では、就業規則で決められた労働時間を超えて時間外労働を命ずるには、そこで働く労働者が『過半数代表者』を選び、その代表者と協定を結ぶ必要があります。
『おかしいぞ』?? 過半数を代表する者の選出方法は、『挙手による』となっていて、代表者の名が書いてあるのですが、『俺たちは手を上げてこの人に決めたこと、ないよなあ?』
『会社が勝手に俺たちの代表者を決めてるんじゃないのか?』調べてみると、私たちが選ぶことになっている『過半数代表者』を会社が一方的に指名していることがわかりました。」

 ここから闘いが始まりました。結果的には僅差で負けましたが雰囲気は職場に活気を取り戻しています。パンフレットのタイトルは「ありがとう」です。
 “首謀者”は久下さんです。連絡をとり、報告をしてもらいました。
 研究会での久下さんの報告の状況を翌日江藤さんに電話で報告すると「国鉄闘争はまだ続いているだろう。国労は負けてないだろう」と嬉しそうでした。

 今年の初め、北海道の鉄道の多くが廃線になるというニュースが流れた時です。江藤さんから電話がありました。「今、国労の書記長は高崎地本出身の唐沢さんだから研究会に呼んで話をしてもらったらいいよ。彼らは政策の対案をもっているはずだよ」。
 唐沢書記長に報告をしてもらいました。「国鉄の駅があるところから町は作られ広がっていく。駅がなくなったら町は消える。駅と線路をなくしてはいけない」住民の側に立った鉄道の役割をうち出した対案です。
 翌日、江藤さんに電話で報告しました。「さすが国労高崎だろう。他の国労と違うだろう」と繰り返しました。そして「対案を出すのは国労高崎にしかできない、これで全国的運動を展開したらまた出番がくる」とも話していました。

 今年の春、江藤さんが「先駆」に連載開いていた「労働情報あゆみ」について終了するという告示がありました。
 さっそく電話をしました。
 「まだ国鉄闘争、○○について、△△については触れられていないよ」というと「もう体力の限界だよ、無理だよ」という返事でした。
 後日、電話がきました。「実は国鉄闘争については不充分だという意見は他からもきている。それで国鉄闘争について書いて終わりにする。だけど国鉄闘争について書くには、73年3月の上尾騒動から掘り下げなければならないと思っている。国労高崎は上尾騒動の総括をきちんとしたからその後頑張ってこれたんだよ」という話から「当時の青年部長の石田精一ってすごい感性の持ち主のオルグだったよな」という話になりました。石田さんから上尾騒動について何度も話を聞かされ、資料も見せられたといいます。「上尾騒動について書かれた本『箱族の街』を持っているよな、送ってくれよ。それを参考にして書くよ」ということでした。すぐに送りました。
 しかし体調が急変したのはその後まもなくでした。

 今頃は、もう一度直接石田さんにお会いして上尾騒動の話を聞き、原稿を書き始めていると思われます。


民主主義topへ hptopへ