●江藤さん追悼

江藤正修さんとは飲み屋通いをしたっけなあ

                                                               名古屋哲一(旧郵政4・28ネット)

(インターナショナル第228号:2017年8月31日発行掲載)


 江藤正修さんの長年・多岐にわたる活動の足跡をたどるのは「10・7偲ぶ会」(10・8と記したのは誤りです)にお譲りすることにして、ここでは、わずか10年程に区切っての、しかも記憶力貧弱なボクによるそこはかとない思い出の綴り文にすぎないことを、読み進めようとする人にはまず覚悟していただきたい。
 5歳年上の江藤さんと35歳のボクが“しょっちゅう顔合わせ”を始めた1985年秋、それから95年夏頃まで、基本的に“しょっちゅう赤提灯行き”が続いた。「会議が終わったからサア飲みに行こう」とか「今日は会議がないからサア飲みに行こう」てなぐあいで、二人で、ないしは労働情報関連等々の仲間たちと一緒に、よくもまあ飽きもせず! おかげで実に多様な人々と巡り会えたし、まじめな論議を延々としたりして笑い合ったり会議の確認を変更しようということになったり、またよもやま話や冗談を延々として笑いあったり“文化的かつ世迷い言的ことがら”に思いを至らせたり、飽きる暇がない程楽しく刺激的な交流の場でもあったんだと思う。

 85年秋というのはボクが「全国労組連(労働戦線の右翼再編に反対し、闘う労働運動を強める全国労組・活動家連絡会議)」・・・88年2月からは「10月会議」へ衣替え等・・・の一人事務局専従になった時で、翌年に新橋(後に神保町等)の「労働情報」事務所へ移転、ず〜っと同居することになった。77年発足の「労働情報」に江藤さんは初めから事務局専従として参加し(90年代に編集長、04年まで)、当時の「労働情報」の運動体的性格やオピニオンリーダー的役割に尽力していた。
 85年以前の話にもちょっとだけ触れておく。70年安保闘争時代に、彼は「埼玉県反戦青年委員会事務局長を“主体と変革派”に所属して担い、74年に“第4インター”に加盟した。「労働情報」は78年の“三里塚管制塔占拠闘争”や、79年の“郵政4・28処分、撤回闘争(58人の懲戒免職等に反対した28年間争議は全逓本部の敵対をはねのけ07年に大勝利した)”や、
87年・90年の“国鉄1047名の首切り、民営化反対闘争”等を大キャンペーンし、89年の“全労協結成”への傾注や、89年“ベルリンの壁崩壊”や92年の“政界再編に抗した参議院選挙(内田雅敏候補)”など、激変する時代を駆け抜けていった。これらも皆、酒席の話題になった。

 情勢的には下り坂が続いたけれども「そのうち反転攻勢!」との想いは変わらず明るい表情は維持された・・・・78年結成の“労働情報全逓交流会”、そして“郵政全協”や“郵政全労協”へと基本的に同一の歩みを進めてきた仲間たち、現在その多くは“郵産労”と統一した“郵政ユニオン”に至っている。付言すると、91〜2年“郵政4・28ネット”結成を前後しての東京総行動への再参加や、95年1月神田に新設の“郵政共同センター”の事務局担当等の変遷もあった。
 その後江藤さんとの飲み会の回数は減っていったが、00年の”国鉄4党合意反対闘争”の時期にはまた増大した・・・・(なお、80年代末に“第4インター日本支部”は無残な3分裂・4分裂をしてしまい、江藤さんとボクは“MELT”に所属した。ここでも会議の後は必ず赤提灯)。

 都内の事務所に入り浸るようになった85年頃のボクは、基本的には、「障害者」運動とか三多摩労働運動とかの、限られた空間での経験しかなかった。「労働情報」で提案・提起などを書いている人々は天上の人のように思うイタイケナ青年だった。江藤さんからの“労働情報の歴史”やら“各労組・地域運動の解説”やら“諸会議での諸発言の背景にあることの分析や説明”などが懇切丁寧になされていなかったとしたらと思うとゾッとする。多少年上でも年下でも、“皆同世代のお友達”感覚だったボクが、今あらためて思い返してみると、彼はボクの“お師匠サマ”だったのだ。これらのレクチャーは、もちろんもっぱら赤提灯で行われた。
 “政治・経済・哲学史”といった本質論ではなく、具体的状況分析にたっての“戦略や方向性の提起”といったグッと深くえぐる話が多く、“細かい組織的戦術論”といった細部までの言及は少なかったように思う。おおらかな内容の語りだった。「人間が好き、人間に関心をもっている」と言って、「悪い奴は悪い奴、良い奴は良い奴」との急進主義的傾向をもっていたボクに対し、「悪い奴でも良い奴でも、相手を内在的に理解することが大切と思う」と述べ、“さすが!!”と感心させられたりもした。
 ボクら二人には、“セクト主義的感情から100%自由”とまでは言えなかったとしても“内ゲバ大嫌い”“嘘つき大嫌い”の共通感覚があり、安心して何でも語り合える場を創り出していた。91年5月、8年間の結婚にピリオドを打ち彼女は胸を張って外国への旅立ちをした。悲しく混乱した胸の内をボクは何人もの友へ吐露し続けたが、10回以上だったか20回以上だったか最多の聞き役・慰め役を果たしてくれたのも江藤さんだった。よくもまあ飽きもせず!・・・・まあ「労働情報」事務所へ行くまでは、ボクはほとんど飲まないイタイケナ人だったのだから、赤提灯通い人へ変質させてしまった彼(及び「ヘイちゃん」事務局長等)に、これくらいの責任・お付き合いをしてもらっても罰は当たらないだろう。

 95年以降は長くなるので割愛。17年5月24日に72歳で永眠する直前まで、ジャーナリストでもあった彼は筆を武器に闘い続けた。06年「戦後左翼はなぜ解体したのか」と10年「20世紀社会主義の挫折とアメリカ型資本主義の終焉」(寺岡衛著・江藤編集)、09〜11年のレイバーネット連載「江藤正修の眼」、14年「大阪中電と左翼労働運動の岐路」(前田裕晤著・江藤編集)、15〜17年フロント“先駆”連載「労働情報・運動史」。江藤正修だからこその著作の数々、赤提灯とは別次元での多彩な諸関係と体験の蓄積が輝き続けていくだろう。72年間お疲れ様でした。そしてどうもありがとう。
(17.8.23)


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