辺野古基地建設 政府の二重性

(インターナショナル223号掲載:2015年12月号)


一人二役

 10月13日、翁長沖縄県知事は辺野古基地建設の埋め立て承認を取り消した。通常、決定権者の知事が承認取り消しをしたのだから埋め立ては止まる。しかし14日、沖縄防衛局は国土交通省に取り消し無効を求める行政不服審査請求とその採決までの取り消しの効果を停止する執行停止申立をした。国交大臣は取り消しの効力を停止した。
 それを受けて11月2日、知事は国地方係争処理委員会に審査を申し出た。12月24日、国地方係争処理委員会は、国交大臣の決定は審査対象に当たらないとして知事の審査申し出を却下した。11月25日、知事は国を相手取って「抗告訴訟」を起こした。
 行政不服審査法はどのような法律か。
「第一条 この法律は、行政庁の違法又は不当な処分その他公権力の行使に当たる行為に関し、国民に対して広く行政庁に対する不服申立てのみちを開くことによつて、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図るとともに、行政の適正な運営を確保することを目的とする。」
 不服申立てができる法の対象は「国民」。防衛省は行政庁で国民ではない。しかし防衛省は同じ政府内の国土交通省に行政不服審査を申し立てた。法の趣旨に反する。国交相が取り消しを認めたならば内閣不一致となり、国交相の首がとぶ。
 ここまで日本では「国民」がお上の政策への異議申し立てさえも基本的に道が閉ざされてしまった。
 もう1つ、知事の埋め立て承認を取り消しに対して、政府は10月27日、知事に代わって代執行手続き入りを表明、国交相はその手続きとして11月17日、知事を高裁に提訴した。地方自治への挑戦、破壊である。だから、政府の姿勢に対して全国の自治体から反対の声が上がっている。

 この政府の沖縄・辺野古基地への対応について、10月14日の「ニュースステーション」のコメンテーターは、防衛庁はきちんと説明責任を果たすべきという解説とともに、土地収用法の適用に反対して闘われた「蜂の巣城の闘い」の指導者室原知幸氏の発言を紹介した。

 蜂の巣城の闘いとは、55年末に九州地方建設局が熊本県と大分県にまたがる筑後川の水源近くにダムを建設することを決定して測量を開始したことに、地主の室原氏の指導で住民が山に砦を作って立て籠って抵抗を続けた闘争。
「土地収用法ちゃ現代の赤紙たい。ばってん、今は民主主義ん世の中じゃろうもん、赤紙の中身をおれたちゃ調べる権利がある。公共性ちいえばおりどんが懼れるち思ったら大間違いぞ」(松下竜一著『砦に拠る』)

 土地収用法は公共事業のために土地取得を行うに際し、事業主が任意取得できない場合に強制力を加えて収用する手続きを謳っている。この時は建設省が事業主体で、土地収用法にもとづく事業認定を行って工事を強行した。

 室原氏は土地収用法に抵抗する根拠を語る。
「建設省はここを土地収用法で取り上げようちしよるとじゃが、それはこんダム事業が公共性を持っちょるこつを国に認定してもらわにゃならん、いい加減なもんぞ。考えちみい。九州地方建設局長上ノ土が出す申請書に建設大臣村上が認定ん判をつこうちゅうじゃき、一人二役たいね」(『砦に拠る』)

 身内での手続きの滑稽さを指摘している。民主主義や厳格な手続きや判断からは程遠い制度だが、本質は辺野古基地の問題と同じで、お上のやることに逆らうなということである。


土地収用法が自衛隊基地建設・拡張を止めている

 土地収用法はどのような法律か。
 戦前の土地収用法は、旧憲法下の法律群のなかでも際立って中央集権的性格を持っていた。戦後の土地収用法は1951年に制定された。

「1950年から51年にかけて、非武装平和発展の法の制定が2つあった。1つは旧軍港都市転換であり、2つは土地収用法の全面的改正であった。前者は、横須賀、呉、舞鶴、佐世保の給軍港都市を平和産業文化都市に転換するために、旧軍港財産を優先的に利用することを決めたものであった。その第二の土地収用法の全面改正では、同法第二条にあった、国防もしくは軍事に関する事業、および皇室の陵墓、神社の営建のために国民の土地を収用することは憲法違反とされ、削除されたのである。この二法は、軍事基地拡張のための土地取上げ反対闘争の法的支えとなり、とくに自衛隊基地拡張のための土地収用法の発動をおさえる支柱になっている」(憲法学者星野安三郎の論文を羽仁五郎著『都市の論理』が引用)

 55年に茨城県小川町の百里基地に防衛庁は航空自衛隊ジェット戦闘機実践基地の建設計画をたて、戦後入植した開拓農民の土地を奪おうとした。これに対して農民は反対同盟を結成して闘う。

 一人の農民が語る。

「今度は土地を出せ、今度は帰ってきて食料増産しろ、また土地出せ、そうくりかえしていたんではね、床の間の置物みたいにな、都合でそっちさもっていかれ、こっちさもっていかれたんではな、人間の値打ちを自分で放棄しているみたいでな。そういつまでもいうことを聞いていたのでは人間として認められない。土地を出せ、金を出せ、今度は命を出せってことになると思うんだ。ここで屈服すればふたたび戦争だから。赤紙一枚で子供たちや孫が引っ張っていかれるということだと思うんだよな。絶対に屈服できねえことだな」 (『百里農民の昭和史』三省堂刊)

 防衛庁は再三、土地収用法の適用をほのめかしたが適用はできない。
 64年10月、基地の中に土地を持つ8人の農民によって反対同盟が再建された。そして65年3月に「一坪地主運動」が開始される。2戸の反対同盟から提供された共有地は滑走路と平行に走っている誘導路の敷地に食い込んでいるため誘導路は今も「く」の字に屈曲している。
 誘導路を機能させていないのは憲法9条と軍事基地建設、拡張のためには適用されない土地収用法と反対を地主・支援者らの闘いである。
 しかし92年に成立したPKO法案に付随する100条からなる「雑則」の中にこっそりと「自衛隊による土地の強制使用」が盛り込まれている。今後、「雑則」が憲法を支配することのないよう注意していく必要がある。

 米軍基地の建設、拡張、強制使用のためには、52年の日米安保条約締結と同時に「安保協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法」を制定された。この特措法では、収用法の起業者が防衛施設庁となり、使用、収用の認定は内閣総理大臣が行う。やはり一人二役。
 56年の砂川基地拡張は反対運動が展開される中で特措法が適用された。61年には神奈川県相模原市の米軍住宅建設計画に対する住民の反対運動に対して適用された。
 しかしその後は82年に、「復帰」後の沖縄米軍基地に適用されるまでなかった。理由は、本土の米軍基地は沖縄への移転・集約されていったということである。
 「復帰」から20年が過ぎると米軍基地の強制使用を拒否する地主の闘いに特措法が適用され、嘉手納基地などの反戦地主の闘いは今も続いている。

政府の巻き返し

 今回の政府の沖縄県への攻撃・対決は地方自治の否定、そして沖縄の人たちの闘いへの弾圧による屈服の強制である。戦前の中央集権的支配体制が敗戦によって崩されたと言われてきたがいつのまにか“復権”している。

 大正デモクラシーを経て藩閥は後退し、政党が権力の中心を占めていく。官僚は官立大学出身者が担っていく。30年・31年の恐慌でカルテルが急増し、その指導権は財閥資本が握っていく。機械化、合理化が進むと大学、専門学校新卒の管理職が工場を統括し、それまで管理職であり技能の伝播者であった熟練工は位置を失っていく。軍隊においても藩閥が解消し陸軍・海軍学校出身者が出世を果たしていく。
 官と軍の対立が激化していくが、戦時においてはどちらの勢力においても学卒者は自分らと後継者を安全なところにおくという共通認識が存在していた。もう1つの共通点は、戦時中、早期に家族を個人的に安全なところに疎開させた。
 これが大正デモクラシー後から15年戦争に至る過程で完成した国家体制機構である。これを支えたのが15年戦争の最中、省資源で生産力を発展させ、社会構造の合理的再編を主張して登場した「革新官僚」と呼ばれた勢力。

 敗戦後、民衆は生活のために、そして平和と民主主義を掲げて立ち上がる。
 45年9月から、GHQの占領が開始されるが、それまでに「戦犯」たちは戦争推進・加担に関する書類を焼却し、さらに地方機関にその通達を出して保身を図った。戦争でしこたま儲けた財閥資本も、さらに政府から軍需未払金や注文撃ち切による損害賠償金の支払いを受けたり資産隠しに奔走した。
 GHQによって、天皇制は変更させられ、軍隊は解体するが、民衆支配のために官僚機構は温存された。「公職追放」になった官僚は数人でしかなかった。その中で台頭してきて政府の政策をけん引したのが「革新官僚」たちだった。
 では労働者・労働組合はどうだったか。
 生活不安から労働組合の結成は相次いだ。戦前・戦中の組合活動家が組織化を開始するが多数派にはなれなかった。戦時中の産業報国会をそのまま改組したり、会社がGHQの労働組合育成の方針に従って体裁を整えたものも多くあった。同一の職場の労働者丸抱え方式で、個人の自由な選択による参加ということではなく、指導部からの指令に同調的に従うことになった。このあり方は現在でも踏襲されている。
 そのような中で、生活困窮からの脱出のための、産業復興政策はGHQ・政・使・労の共通認識となって推進されていった。そしてその構造は後の生産性向上運動、経済成長至上主義へと進んでいく。
 さらに安全地帯にいて生き残った者たちの血縁者が、政治家の跡取りとなっていく。
 50年6月25日、朝鮮戦争がはじまると、警察予備隊(現在の自衛隊の前身)が創設され、自衛隊として再編されていく。

 このようにみると、戦前の体制は官僚機構を中心に基本的なところでは維持されたのである。民衆が生活や平和、民主主義を掲げて運動を展開するときに姿を隠しても、民衆の運動が後退、停滞した局面では焼き直しをして登場し、回帰をめざす。
 例えば、戦後、地方自治の精神が生かしたものとして土地収用委員会、農業委員会、教育委員会があげられた。協議においては地域の特性を生かし、地元住民の意見を聞くために委員の構成はその地域住民から選出された。協議は法律解釈の論議をするのではなく、地域に基づく政策推進や利害関係を調停する役割を大きく持っていた。
 しかし間もなく教育委員会法が改正されて自治体の首長が委員の任命に介入するようになり、地方行政の一部署にされようとしている。農業委員会の役割だった水利等の抗争などはほとんどなくなり、今は農地は売買、転換の承認機関となっている。土地収用法は適用が難しいというということになると、その前に札束が動く。このようにして中央集権化は進められる。

沖縄を犠牲にした“繁栄”

 大正デモクラシーは、朝鮮半島への侵略による繁栄のもとで展開された。それに味を占めて満州に侵略し、資源を収奪して15年戦争を続け、敗北を帰した。最終局面では沖縄が“捨て石”にされた。
 戦後、GHQによって本土は武装解除されたが、沖縄は米軍によって基地化が進められた。サンフランシスコ条約が締結されてGHQの占領が終っても米軍の支配下に置かれ続けた。72年の「復帰」後も、「冷戦」時代が終わってもその状況は続いている。さらに本土からの米軍基地の集約が進められていった。
 日米安保条約の庇護のもとに日本経済は発展したと言われているが、それは沖縄を犠牲にしたうえでのものであった。本土では沖縄の人たちの戦争体験を自分たちのものと受け止めることはしない。いまも沖縄は“切り離されて”いる。
 常にだれかを犠牲にして繁栄してきたという認識を、戦前の体制を踏襲する政府は現在に至るも持つことはない。だから、アジア各国への不完全な戦後補償も沖縄への犠牲の強制にも関心がなく、それよりも批判や不服従は許せないという姿勢である。
 沖縄への「上から目線」の視点は戦前から維持されている官僚機構の姿勢そのもので、上からの支配・管理の対象でしかないのである。それはまたヤマトの沖縄支配の継続ともいえる。この構造を沖縄から見たならば、差別としか映らない。

 現在の政治体制は、敗戦で民主的改革が行われた状況下に存在するのではなく、自衛隊の変遷などを含めると、戦前・戦中の体制が基本的には壊されることなく維持されてきているということを見逃すことはできない。
 そして、格差社会が拡大して多数の“リッチ”と少数の“ミゼラブル”への二極化が進む中で、“リッチ”のための政治が「公」となって強行されていく体制が公然と登場し推進されて重なっていく。
 本土の多くの人びとも、このような状況を受け入れて放置したり、無視したり、意識を向けることがなかった結果が現在の問題を引き起こしている。同時に、気が付いた時には勝ち取ったつもりの「民主主義」が奪われてしまっていた。

民意を“復権”させる闘いを

 しかし、戦中・戦後を通じて一貫した「戦中」だった沖縄の人たちは、民主主義の「恩恵」を享受できることはなかった。現在の生活が戦時中の体験になっている。
軍事基地に公共性はなく、生活・生存に敵対するものでしかない。これは“肌感覚”となっている。
 辺野古はまさに「かけがえのない景観、風致、文化的価値や環境の保全の要請は、国民が健康で文化的な生活を営む条件にかかわるものとして行政のうえでも最大限に尊重されるべき」地域。だからこそ辺野古基地建設阻止の闘いは不退転となっている。
 防衛局の海上作業に抵抗する人たちが乗る船に漁民の思いが書かれて張られた。

  あの沖縄戦がおわったとき
  山はやけ 国土もやけ ぶたも
  牛も 馬も
  陸のものは すべて焼かれた
  食べるものと言えば
  海からの恵みだったはずだ
  その海への恩がえしは
  海を壊すことでは ないはずだ
         山城 義勝

 海こそは公共性を持ち、生活の糧であり、共存の生活圏である。そしてこのような海を守ることは“過ちを繰り返さない”決意である。破壊は許されない。
 辺野古基地建設阻止の闘いは、沖縄県と政府の“けんか”などという視点ではなく、地方自治破壊、住民無視、民意無視に対して民意を“復権”させる闘いとして政府と対峙している。
 “民主主義”をもう一度捉えなおす必要がある。本当の民主主義は、憲法・法律を守らせることではなく、生活・生存、人権、その基盤としての平和を勝ち取るための手段である。

(いしだ・けい)


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