●追悼!!鶴見俊輔さん

「転向論」 は何を問題提起したのか

(インターナショナル第222号:2015年10月号掲載)


 7月20日、鶴見俊輔さんが亡くなりました。
 「15年戦争」という言葉を最初に使用しました。1931年9月18日のいわゆる「柳条溝事件」から45年9月2日の日本政府の連合国への降伏調印までは一連のもので、日中戦争、太平洋戦争などと分けてとらえると、日本が中国はじめとするアジア諸国と連合国との戦争に負けたという全体像が見えなくなるという主張です。
雑誌『思想の科学』の発行を続け、ベトナム戦争の時は「ベトナムに平和を! 市民連合」の活動や脱走米兵の支援活動をしていました。一貫して平和運動に携わっていました。博学で、それ以外にも幅広い活動をしていました。
歴史の見方はスターリン主義の影響を受けた講座派、労農派とその亜流などからは無縁で、プラグマティズムに裏付けされたリアリズムで歯に衣を着せずに展開する肌感覚の論調は素直に理解することが出来ました。

▼国際共産党の指令から解き放たれない日本共産党

 鶴見さんというと「転向論」が思い出されます。
 転向論というと吉本隆明の名前があがります。しかし吉本の論は、転向論以外でも、発想の転換としては刺激を受けても時間や時代の軸が動かず、現在に引き寄せて事象を捉えようとすると理解不能に陥ってしまいます。その点、鶴見さんは思考が柔軟で説得力をもちます。常に時代の中で対応しています。
 鶴見さんによると、「転向」という言葉は日本で1920年に使われ始め、1930年代に入って広く使われるようになりました。日本の戦争中の政治的雰囲気のなかで生まれて育った1つの言葉であり概念です。戦争中の15年間の知的、文化的な傾向を担っています。

 1933年6月7日、日本共産党委員長佐野学と中央委員会委員の鍋山貞親は獄中から共同声明を発表して転向を表明しました。
「佐野学は、転向声明において、日本共産党が国際共産党に対して盲従することを批判し、日本において天皇のもとに一国社会主義を目指す新しい党を作ることを呼びかけました。彼がそのとき国際共産党の指令から日本共産党は自らを解き放つべきだと述べた批判は、説得力をもっていました。イタリアとフランスにおいては、ソビエト・ロシアの指針から独立した判断に基づく社会主義の理論が発達し、そのような独立の論理と並行してファシズムと軍国主義に対する批判活動が、その理論に基づいてくりひろげられました」(鶴見俊輔著『戦時期日本の精神史』岩波ライブラリー)
 佐野、鍋山の思考はさておき、日本ではその対極に「日本共産党が国際共産党に対して盲従すること」から自立した「独立の論理と並行してファシズムと軍国主義に対する批判活動」、例えばドイツ、フランスにおけるレジスタンス運動のような組織は作られなかったという実態があります。思考の限界が転向を生み出しました。
山川均はその活動を開始しますがすぐに弾圧されます。戦争に抵抗した多くは宗教団体とその信者たちです。

 佐野、鍋山の転向後、取り調べを担当し、転向させるための手引を作成した池田克検事の著『左翼犯罪の覚書』によると、それからひと月のうちに、共産党関係者で未決囚の30%、既決囚のうち34%が政治上の立場を変えたといいます。3年ほどのうちに既決囚のうち74%が転向を声明し、非転向の立場を守るものは26%となりました。
 そこには、党の方針に疑問・不信を抱いた者、「思想」に確信を持ってもテーゼに疑問を感じながら突破口を見つけることが出来ない者もいました。彼らも「転向者」と呼ばれました。獄中で抵抗を続けるよりも獄外で活動を続ける方に有用性があると「戦術」を行使た者もいます。しかし「独立の論理と並行してファシズムと軍国主義に対する批判活動」が生み出せないなかで柔軟性は許されませんでした。
 ちなみに、『左翼犯罪の覚書』の手法は今でも使用されています。

▼人民からの孤立の感情を感じたか、感じなかったか

 吉本は、『転向論』で転向について説明しています。
「わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチチャの間におこった思考転換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件にたいする思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統にたいする思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題の大切な核心の1つとなってくる。」
 これに対して鶴見さんの説明です。
「この転向の定義は、敗戦にさいして吉本個人の中に生じた問題を解くという探究過程にぴったりとあった用語規定である。なぜ敗戦をつらぬいて自力再建するコースを日本の知識人はつくれなかったのか、なぜ敗戦が革命によってもたらされるような条件をつくり得なかったのかという問題に対して答えが求められているのである。」(「転向論の展望」)

 1910年、「日韓併合」が行われると朝鮮半島では抵抗運動が続発し止みません。
 1919年3月1日には「独立万歳」と叫ぶ大規模なデモが行われ、朝鮮半島全体に広がり、2か月余り続きました。「三・一独立運動」です。朝鮮総督府は武力をもって弾圧します。
 しかしこの後、いつまで続くか分らない出口のない暗黒社会のなかで朝鮮の人びとを疲労感、「挫折」が襲います。文学者や知識人の中からも展望を持ち続けることができない者も出てきました。そして支配者に協力したり、利用されたりします。
 彼らは、解放後、日帝への協力者とレッテルを貼られ批判をあびます。しかし、「転向」させた社会情勢を捉えることなく個人だけを批判することはできないという評価も出ています。

 「転向者」が増えた要因に満州侵略がありました。
 吉本の分析を鶴見さんが紹介しています。
「転向に対するもう一つの条件は、日本の人民大衆が満州事変を熱狂をもって迎えたことです。彼らの身をすりへらしての献身の対象であった人民が、彼ら自身の信念にまったく反対の目標を支持していたのです。このときに彼らの感ずる人民からの孤立の感情、隣近所の人々と彼ら自身の家族からの孤立の感情は、彼らの転向を決意させました。」(『戦時期日本の精神史』)
 満州侵略は、政府や軍部だけでなく日本社会を襲っていた閉塞感から脱出させる役割を果たしました。
 1920年の八幡製鉄所のストライキを指導し、のちに『溶鉱炉の灯は消えたり』を書いた浅原健三が抱いていた「世界平和、人類の共存共栄への大きな存在」の理念は、満州建国を推進する石原莞爾のそれと重なります。浅原が主張します。
「民憲党は私の過去の労働運動、鉱山運動の必然的発展の結品であった。『すべての階級闘争は政治闘争であらねばならぬ』私は必然の徒々徐々に、着々と歩いてきたことを信ずる。然り、『私は必然の道程を忠実に辿り来た。』と自信をもって断言する。」(仁科悟郎論文『満州国の建設者』より引用 『転向』下収録)
 ヨーロッパ勢力が東アジアに軍事的、経済的に進出してくるのを目の当たりにするなかで経済恐慌に直面すると、日本では対抗する勢力としての「八紘一宇」の方針は簡単に受け入れられていきます。しかし「八紘一宇」は日本以外の国・民族を侵略して支配下に置いて統合することを正当化します。必然的に抵抗運動が発生していきました。

▼“浦島太郎”がヒーローに

 戦後の状況はどうだったでしょうか。
「日本の降伏ののちまで非転向の立場を守ってきた共産党員たちは、急に日本の社会全体から注目を浴び、学生や若い左翼活動家たちの上に魔術的な影響力をもつようになりました。その影響力は、彼らの指導のもとにある若い人たちに、非転向共産党員が15年戦争以前の時代以来守り続けてきた考え方をうけつがせ、当時スターリンの指導のもとにあった国際共産党の不謬性への信念を彼らに植えつけました。」(『戦時期日本の精神史』)

 しかし1953年のスターリンの死後、フルシチョフによって「スターリン批判」が行われます。そして吉本隆明の『転向論』発表、鶴見さんらの『転向』論研究が進みます。“もちろん”「不謬性を体現する人たち」からなる指導部からは受け入れられません。

「日本の降伏にすぐ続く時期に、共産主義者で転向を拒絶して戦争中を貫いた人たちは、共産党支持者のつくり出した伝説の中心となり、10数人の非転向共産党員は共産党の不謬性を体現する人たちとみなされました。この人たちに批判を加えた最初の1人が吉本隆明で、彼は戦争中に育ったより若い世代に属していました。彼が1958年に発表した『転向論』は転向を拒否した共産党指導者についての批判を含んでいました。吉本は、同時代の状況との接触を失うことにおいて、これら獄中共産党員による非転向は、転向を受け入れた人々の思想と転向を受け入れたもと共産主義者の思想と同じく不毛な実りのないものであったと論じました。
 それは、原理を原理としてただ機械的に確認する作業であって、いまこの時代とどのように取り組むかについての指針を与える上で有効性を持たない、と彼は論じました。ただし、ここでは非転向という状態が不動の状態ではないという事実が、見落とされているように思います。生身の人間の行動は、ある行動をしないでそれを抑制するという状態をも含めて、それはいつも揺れ動いている過程にあります。人間はどういう状態においても、揺れ動くということから自由になるものではありません。そしてこの揺れ動くという状態において、人は自分自身を何らかの根本的な価値基準によって支えられる必要があり、その根本的な価値基準は、言葉の本来の意味において宗教と呼ぶことができます。
 10数人の共産党指導者の場合、彼らは獄中から出てきたときに、彼らの政治上の意見を彼らが獄外にあって活動していたころの1920年代の左翼知識人のあいだで用いられていた言語やものの言い方によって発表しました。それは敗戦直後の日本に住む人々の生活感覚から切れていました。
 非転向のまま獄中に残っていた共産党員の1人であるぬやま・ひろしは、降伏と釈放から30年のたったのちに、彼の死の直前にこのようなことを言いました。『戦争が終ったときに私たちは疲れきっていて考える力というものをほとんど完全になくしていました。そのときに占領軍の士官がきて私たちを釈放するということを伝えました。』」 (『戦時期日本の精神史』)

 『転向』上巻が出された後、共産党中央委員だった春日庄次郎氏は、自分について書かれていることに事実誤認があると主張し、下巻に「『日本労農者派』その他について」と題する論文を載せました。
「最後に、この機会に一言しておきたいことは『転向』論の1つの視角についてであります。
 私など『非転向』をつらぬき通してきたものの立場からして『転向・非転向』の問題で、一番重要なことは、水野――佐野・鍋山らのタイプの転向者と、日中戦争以降の息づまるような軍部ファシズムのもとで、生きて行くためにも、抵抗するためにも、民主主義、社会主義運動に関連していた活動家は大なり小なり、この戦時体制に協力するような姿勢をとることなしには世間に存在しえなかった条件のもとでの「転向者」とを区別することです。私たち少数のものは地下にもぐって反戦活動を行いました。しかし、多くの人びとはそうでなかった。……しかし、多くの転向的形態をとりながら、抵抗し、或は抵抗の意識をもっていた人たちは、地下的抵抗組織がなかったために、今日、だれも立証することのできないままに、一律に、転向者、屈伏者の一群のなかに埋没されていることです。
 これらの人びとが戦時に体験した苦悩、はずかしめられた生活への痛憤というものは、私たち獄中で生死の境を出入しながら非転向でがんばり続けてものの苦悩といずれおとらぬものであります。……
 しかし、やがて『輝しい非転向』は非常な権威をもち、自己をますます隔絶してゆき、高くそびえることによって、自ら孤立していきました。
 戦後、時間がたつにしたがって、この隔絶、孤立は深まり、『一貫して戦争に反対した共産党』という言葉は漸次、空虚にさえひびくようになってきました。
 このことに関連して、戦前、戦時中の民主主義、社会主義運動における、非転向ということの意義、価値をわたしたちは高く評価するとともに、いわゆる『非転向の座標軸』というものを、もっと深く広く確立することができたし、すべきであったと思います。」(1961・12・15)

思考が停止していた“浦島太郎”たちは、獄外で思考の限界のなかに存在した者たちから期待され、祭り上げられます。しかし期待に応えることができないのは明らかです。釈放された時に元気だったのは徳田球一くらいだったといいます。そして中国から帰ってきた野坂参三です。だから彼らが指導部に就任します。思考が停止していた者たちは、現実とのギャップを埋められないなかで振るまわなければなりません。およばない思考を覆い隠しために「不屈」・「非転向」という看板で権威を作り上げます。弾圧・拷問をうけて死亡した人たちが英雄視されて利用されます。
そのうちに変貌したスターリンの国際共産党の権威に誰が一番忠実か、「盲従」しているかという争いになっていきます。つくり出された伝説を維持するためには、それぞれの戦時中の状況はヴェールで覆われ、組織を維持するための官僚制が強化されます。

「金達寿は、1958年に『朴達の裁判』という中編小説を書きます。その主人公は……そしてつぎからつぎへとそういうことをやって、そのたびにつかまえる警察官から軽蔑の目をもって見られるというそういう人なんです。なぜかれがこんなことを続けていけるかということは、警察間の軽蔑を招くようなその彼の生き方の流儀にあるんです。この小説は、転向というものについての日本の知識人の見方がもっているサムライ風の姿勢、硬直したスタイルを批判するために、在日朝鮮人の金達寿によって書かれたものです。金達寿の見方からすれば、硬直した日本知識人の転向観は、明治以前の武士階級文化の不幸な遺産であって、明治以後の文化は、それ以前の武士階級の徳目を日本国民の全体に広げることによって、日本の人民から弾力性のある活力を奪ってきたというのです。」(『戦時期日本の精神史』)
 金達寿の他の小説『玄界灘』にも、市内をごろつくアルコール中毒の男が登場します。何度も事件を起こし、警察に逮捕されて留置所に勾留されます。しかし逮捕は勾留されている活動家に獄外からの指示を伝えるための手段で、実は男は共産党員でした。
 朝鮮半島にはさまざまな創意をこらした抵抗運動団体が組織され、獄外の共産党員らは自ら確信するそれぞれ独自の活動を続けていました。
 しかし日本には柔軟性をもった運動は見当たりません。このなかで日本の戦後はスタートしたのでした。

▼「民主主義って何だ!」
 
非転向を否定するつもりはありません。同じく転向を全面否定するつもりもありません。
 しかし獄中から戻ってきた「武士階級の徳目」の英雄の非転向者たちには、悟りが開けない「禅僧」の姿が映ってしまいます。そして獄外にいた者たちの思考は一貫して他力本願です。「武士階級の徳目」、「盲従」の組織のあり方は、実際は天皇制とはコインの裏表です。双方、「一国社会主義」の思想に毒されているなかで気がつかないだけです。
 柔軟性をもった運動が不在だったことは、戦後の労働組合の多くが産業報国会の組織形態をそのまま援用して結成されることに至ります。組織のあり方が問われることなく、逆に踏襲されたのです。

 転向論は、組織のあり方に対して問題提起をしました。
 しかし提起を拒否して、受け止められない人たちは、「武士階級の徳目」、変貌した「国際共産党に対」する「盲従」の組織体制のありかたを再検討することを拒否しました。逆に官僚制を強化して組織を維持し、理論の脆弱性を隠しました。
 そして、その状況は、講座派、労農派とその亜流からの影響を受け継いでいる労働組合には今も残っているように見えます。指導部は情勢に無関心というよりは、実は変化についていけていません。しかし自分たちの掲げる方針の不謬性に固執し、上からの指導・統制で組合員を管理して強制します。それを「団結」「統一」と呼びます。方針は空論で、組織は空洞化しています。
実態としては組織に民主主義がなく、多くの組合員が抱えている問題意識には関心がありません。意見を表明して行動する者は、民主主義の破壊者のレッテルが貼られます。

天皇制とコインの裏表一体を継承する組織に本質的に存在する思想が差別問題への無頓着、容認です。社会の底辺の人びとの叫びを聞こうとしません。その具体的姿勢が、60年末から70年代における部落解放同盟に対する敵対です。法律の保護を受けられない差別に対する差別された側からの闘いが否定されます。その結果、政府の部落解放事業、さまざまな差別問題への取り組みの怠慢に援護射撃をしました。今も労働現場にあるさまざまな差別問題には本当に鈍感です。
 15年戦争に対して被害者・犠牲者の意識しかありません。だから今般の戦争法案に対しても「国民の声を聞け」などと排外主義の主張を叫べるのです。反対運動に一緒に参加している在日韓国・朝鮮人の人たちがそのコールをどういう思いで聞いているかに思いが至らないのです。戦後70年が過ぎ、現代史を知らない若者ならまだしも、政治をつかさどる者たちのその発言は存在の無視です。右翼の「殺せ」のヘイトスピーチが「黙殺」に変わっただけです。国会前での「今度の選挙は投票所に行きましょう」の呼びかけに「だったら選挙権をくれ」という声があがっていました。

転向論を再検討すると、今のような多種多様な課題と価値観が存在する情勢のなかで、目的を同じくする異なった意見も受け入れ、横の繋がりをもって豊富化、活性化して挑戦していくことの必要性を教訓として教えてくれます。思考の転換の大切さを教えてくれます。
 鶴見さんたちが始めた「ベトナムに平和を! 市民連合」は、そのような手法による運動でした。そして今回の「戦争法案反対」と叫んで国家周辺や全国各地で運動を展開している人たちも、これまでの従属させられていた政治から自分の意思で行動して対峙しようとしています。
「民主主義って何だ!」
答えは、1人ひとりが問い続けて行動することです。

(いしだ・けい)


民主主義topへ hptopへ