寄稿 木村保博さんを追悼する

                                             江藤正修

(インターナショナル216号:2013年12月25日号掲載)


 元大阪中電(大阪中央電報局)の木村保博さんが11月24日、亡くなった。79歳だった。木村さんと、同じく元中電の伊藤修身さんのお二人は、日本における創成期からの労働者トロツキストである。すでに伊藤さんは2年前の2011年に亡くなっている。今回の木村さんの死去で、創成期を体験した労働者トロツキストはすべて私たちの前から去ったことになる。
 木村さんの通夜は11月26日、葬儀は27日に堺市立斎場でおこなわれた。葬儀には晩年の木村さんの動き方を反映して地元堺市から多数の地域活動の仲間が参列した。もちろん元中電の組合員、関西の労働運動家、旧第4インターの関係者も多数駆け付け冥福を祈った。
 2011年に伊藤さんが亡くなった時、私が2005年に伊藤・木村のお二人に行った未発表のヒアリング原稿を掲載することで故人の追悼とした。今回も再び、このヒアリングをふりかえることで木村さんを追悼したいと思う。ヒアリングを行ってからすでに8年が経過したが、この時、木村さんは自らの活動をふりかえって“遺言”と表現してもいような内容を述べているからである。
 このヒアリングは寺岡衛著『戦後左翼はなぜ解体したのか』の資料編に掲載したいと考えて2005年秋におこなわれたが、伊藤さんが公開を固辞されたため日の目を見ることがなかった。しかし今、改めてこのヒアリングに目を通すと、日本における新左翼労働運動の二大拠点(三菱長船と大阪中電)といわれた中電での苦闘が生々しく私に迫ってくる。
例えば1950年のレッドパージによる中電労働運動の壊滅の中から、新たな運動が職場闘争を軸にどのように形成されていったのか。中電の三桁の共産党細胞の中からどのような分派闘争を経てトロツキスト組織が生まれ、加入戦術を含めてその組織は何に直面したのか。60年代、新左翼の象徴となった大阪中電運動は1969年のマッセンストまで登りつめて解体したが、この挫折はなぜ生じたのか。また70〜80年代にかけて、この挫折を克服する努力が懸命に行われたが、それはどのような成果をもたらし、あるいは限界に直面したのか。
これらの問いに伊藤さんと木村さんは正面から取り組み、自己の体験に裏打ちされた解答を導き出す努力をヒアリングの中でおこなっているのである。私はこれから、以上の点を木村さんの発言の中から拾い上げ、紹介することで、木村さんを追悼したいと思う。
 木村さんと伊藤さんは逓信講習所出身である。逓信講習所はモールス通信を軸とした電報技術を教える官営学校で、貧困だが優秀な中卒の若者を集めて無料で育成するシステムである。このようなシステムは官営で鉄道講習所、水産講習所、民間では三菱長崎造船所、八幡製鉄所などで熟練労働者養成学校として存在し、労働組合運動の活動家育成とも重なりあっていた。レッドパージ後の大阪中電労働運動を再建したのは、敗北を知らない若き逓信講習所出身者たちである。
 伊藤さんはヒアリングで「党員オルグの基礎になったのが、大衆サークル活動。映画サークル、労演活動、歌声活動などがあった。……この過程は一方で(共産党内の)綱領論争が深化していく過程でもあった。私はこの時期にトロツキーの『一九〇五年 結果と展望』……『レーニン主義の綱領のもとに』(沢村義雄=西京司著)、いわゆる『沢村論文』(を)読んで、これで決まりだと確信を持った」と述べている。
 中電で50年代末に誕生した新左翼潮流(ブンド系と第4インター系)はその後、60年安保を契機に共産党からの除名と中電細胞の解散という体験を経て、両者は電通労研を結成、60年代になると長船社研とともに新左翼労働運動の中軸としての活動を展開していくのである。
 この過程について木村さんは次のように述べている。「60年代前半から中盤の長船と中電の職場闘争、67〜68年にかけて焦点となった中電マッセンストと各党派の対応。中電の立場からするならば、各党派はマッセンストに関してどのような総括をしているのかを問い質してみたくもなる。中電マッセンストの失敗によって、それまで続けてきた前田(裕晤)に表現されるブンド的運動は、そこで壊滅してしまった。……マッセンスト敗北以前の運動は、中電と市外電話局を中心とする産業別内闘争という限界を持っていたと思う。ところが70年以降は地域闘争が中心に座った。そのような地域闘争の基軸になったのが田中機械の闘いだった。また反戦闘争で逮捕され首を切られた労働者に対する救援闘争など、一つの職場に限定されない活動形態を取ることによって、地域と結合していく。……そうした取り組みが『労働情報』との結合や港合同との共同闘争を生み出したし、そのような経験の蓄積と経過を経て、最終的には大阪電通合同労組という独立した労働組合を手にすることができた。電通合同の結成は、1950年代から続いてきた運動の現時点における一つの到達点だと、俺は考えている。」
 木村さんと伊藤さんにとって、中電マッセンストの失敗は“ブンドの敗北”などという他人事ではなかった。マッセンストの方針が急進主義的な最後通牒主義であることは明らかだったが、第四インター中電細胞としてマッセンスト戦術に代わる対案を提示できなかったのである。しかもマッセンストに決起して職場を追われた4名の若者たちは、1950年のレッドパージ後に入局した中電労研の第1世代、具体的には前田裕晤さんや木村さん、伊藤さんたちが党派を超え手塩にかけて育ててきた次世代の活動家たちだった。その無念さと自責の念は、次に引用する木村さんの発言を見れば明らかだと思う。
「やはり俺自身にとって、マッセンストでの第四インター中電細胞の敗北は、決定的だった。世間に顔を出すことができないと思うほど落ち込んでいた。今まで党派を名乗ってきて、このように階級闘争が一つの頂点を迎えた時期に、積極的な方針提起をできなかったいという負い目が頭から消えなかった」。
 木村さんは自らの能力の限界を痛切に感じながらも「第四インターを辞めるとも言えないし、中電から去ることもできない。職場で責任を持って組合活動をやってきた立場からするなら、それを放棄するわけにもいかない」という中で、「その敗北をかみ締めながら、マッセンのような最後通牒ではない闘いを模索していかなければならない。生涯を通じて闘い続ける道を明らかにしなければならない」と考え、本格的に地域闘争に入っていく道を探り始めたのである。具体的にいえばその展望は次のようなものだった。
「ちょうど、その時期に『労働情報』が発刊された。これによって港合同や、北の地域闘争とも基盤を一緒にしてやれると思った。港の先輩と討論する中で、“一揆主義はあかんのや。労働組合は生涯の闘いなんや”ということを再確認させられた。中電の若手も少しずつ外に出て行き始めた。一九八五年に電電公社の民営化が行われた。この機会を絶対に逃してはならないと思った。自分たちの労働組合を結成する状況が開けてきたと思った。マッセンスト以来、雪隠詰だったからね。電通合同労組の結成に漕ぎつけたことによって、一つの役割が終わったな」。
 私は木村さんの葬儀に出席して、大阪電通合同労組が現在100名を超える組織人員を擁していると聞いた。人権を奪い続けるNTT西日本に疑問を感じ、インターネットで検索すると大阪電通合同労組のホームページにたどり着く。「聞くところによるとこの組合は、かつて大阪中電と呼ばれた拠点職場を母体に生まれたらしい」。そのように感じた労働者たちが駆け込んでくるのだと説明された。
 1986年、40数名で結成された大阪電通合同労組の組合員は現在、その多くが定年退職で退職者組合員に移行したはずである。そうした中で現在もなお100人の現役組合員を維持するには、新たなメンバーの加入が不可欠である。
 50年代以来の闘争拠点としての大阪中電の運動は「中電と市外電話局を中心とする産業別内闘争という限界」に直面したこと。その矛盾の噴出がマッセンストだったと総括した木村さんや伊藤さんたちは、「産別から地域拠点への移行による生き残り戦略」として大阪電通合同労組という組織戦略を考え出した。そして、そのような木村さんたちの戦略は、装いを変えて“拠点としての中電”を21世紀まで生き延びさせたのだと思う。
 私は、木村さんと伊藤さんという二人の最古参労働者トロツキストに改めて「ご苦労さまでした」とお礼の言葉を述べ、ご冥福を祈りたいと思う。


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