寄稿:元大阪中電労働者伊藤修身さんを偲ぶ

−江藤正修−

 【付】資料:大阪中電闘争の回顧(『資料編・戦後左翼はなぜ解体したのか』補足資料) 

(インターナショナル第203号:2011年9月号掲載)


 9月10日、大阪のPLP会館で「伊藤修身さんを偲ぶ会」が開かれ100人近い人々が集まった。元大阪中電の活動家であり、日本における最古参の労働者トロツキスト、伊藤さんを追悼するためである。集いは大阪電通合同労組、大阪全労協、大阪教育合同などの労働運動関係や関西三里塚闘争に連帯する会、三里塚救援会など、生前の伊藤さんが最も濃密にかかわった運動体の関係者11人の連名でよびかけられた。また集いには、伊藤さんが所属した政治組織(旧第四インターナショナル関係)からも参加者があり、1950年代以降今日まで、労働運動、政治運動で闘いぬいた伊藤さんを偲ぶ発言が続いた。
 2001年から肺気腫で闘病生活を続けてきた伊藤さん(76歳)が死去したのは4月17日、直接の要因は脳梗塞だという。私は伊藤さんがなくなった時期、肺炎で緊急入院する状況にあり、お通夜と葬儀に出席することができなかった。しかし今回、偲ぶ会に出席して、伊藤さんにようやくお別れを告げることができたのだった。その席でも発言したのだが、私の手元には大阪中電の歴史を語った伊藤修身さんと木村保博さんへのインタビューが残されている。
生前、伊藤さんは「一地方メンバーの体験を仰々しく掲載するなど何の意味があるのだろうか」と述べて、このインタビューの公表を許さなかった(木村さんは公開を了承されたのだが)。しかし、伊藤さんがなくなった現在、彼の生涯を回顧する意味でもインタビュー(要旨)紹介は不都合に当たらないと考え、その内容を公表したいと思う。
 2006年に出版された寺岡衛著・江藤正修編、『戦後左翼はなぜ解体したのか』は、同時に『資料編・戦後左翼はなぜ解体したのか』の刊行をともなっていた。この資料編は『戦後左翼はなぜ解体したのか』を補完しつつ、そこで取り上げた戦後労働運動、とくに新左翼労働運動の生成、発展、限界を当事者の証言から明らかにする目的で発行された。そして、三菱長船社研と並ぶ新左翼労働運動の拠点、大阪中電における2人の労働者トロツキスト、伊藤修身さんと木村保博さんの証言は資料編の中核をなすものとして企画されたのであった。
 お二人へのインタビューは2005年の秋、奈良に近い伊藤さんの自宅で行われた。伊藤さんはすでに酸素のチューブを常時着けておられたが、たち振る舞いは元気いっぱいでインタビューは3時間に及んだ。インタビューの要旨を公開するにあたって、改めて伊藤さんのご冥福をお祈りいたします。

【資料】「伊藤修身さん、木村保博さんの証言」(要旨)

―今日は大阪中電(大阪中央電報局)で第四インターが結成された契機とその後の展開、とくに一九六〇年代から七〇年代にかけて三菱長船社研と並んで新左翼労働運動の拠点と呼ばれた運動をお聞きしていきたいと思います。お二人には『戦後左翼はなぜ解体したのか』の総括部分の草稿をお送りしてありますので、それに関する感想もお話しください。

■共産党から第四インターへ―二重加盟時代

【伊藤】 私が共産党に入党したのは一九五四年か五五年だったと思う。前田裕晤(前全労協副議長・『労働情報』発行人)が入党したのは、私よりも一年前だった。彼は同志社大学の一部に入学していて、学生運動もその立場からやっていたと思う。細胞活動として「アカハタ」二倍化運動などにも一生懸命取り組んだ。
 共産党第七回大会(一九五七年)に向けて「党章草案」が発表された。草案は民族解放民主革命、いわゆる二段階革命の立場であり、それに関する討論を細胞内でやっているときに、前田と青木正義(立命館大学・)が「平和共存論反対」を提起した。
「一体、それは何だ」
そこから綱領討論が始まった。
(注)前田、青木は中電で働きつつ、同志社大学、立命館大学に入学していた。
 その時点で私は、すでに鍋野さん(市蔵・通称“鍋さん”、第四インター関西ビューロー創設者の一人)からのオルグを受けていた。青木は私より二、三年後の採用であり、私の職場(課)に配属されてきた。私は青木をオルグした結果、彼は共産党員になった。その後、青木は立命館大学(一部)に入学した。
その時、前田は同志社大学でブンド(共産同)として活動しており、青木は寺岡さんたちのオルグによって革共同に獲得されていた。私は青木に連れられて、しょっちゅう京都での学生の集会などに出かけた。
 その頃から、鍋さんの私へのオルグがはじまった。職場から呼び出されて、毎日、毎日、「第四インターへ入れ」と言われ続け、結局、加盟することになった。一九五八〜五九年の頃だったと思う。中電でのインターとしての活動は、青木と私と鍋さんで始めたことになる。このときは共産党との二重加盟だから、中電細胞メンバーは誰も知らない。中電の建物の四、五階が共産党の中心職場で当時、党員数は一〇〇人を越えていた。
【木村】 凄かったよな、活動家のほとんどが党員だった。
【 伊藤】 党員オルグの基礎になったのが、大衆サークル活動。映画サークル、労演活動、歌声活動などがあった。その時、前田の提唱で文学サークルを結成することにした。呼びかけたのは前田、小山、私の三人。『堂島川』という職場同人雑誌を発行して、詩やエッセイを掲載した。この『堂島川』も共産党オルグの重要な武器となった。
 この過程は一方で綱領論争が深化していく過程でもあった。私はこの時期にトロツキーの『一九〇五年 結果と展望』を読んで、「ああ、こんな考え方があるのだ」と驚いた記憶がある。その次に読んだのが『レーニン主義の綱領のもとに』(沢村義雄=西京司著)、いわゆる「沢村論文」で、
 「これで決まりだ」
と確信を持った。論文を読んだら、すっきりする。
 民族解放民主革命路線のもとで、「アカハタ増やせ、党員増やせ、選挙に勝つんだ」と言われても、そのような綱領のもとで作られた政府が、革命化するとは思えない。スッキリしないわけ。二段階革命というのは、まずアメリカから解放された民主政権を作って、次にプロレタリア独裁に進むというものだが、その過程が納得できない。

■六〇年安保と共産党党内闘争の激化

【伊藤】 六〇年安保闘争のときに、大阪の労働組合が闘いの先頭に立たない。「面白くないな」と思っていたら、六月一五日に樺美智子が死んだ。すぐに夜行に乗って東京に向かった。一八日の朝からデモに参加して、その晩は国会周辺で野宿。一九日は安保条約の自然承認の日だったが、翌朝、国会に行ったらネコの子一匹いない。前日まで地響きするように繰り返されていたデモの姿が、かき消すように消えていて、脱ぎ捨てられた靴だけが散乱していた。
「これが議会主義的闘いの限界か」
という思いがこみ上げてきた。
 この時期にはすでに鍋さんからオルグされて、私は第四インターとして活動していたことになる。そのときの第四インターの方針は、三池闘争と安保闘争をどのように結びつけて政治化していくか。炭鉱については国有化というスローガンであった。第四インターの方針は過渡的綱領の立場に立ち、それなりにスッキリしたものだった。

――鍋野さんはこの時期、第四インターのオルグとして三池に張り付いていましたね。

【伊藤】 そのとおりです。私たちは職場から第五次まで組織して、三池に労働者を送り込んだ。職場から労働者を送り込むオルグをやっていたので、私は三池に行っていない。
 六〇年末から再び綱領論争が深まっていて、六一年になると中電の共産党員に対する西さんの講演会を組織した。参加した党員は四〇名を越えていたと思う。
【木村】 俺もその講演会に参加していた。
【伊藤】 西さんには『レーニン主義の綱領のために』を話してもらった。信じていた共産党を西さんから批判されたので、参加した党員の一人が細胞委員会に報告したため、その講演会が共産党にばれてしまった。直ちに地区委員会、府委員会に上げられて、査問という事態を迎えることになる。
 前田はその前に、共産党を除名されたメンバーの文章を取り寄せ、中電をはじめ大阪中にばら撒いていた。そこで、前田も査問委員会に呼ばれたが、前田は応じなかったので、共産党が捕まえにきた。四時半になると共産党の府委員、地区委員が車で押し寄せてきて、中電前で前田を取りかこもうとする。
 我々はそれに気付いて、
「前田、職場から出たらあかんぞ」
と言って防衛する。
 中電の共産党員は、府委員、地区委員集団が示した暴力的光景に怒った。
「愛される共産党といわれて一生懸命やってきたのに、また暴力沙汰を起こした。自己批判しない限り、貴方たちの指導には従いません。綱領論争は自由にやらせてもらいます」
という声明を中電細胞は出したのである。したがって綱領論争は、細胞内では相当自由にやっていた。
【木村】 細胞委員会がそういう方針だった。そのとき、細胞委員会は構造改革派が主流になっていたのじゃないかな。表向きはともかく、裏ではつながっていたと思う。

■査問委員会、除名、中電細胞の集団離党

【伊藤】 その時の中電の細胞長は池田という名前だったが、彼は地区委員で原全五や大森誠人といった構造改革派と結びついていて、その立場に立っていたと思う。しかし、党からの前田除名の圧力が強い。そこで、仕方なく細胞会議を開いて“前田除名”を検討することになった。
 とりあえず前田に犠牲になってもらおうと考えて、青木と私は保留の立場をとり、それ以外の党員は全員が賛成した。その時に鍋野さんは、「我々をトロツキストとして切り捨てると、次はあんたたちの番だよ」と大森誠人たちのところに話しにいっているはずです。鍋野さんが、そのように動けたのは、構造改革派としての形が党内でできていたからだと思う。
 その次は私と青木が査問委員会に呼びつけられた。北地区委員会の事務所の二階には、府委員、地区委員がずらっと並んでいた。夜の八時ごろから始まって、いろいろと罪状を宣告された。
「自己批判しろ。そうすれば政治生命は保証される。自己批判しない限り、政治生命はないぞ」
「自己批判する必要はない。スターリンは間違っている。トロツキーのほうが正しいと思う」
と頑張った結果、「追って処分を通知する」という結論が出されて、査問委員会は終わりとなった。
 六一年三月に前田、青木、私の三人が除名され、四月に「アカハタ」で発表された。これを契機に中電共産党細胞は「このような共産党のやり方は許せない」として、細胞としての集団離党声明を出した。
【木村】 振り返ってみれば、ごついことだったな。
【伊藤】 一〇〇人以上いた党員が集団離党したのだから、本当にごついことだった。その後にできたグループが構造改革系、前田が組織していた労働運動研究会(第一次労研)を中心とするブンド系、少数派であるが第四インター系グループということになった。

■中電細胞は構改派、ブンド、インターの三派に

【木村】 この時点で旧共産党細胞は、松葉を中心とする構造改革派と、後に反戦派と呼ばれるブンド、インターの労研との分岐が明確となった。
【伊藤】 六一年秋に中電労研を結成し、六二年一月にはそれを広げて電通労研を結成した。電通労研には東京、四国、神戸などからブンド系の電通労働者が結集し、ここで初めて全国的な連携が成立した。この過程を含めて、労働運動としては、最初から前田と一緒にやってきたと思う。
【木村】 この時期の労働運動は、賃金闘争が登り調子になっていった。電通民同としては片山甚市(片甚、後に全電通副委員長・社会党参議院議員)などが構造改革派と一緒になって、一つの潮流として姿を現してきた時期でもある。
【伊藤】 木村君がインターに入ったのは、どの時点だったかな?
【木村】 六一年の終わりか六二年の初めだった。しかし、伊藤君の今の話の中には、俺が知らないものも多い。
【伊藤】 青木と私、鍋さんが二重加盟で活動をしながら、木村君をオルグしようということになった。木村君が第四インター参加を決意した言葉には感動した。
「わしの命を預けた」
と言ったのである。
「凄い人だな、俺はそこまでは言い切れない」
とつくづく感じたのを、昨日のことのように覚えている。
【木村】 そのくらい、勢い込んでいたのだろうな。
【伊藤】 労研活動を中心としながら、独自活動も同時に進めるという形だった。
【木村】 その当時、中電と電話交換業務で女性の多い市外電話局とは、組合活動の一環としてサークル活動を合流してやっていた。若い青年男女の集りは盛況だった。
【伊藤】 その土台を作ったのは、私が目をかけていた若い組合員だった。彼は民青(民主青年同盟)のメンバーとなり、市外局の女性たちとつながりをつけた。市外局の女性の中心だったのが木村君の連れ合いさん。市外電話局、番号案内局の第四インター女性メンバーは三人、学習会などで組織していた女性のシンパ層が一〇人ほどいた。
 六四年に共産党は「四・八声明」(春闘時のストライキは敵の挑発だとする総評ストライキ批判)を出すが、この時期、電電公社の自動ダイヤル化に対する闘いがピークを迎えていた。
「四・八声明」の三年前の六一年春闘の時に、市外局でインターの女性シンパが多かった職場では、自然発生的にストライキ声明を出した。
 「これは大変なことになった。ストライキ委員会を準備しなければならない」
と大騒ぎになった。それ以降、約一年間、民同官僚とのビラ戦争が展開された。
 当時の民同は、スト指令を出してもすぐに中止してしまうし、職場には不満が蔓延していた。労働はきついし、監視がある。背面パトロールが常態化していた。そうした中で、急進主義的にストライキ声明が出されたのである。結局、一ヵ所だけで前に出るのではなくて、全体のものにしようとする方向へ向かったが、インターの女性シンパの職場は、そのような突出力を持っていた。

■民同を驚嘆させた市外局での“ビラ戦争”

【伊藤】 その後、彼女たちのストライキ声明を受けて、市外局に対する毎日のビラ入れが始まった。民同官僚のビラと第四インターのビラとの“戦争”である。毎日、ビラまきが行われると、夜には女性シンパを含むメンバーが集って、職場情勢の報告と検討が行なわれた。それが終わると鍋野さんが原稿を書き始める。当時はガリ版だから、その原稿をガリきりして印刷。木村君の家で朝方までそうした作業を続け、七時前には家を出て市外局前でビラまきをする。そうした活動を半年ほど続けた。
【木村】 あの時に鍋さんの能力の凄さを見せ付けられた。女性一般組合員の雰囲気、民同の動きなど昼間の職場状況報告を聞きながら、原稿を書いていく。その内容が翌日、ビラとして撒かれる。昨日のことがビラになるわけやから、このスピードに市外局の民同は驚いてしまった。しかも、その切り込み方が実に鋭い。
【伊藤】 官僚は参ったと思うね。
【木村】 東京や仙台の第四インターの中にも同じような能力を持った人がいたかもしれないが、俺が知っているのは鍋さんだけだな。
【伊藤】 ビラの出し方、視点、書き方、大衆との関係の持ち方などは全て、鍋さんから教えてもらったと言ってよい。この時期、鍋野さんは、ロシア革命の時のレーニンの演説や檄文、論文をよく読んで、宣伝・煽動のあり方を研究していた。

■全電通大会を席巻したインターの速報ビラ

【木村】 その頃の全電通は片甚派が関西の構造改革派とブロックを組み、中央の守旧派と対抗した。全国大会を開くと片甚派が論陣を張る。こちらは選挙をやっても、代議員を獲得するほどの力はない。しかし、鍋さんを先頭にして謄写版と炊飯器を持って大会に乗り込んだ。公民館などの一室を借りて、印刷体制を整える。
 そして、鍋さんは傍聴した我々のメモを見ながら発言者への反論を書き、翌朝、大会代議員にビラ入れをする。我々の報告とメモをもとに、何が論争のポイントなのかを絞り込む。代議員である発言者の名前入りで論争のやり取りと評価が、毎日、ビラになって撒かれる。大会の中では我々の撒いたビラが注目の的になり、討論素材として使われた。
そのような凄みを持ったビラだったから、全電通の官僚にとってはショックだったと思う。それくらいの力を持っていた。一人の人間である鍋さんが、俺らと違うこれだけの能力を発揮するのかと本当に感心した。
 鍋さんと伊藤君と俺とで大会に行く。大会は一週間続くから、終わって帰ってくると、疲れてふらふらになっていた。六三年から六五年にかけての頃だった。

■六〇年代の合理化と中電での職場闘争

【伊藤】 全電通が職場闘争の協約化を中央集約する過程の大会で、我々がビラを撒いたわけだが、その頂点が六二五協定だ。
【木村】 全電通は一九六五年に長期運動方針を決める。したがって、六三年、六四年、六五年が全電通民同として、合理化方針を全国化していく時期にあたる。六二五協定が六六年で、企業離籍体制の確立によって官僚化が確定するのが六八年。
【伊藤】 賃金闘争で一六万人という大量処分を公社側が出す。この一六万人処分に対して、パルチザン闘争を全電通民同は組織する。このとき、様々な職場権利獲得が掲げられ、権利の到達目標が作られた。例えば、休日出勤したら代休が取れるが、当時、代休はなかった。そうした事情があったから、職場で大衆的な集団交渉をやって勝ち取っていく過程があった。
【木村】 第四インターが六二年、六三年、六四年とやってきた運動による政治的訓練の結果として、自前の職場闘争を俺らが展開できる力をつけた。民同に頼らなくても、独自に職場闘争を組織できた。それを直接、下級管理者にぶつけることによって突破していく。伊藤君の職場は“二の一”、俺の職場は“二の二”だから、職場が並んでいる。二つの職場で課長交渉が始まると、こちらは怒鳴りまくって交渉しているわけだから、その声が筒抜けになって他の職場では仕事ができない。
 あの頃は「今日は局でどのように喧嘩しようか」と考えながら出勤した。そのくらい喧嘩の材料があった。未整理の問題や、終戦直後のけりのついていない問題などがたくさんあった。
【伊藤】 私も祝日の代休を要求して、二時間ほど電報の送信を止めたことがある。私の課は東京以北の東北、北海道の電報を取扱っているが、それを二時間止めた。
【木村】 山猫ストだな。
【伊藤】 電報が、あっという間に三千通ほど溜まってしまった。それで大騒ぎになって処分されたそうになったが、課長が間に入って処分を免れたことがある。

■レッドパージで追われた共産党と彼らが残した伝統

【木村】 我々が中電に入った時、終戦直後の二・一スト前後に共産党がやった体験を身に付けている先輩労働者がいた。彼らは三〇歳前後、我々は二〇歳前後。年代は違うが、そのような我々世代の職場闘争を受け入れてくれる素地が職場にはあった。それがうまく噛み合うと、職場全体がストップしていく。
【伊藤】 山猫ストなどは、しょっちゅう起きた。「やれー」と一声出したら、皆が「よっしゃー」と言って、山猫ストに入る。そうなると課長などの下級管理者はお手上げになる。我々が当時闘ったのは、戦後の職場民主化闘争の一環なわけです。我々は昭和二六年(一九五一年)に中電の職場に配属されたが、一分でも休憩時間が遅れたら、課長に怒鳴り散らされた。その休憩時間に関して、一分早く出る。二分早く出る。一分遅れて入ってくる。二分遅れて入ってくる。そのような闘争からはじまった。
 我々の入る二年前にレッドパージがあって、共産党が職場から追い出された。その実態を労働者はよく知っているから、抵抗闘争をやれない状況にあった。そうした中に、我々のような敗北を知らない若手が入ってきて、民主化闘争を始めた。だから先輩からの支持があったし、それがあったから、あのような闘いができたのだと思う。
 職場には予科練帰りがたくさんいたし、中電の屋上には米軍が駐留していた時期だからね。
【木村】 我々は実際に共産党が職場支配をしていた時代を知らないのだが、それを知っている先輩が多数いたために受け入れやすい状況があったのだと思う。我々のやった運動の土壌は、終戦後の共産党がすでに作り出していたと言っていい。
【伊藤】 予科練帰りの先輩が、共産党が指導した敗戦直後の職場闘争を我々に教えてくれた。その話によると、食糧難のための買出し休暇を与えよとか、燃料不足なので会社の板塀を剥がす実力闘争など、そのような荒い人々がいた時代が、数年前のことだったからね。
 そうした中で中電の共産党は一度、食糧難突破を掲げて中電占拠闘争を展開した。一九四七、八年のことだったらしい。局長室、労務室を始め管理者の部屋を全部占拠したのに対して、天満署が介入してピストルをどんどん撃った。我々が局に入った頃は、廊下に弾痕がたくさん残っていた。

■生々しかったレッドパージの痕跡

【伊藤】 その後、共産党はレッドパージで中電を追われた。職場の労働者は、そのような共産党のつぶされ方を見ている。レッドパージに抵抗する共産党員たちが、通信台の上に通信機をところせましと積んでバリケードを築き、その中に篭城したそうすると、民主化同盟を結成した片甚たちが姿を現し、「お前らは出て行け」と演説する。それを見ていた労働者たちは皆、反民同になった。
 レッドパージされた共産党員たちが解雇に反対して、剥がされないように松脂でビラを貼った痕が、我々が中電に入った時にも柱などに多数、残されていた。
【木村】 そのような戦後からの流れの中に我々の運動を位置づけないと、誤ると思う。
【伊藤】 敗戦直後に作り出された職場闘争は、レッドパージで一度途切れるが、残った部分で再建が始まり、我々のような若手が合流することで、大衆運動がダイナミックに展開された。そのような流れだったと思う。前田には、我々よりも一年前に中電に入り、五人に減っていた中電細胞を一〇〇人にしたという自負がある。
【 木村】 前田は同志社大学に通っていたから、そこで集めた情報を中電に流す。我々は中電だけの運動だから、情報は限られる。その点で前田は、当時から全国情報を集めていた。そうした才能は、七〇を越えた今でも健在だな。その点は優れているが、職場闘争では役に立たない。前田は涙もろくて人情家だから、俺らのように管理者を叩きのめすところまで行くと、見るに耐えなくなる。優しいからね。そうした前田の性格はよく分かる。だから、役割分担のようなものが、あったのだろうな。

■現場から見た“寺岡総括”への疑問

【伊藤】 寺岡さんの中電に関する表現には、間違っていないにしても穏当さを欠く部分があるので、若干の修正をしてほしい。
【木村】 寺岡さんは、自分の関わったところをさっと切り取って総括している。寺岡さんは外にいたのだから、やむを得ないことだとは思う。しかし、我々は何十年も中電で闘ってきて一応、二人とも円満退職している。何回も首を切られる話はあったが、その都度、様々な力が働いた。例えば民同では、片甚の力も働いて首切りを阻止する状況が何回かあった。その点でいうと、運動を評価する機軸をどこに求めるかは、非常に難しい。
 我々は間違ったことをしたわけではないし、大衆運動で貢献もした。そうした点からするならば、中電の運動に対して、その結果も含めて責任を負う立場にある。そして、この立場を運動家として貫徹しなければならないと思っている。だから、そのような観点に立つならば、寺岡さんの表現だけでは満足できない。今日に至る運動の総括の中で、この時期の運動はどうだったのかがそれぞれにある。
 六〇年代前半から中盤の長船と中電の職場闘争、六七〜六八年にかけて焦点となった中電マッセンストと各党派の対応。中電の立場からするならば、各党派はマッセンストに関してどのような総括をしているのかを問い質してみたくもなる。
 中電マッセンストの失敗によって、それまで続けてきた前田に表現されるブンド的運動は、そこで壊滅してしまった。そこから、活動家を再組織しつつ第四インターは再建運動を始めた。マッセンスト敗北以前の運動とそれ以後の運動との際立った違いは、中電以外の諸闘争との結合にあった。
 マッセンスト敗北以前の運動は、中電と市外電話局を中心とする産業別内闘争という限界を持っていたと思う。ところが七〇年以降は地域闘争が中心に座った。そのような地域闘争の基軸になったのが田中機械の闘いだった。また反戦闘争で逮捕され首を切られた労働者に対する救援闘争など、一つの職場に限定されない活動形態を取ることによって、地域と結合していく。それが、七〇年以降に中電が作り出していった運動の一つの側面だと思う。
 そうした取り組みが『労働情報』との結合や港合同との共同闘争を生み出したし、そのような経験の蓄積と経過を経て、最終的には大阪電通合同労組という独立した労働組合を手にすることができた。電通合同の結成は、一九五〇年代から続いてきた運動の現時点における一つの到達点だと、俺は考えている。
 このような長いスパンを持った歴史的経過の中で中電の闘いを見る必要があるのであって、ある局面だけから言及されると、我々にとっては評価が相半ばする部分が出てくる。我々が体験した二〇歳から七〇歳までの五〇年間の運動総括という点では、不十分であると感じている。
長いスパンを持った歴史的経過を総括の前提にしながら、労働者は今後、どのようにあり続けねばならないのか、あるいは、あり続けることができるのか。そのために我々は、どのような役割を果たしてきたのか。部分部分で我々は誤りを犯していると思うし、もう少し違うやり方があったのではと考える時もある。しかし、総括は全体を見通した視点が必要なのであって、俺は運動史の総括を読むと常にそのような不満を感じるが、この本にも同様の思いが残る。
 現在のようなおかしな世の中になった中で、労働者運動をどのように展望していくのか、どのように再建していくのか。それに役立つような運動論や総括が要求されている。寺岡さんが本をまとめるなら、そのような内容が問われているのであって、回顧的なものではないはずだ。そうした内容を今回の本の中に示すことこそ、第四インターとしての我々の責任だと思う。
 “人間は柩を覆う時にその評価が定まる”とよく言われるが、生きている身にとっては、それまで自分がやってきた運動についての責任を負い続けている。俺は退職したが、電通合同という労働組合は現に生き続けている。今の階級闘争の中で、電通合同がどのような役割を果たすのかを考えた時に、「何をやっているのだ」と言いたくなることもある。彼らは現在置かれた状況の中で精一杯やっているのだから口出しはしないが、俺たちが手を引いた後の在りかたは、これでよかったのかという思いもある。
 そうした中で、電通合同はどのような役割を果たしてきたのか。俺は、そのように捉えたいと考えている。そうしないと組合運動の位置がはっきりしない。
【伊藤】 常にそのように考えておかないと、産別内に閉じこもる傾向が復活する。周囲からも指摘されているようだ。
【木村】 そのように考えると、運動の評価は定まりがたい。自らが闘ってきた内容を自己満足的に述べることはできても、それが歴史に耐えられるものであるのか否かを判断するのは難しい。我々がやってきた運動の中には、歴史的評価に耐えられないものも、数多くあると思う。

■加入戦術の功罪

【伊藤】 話題は一気に現在に飛んだが、私は六〇年代の加入活動まで話を戻したい。六三、六四年になると、関西の第四インターの活動は分解して、党費も集らない時期が続いた。その時に、加入活動が提起される。しかし、私の個人的立場からすれば、加入活動など考えられない。もし自分が社会党に入ったならば、職場大衆にどのように説明したらいいのか。
「伊藤らは裏切らへん」
の一点で大衆との間で信頼関係を持っている。その彼らに“社会党に入る”ことをどれほど政治的に説明しても、理解しないだろう。私は全体的な政治状況は分からなかったが、
「個人的な狭い範囲の判断では、社会党には入らない」
と頑張った。鍋さんや酒井与七からは何回も加入のオルグがあったのだから、政治的に考える人なら、加入を選択するだろう。
【木村】 中電の中で、俺たちの立場ははっきりしすぎているから、大衆からも公社からも、「今さら何が加入戦術だ」と言われるに決まっている。
【伊藤】 とても信用してもらえなかっただろう。社会党員になった人たちの多くは、民同になって官僚化し、公社の中で出世するコースを歩んだから、加入で社会党に入るのは不可能だった。だから私は、独立活動を主張して頑張った。一方、西村祐紘君たちは構造改革系である社会党大阪府本部と社青同大阪地本に加入して、銀ヘル(社青同構造改革系反戦青年委員会は銀色のヘルメットをかぶっていた)の全大阪反戦を組織することになる。
【木村】 このように言ったら大阪の社会党に加入した連中は怒るかもしれないが、結局、何もモノにはできなかったよな。だから、加入というのは、大変なことなんだ。しかし、経験のない我々には分からないが、加入を一番、形あるものにしたのは仙台の運動だ。加入戦術自体が目的ではなくて、どのように大衆を組織するかが重要なのだから、一時的にそのような戦術を取ることはありえる。仙台の例を見るように、加入をそのように捉えるならば理解できる。
 中電の場合は六〇年代前半の時期に、あまりにもはっきりしていたから、独立活動以外に選択肢はなかった。
 その後、第四インター日本支部が統一して仙台との付き合いが深まって以降、大阪中電と仙台の電通との運動の違いは何かをずっと考えてきた。今野求(注)を中心にして宮城の社会党と社青同に加入していたわけだが、加入戦術というのは、いわば仮住まいじゃないか。そして、いざという時には飛び出ていく。かなり特殊な組織戦術だ。下手をすれば、大衆との信頼関係を、全て失ってしまうことにもなり兼ねない要素を持っている。
(注)元第四インターナショナル日本支部政治局員、宮城県評オルグ・全国反戦世話人・労働情報事務局長などを歴任

■加入活動の総括は今でも必要だ

【木村】 加入というのは、結局、人を裏切る戦術だ。最も効果的に相手に打撃を与える時期を選んで、加入先から引き上げる。だから相手には恨みが残るわけだ。そう考えただけでも加入というのは恐ろしい戦術で、人間関係を壊すことになるのではと、思ったことがあった。
 中電は職場状況に規定されて加入戦術は取れないと考えたが、組織全体としては加入を決定して実践したのだから、今となっては個人的にならざるを得ないが、加入戦術を実践したメンバーは、総括をもっとしてみる必要があるのではないだろうか。
 繰り返しになるが、関西での加入戦術は何を残したのだろうか。次の時代を切り開く可能性や、それを踏み台にして教訓化していく。そのような要素を何一つ、残すことができなかった。
【伊藤】 そこには、高度な政治判断が働いていたとは思うが。
【木村】 仙台の場合は分かる。一つの時期の限定的な組織方針として実践し、いざという場合にはそれを公然化させて、全国闘争を牽引していく。そのような形態が仙台だけではなくて各地にできていれば、加入戦術による一斉蜂起になる。そうなれば、階級闘争を左右する力になるのだろうが、部分的にしか展開できていない。それだけ難しい戦術だったと思う。それだけに寺岡、織田を含めて当時の指導部は、加入に関する統括と理論化をしておくべきではないだろうか。
【伊藤】 いずれにしても中電という狭い枠内で、加入戦術に可能性を見出すことは無理があった。

■新左翼労働者討論集会と第四インターの立ち遅れ

【木村】 話は違うが、今野は全国をこまめに回っていたな。長船の西村(卓司・元三菱長船労組副委員長)さんと会った帰りなどには、大阪に立ち寄って俺と話をすることが多かった。
今野が登場する前の関西における第四インターのバッターは西さん、鍋さんくらいで、全国性を持った対応ができなかった。長船社研と大阪中電労研が軸になって、六三年から六五年にかけて新左翼労働者討論集会を開いた時、中核派のバッターは陶山健一、第四インターは西京司だった。西さんは風呂敷包みいっぱいの本を抱えて壇上に立ち演説するのだが、原理的なことを話すだけで実践活動とは関係ない。
 全国から一千人も活動家がきているのだから、アジテーションをやると思い期待していたら、原理論的演説なのでびっくりした。
【伊藤】 それまでの西さんの演説は、沢村論文の存在を皆が知っているので権威があった。しかし、この時期になると、後の反戦青年委員会につながる要素が生まれはじめて、社共から独立した青年労働者の大衆運動が要求され始めていた。そうなると、西さんのスタイルでは通用しなくなっていた。
【木村】 六四年になるとベトナム反戦につながる雰囲気が生まれて、運動的にも新しい可能性が動き出していた。六四年に開かれた新左翼の労働者討論集会は、そのような雰囲気を前提としていたわけで、そこに西さんの演説が加わったものだから、どうしようかと、絶望的思いにとらわれた。要するに、時代とずれていたわけだ。
我々はこの集会の裏方を担ったわけで、前田を通じて舞台裏の話がいろいろと入ってくる。西村さんと陶山健一の親密な姿を見るにつけ、全国対応のできない第四インターの姿に危機感を募らせた。
 この時期の新左翼労働運動では、長船社研と電通労研が二枚看板になっていたから、電通労研では前田が裏での親分衆の集りに加わり、大衆集会の議長には俺が出ることになる。長船の議長は久保田か草野。この三人は歳が同じだった。議長席に座っていると、わが方の貧弱さが痛いほど分かる。ここで一発かませたいと思うのだが、鍋さんは尻込みして前に出ない。西さんを引っ張り出したら、演壇に風呂敷を広げる。第四インターはいつになったら全国組織になるのかと思った。
 今野が統一戦線に出てきて初めて、第四インターの旗が全国的規模で揚がりはじめたが、それまではひどい状況だった。職場闘争では我々が圧倒しているのに、第四インターのそうした現状に規定されて、中電の活動家のほとんどをブンドが組織した。腹の立つ日々だったな。

■今日の若者の悲惨な労働実態

【木村】 ところで現状に話を移せば、このようにひどい日本社会の現状に対して、寺岡さんは労働運動を軸とした階級闘争の建て直しを、どのように考えているのか。新しく出る本で、それを提起しているのはどの部分になるのか。そうした点で言えば、一つの行動を通して、地味ではあるが一人ひとりの労働者を自立させる運動を考えていかないと、結局、同じことを何回も繰り返すことになる。我々は七〇歳になったが、七〇年の中で何回も姿を変えて同じことが提起されているような思いがする。
 今の若者を見ていると、うちの息子を見ていてもそうなのだが、どのように組織すべきかが分からない。労働条件はひどいし、賃金は安い。そうした中で、必死になって働いているが、その先には何の見通しもない。あるとすれば、体を壊して病気になるだけだ。今の若者の大半は、そのような状況に置かれている。
 そうした状況に置かれている青年労働者に、どのような希望と方向を与えるのか。非常に難しい課題だと思うが、それをしない限り、社会が根元から折れてしまう危機的状況にあるのではないか。
 四〇歳前後の生活の中心を担っている部分は、何に確信を持って生きたらいいのか。彼らに展望を与える材料がないから、息子と討論さえできない。若い部分に対して手がかりも、足がかりもない。親としておろおろするだけで、このような方向があると積極的に提起できない。やれることは、せめて孫の面倒を見てやることと、地域で仲間同士のつながりを作ったらどうか、くらいの提起だけだ。
 次の世代のことを考えたら、我々の経験を伝えるだけではすまない。次に向けた展望に関して、年寄りも知恵を出さないことには、若い連中だけでは突破できないのではないか。根本的課題が、相当に切羽詰って提起されている。そのように思えてならない。
 そのような中で第四インターは二一世紀に突入した現在、三〇年かかるか五〇年かかるかはともかくとして、何を、どのような方法で組織するのかについて、それなりに確定した大方針を提起していくことが必要だと思う。そこに向けて様々な運動と作業を集中させていくべきではないか。

■マッセンストを振り返る

【木村】 六八年秋にマッセンストがブンドのメンバーから提起された。その内容は、
「中電で数名のブンドメンバーが反安保闘争のためのストライキを行い、同時に地域でストライキ支援の集会を開く」
というものだった。
 電通反戦の事務局会議は、この提起を受けて討論に入った。会議では私だけが、マッセンスト方針に反対した。それ以降も何度か会合を重ねたが議論が噛み合わず、結論が出ないまま、電通反戦は分裂状況に陥った。
 その後、彼らは独自にマッセンストの宣伝活動を展開し、中電は厳戒状態に入った。職場が監視状態になる中で、マッセンスト突入メンバーは食堂を中心にして宣伝活動を展開し、中電は異様な雰囲気に包まれていった。
【伊藤】 あの中で電信反戦メンバーの何人かは辞めていったな。
【木村】 そう。俺自身はマッセンに反対しつつも、一〇・二一(当時の新左翼の多くは、六九年一〇月二一日を反安保闘争の“決戦”と位置づけていた・編集者注)に対する闘いの方針を探っていた。中央支部は一〇・二一に中之島公園で早朝反戦集会の開催と中電までの反戦デモを決定したので、その成功に向けて職場集会を開くなどのオルグに入った。
 当日は支部の早朝集会に四〇〇人ほどの組合員が参加し、中電までデモ行進を行った。一方、マッセンスト突入メンバーの一人である佐渡君は一〇時頃、たった一人で屋上の塔屋に登って演説を繰り返し、火炎ビン一本を投擲して直ちに官憲に逮捕された。中電内は彼の行動以外はきわめて静穏で、それまでの長期の騒ぎが嘘のような静けさだった。
 その日の夜のマッセンスト支援集会には八千人の労働者・市民が集り、中電を包囲するデモを行った。それ以降、会社は四名に懲戒解雇攻撃をかけてきた。
【伊藤】 佐渡が中電の屋上から火炎ビンを投げるのを阻止しようとする管理者を、止めるだけになってしまった。端から見れば俺たちは、佐渡の行動を見ているだけの立場だった。
【木村】 早朝デモを行ったとはいえ、我々は佐渡たちの行動に対する傍観者になったということだ。マッセンストに反対するならば、それに対抗する方針を提起しなければならない。あれでよかったとは思っていない。
【伊藤】 ブンドの連中が毎日、昼飯の時間に赤ヘルをつけて食堂で演説する。管理者が弾圧しようとするのに対して、ブンドを防衛する。それしかできなかった。マッセンストは大阪中電のブンドの方針というよりも、ブンドの全国方針だったから、状況が不利になったとしても中止できない。佐渡たちは覚悟していたと思う。
【木村】 マッセンストに対する積極的な対抗方針を持てなかったという点に、我々のレベルが表現されていた。自分たちが示しうる最善の闘い方を訴えていかなければと思う。マッセンのことを思うと、そうして点も含めて今でも心穏やかではない。
 四名の若者は職場を追われ、亡くなった人もいる。それやこれやで、「結局、彼らを見殺しにしてしまった」という自責の念が長い間、消えなかったな。
【伊藤】 マッセンストが終わった後、僕らが抱えていた若い層がみんな、不完全燃焼という形で職場を止めていった。挫折感もあったのだろう。

■マッセン後の中電再建方針

【木村】 マッセンストが敗北したあと、もう一度、労働者運動として大阪中電を再建しなければならない。そう考えて方針化したのが次のような内容だった。
【中電―電通労働者運動の再建(一九七〇〜八〇年)】
@沖縄、三里塚、入管、そしてアジア(南朝鮮・ベトナム)の闘いとの連帯。A電通労働者の独自的課題=就職差別(外国人・障害者)、独身寮の自治、合理化反対闘争、青年部問題。B地域労組との連帯=全金港合同の争議支援、三里塚処分反対闘争(年休・犠牲者救援活動)、民間労組の争議支援(岩井計算機・佐世保重工・大毎合同・地域の合同労組)との連帯運動。
 このような方針に基づいて、地域に出て行く。そのようなことをやりながら、一つの方向ができてきた。そうなるまでには、かなり時間がかかった。
【伊藤】 マッセンの後、一九七二年に中国に行ったが、その前の二年ほどは何もせずにぶらぶらしていた。そうしたら、木村から戻って来いと言われて、再び中電で運動を開始したが、その内容は急進主義だった。神戸領事館への座り込みデモに行ったりして、入管や沖縄を闘っていた学生インターの運動に労働者組織が合流していく。そして、三里塚闘争に入っていった。三里塚闘争で育った活動家が、現在の組合の中軸になっている。
【木村】 独立組合の組織化は、当時から問題意識として存在していた。中電は長船との交流を通じて独立組合の話を聞いていたので、いずれ我々も組合を結成しなければならない時期が来ると意識はしていた。
 中電マッセンストで我々は敗北した。手も足も出ない。涙をのんで後退した。それ以降、俺の中には、いつ組合を作るかという意識が絶えず存在していた。そのためには民間の組合の運動を学んで準備しようと考えるようになった。それらは、時間がかかったが一九八五年の大阪電通合同労組の結成に結実した。

■再出発から電通合同労組結成へ

【木村】 やはり俺自身にとって、マッセンストでの第四インター中電細胞の敗北は、決定的だった。世間に顔を出すことができないと思うほど落ち込んでいた。今まで党派を名乗ってきて、このように階級闘争が一つの頂点を迎えた時期に、積極的な方針提起をできなかったいという負い目が頭から消えなかった。
 はっきり言えば、民同が組織した“マッセン反対”のデモに参加するのが、我々の方針だった。俺の能力の限界だ。第四インターを辞めるとも言えないし、中電から去ることもできない。職場で責任を持って組合活動をやってきた立場からするなら、それを放棄するわけにもいかない。ものすごく落ち込んでしまったな。
 その敗北をかみ締めながら、マッセンのような最後通牒ではない闘いを模索していかなければならない。生涯を通じて闘い続ける道を明らかにしなければならない。ブンドもそこにぶつかって、マッセンをやってしまった。ブンドはそこを乗り越える方針を持っていなかった。七〇年代以降の展望を考えていなかった。
俺の総括としては、そこを作り出すしかない。地域に出て、いろいろな運動を勉強しない限り、答は出てこない。それには組合の枠を越えて、運動を吸収しなければならない。本格的に地域闘争に入っていくのが、俺の役割ではないか。
 そこで、もう一度、気合を入れ直した。ちょうど、その時期に『労働情報』が発刊された。これによって港合同や、北の地域闘争とも基盤を一緒にしてやれると思った。港の先輩と討論する中で、「一揆主義はあかんのや。労働組合は生涯の闘いなんや」ということを再確認させられた。中電の若手も少しずつ外に出て行き始めた。
一九八五年に電電公社の民営化が行われた。この機会を絶対に逃してはならないと思った。自分たちの労働組合を結成する状況が開けてきたと思った。マッセンスト以来、雪隠詰だったからね。電通合同労組の結成に漕ぎつけたことによって、一つの役割が終わったな。
【伊藤】 それで一応、木村君の場合は貫かれたよな。

――中電での第四インター旗揚げから加入戦術をめぐる動き、六〇年代中盤の新左翼労働運動の動向、そしてマッセンスト、電通合同の結成に至るまで話していただいて、ありがとうございました。部分的に知っている話もありましたが、私にとって多くは初耳で、大変、勉強になりました。(聞き手 江藤正修)
 


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