寄稿

革命的ジャーナリスト樋口篤三さんの死を悼む

江藤正修

(インターナショナル第194号:2010年3月号掲載)


 年も押し迫った12月26日夜、カメラマンの今井明さんから「本日、樋口篤三さんが亡くなった」と連絡が入った。JR総連東労組の松崎明さんをめぐる問題で、ここ1年ほど疎遠になっていたが、私にとって樋口さんは人生最大の師匠の一人である。無性に最後の姿に会いたくなった。
 「お通夜と葬儀は?」と尋ねると「親族主体の葬儀にしたいので、あまり広げたくない」というのがご遺族の意向だという。しかし、無理を承知でお通夜に出席させていただくことにした。
 埼玉県西部の質素な斎場で、茶系統のジャケット、シャツに身をくるんだ樋口さんが、穏やかな顔をして目をつむっていた。私にとって昔からなじんだ姿だった。おそらく、お連れ合いの喜美枝さんや長男の拓君、次男の竜君にとって、いちばん気に入った服装なのだろう。とてもよく似合っていた。
 拓君から「父を送るために赤旗の布地を用意しました。みなさんからお別れのメッセージを書いていただきたい」と要請があり、私も筆をとった。「革命家、革命的ジャーナリストとして、樋口さんは私の最大の師匠の一人でした。ありがとうございました」。
 それからしばらく、『季刊労働運動』時代の樋口さん、『労働情報』時代の樋口さんを思い出す日々が続いた。いずれも編集長、編集人である樋口さんに対して、編集部員、事務局員として机を並べて過ごした時代である。
 樋口さんは革命的ジャーナリストとして、極めて優れていたと改めて感じる。たとえば1980年に労働戦線の再編が本格化し始めた時期、私の周辺にいた左翼は誰も総評がなくなることを想定していなかった。しかし樋口さんは直感的に「大変な事態だ」と感知し、「労働戦線の“右翼的”再編反対」の大キャンペーンをいち早く、『労働情報』で開始したのである。それは国鉄の分割民営化反対キャンペーンでも同じだった。
 しかし、革命的ジャーナリストである樋口さんの真骨頂は、1980年5月の韓国・光州民衆蜂起で発揮されたのではないかと私は思う。
 それまでも日本の革命と東アジアとの関係を重視していた樋口さんは、韓国民主化闘争を積極的に『労働情報』誌面で取り上げていた。その関係から1979年には、「志を共にする日本の兄弟へ」と題する在日朝鮮人老革命家P・K生のメッセージが『労働情報』宛に送られてきた。その手紙を読んで涙した樋口さんの姿が、いまでも鮮やかに目に浮かぶ。
 その樋口さんにとって、光州民衆蜂起と血の弾圧は他人事ではなかった。「何としても光州民衆の声を誌面に載せたい」という編集人の檄が事務局員に飛び、私たちは八方手を尽くして光州民衆の声を探したのである。インターネットが発達する現在とはかけ離れた30年も昔の時代である。目前に迫った締切日までに、そのような証言を見つけ出すのはたやすいことではなかった。
 ところが樋口さんの執念は実ったのである。私たちは日本カトリック正義と平和協議会が翻訳したばかりの「引き裂かれた旗―光州民衆蜂起目撃者の証言」を入手、また光州と直接コンタクトを持つ在日韓国人ジャーナリスト金景柱と接触することができたのである。
 「引き裂かれた旗」の証言と金景柱のレポートは、6月10日発送の『労働情報』71号に24ページの誌面の半分、12ページを使って掲載された。光州蜂起からわずか2週間後、大手マスコミも全斗煥(戒厳軍司令官)の情報封殺で現地に足を踏み入れることが困難な時期のことだった。
 民主討論クラブでの樋口さんとの討論や最晩年の疎遠になった話など、触れる必要のある事柄はいろいろとあるが、それは改めて考えてみることにしよう。いまはただ「ありがとう、樋口さん」とだけ言いたいのである。


民主主義topへ hptopへ