●3回目の浅沼集会

反貧困を闘いつづける人々と護憲勢力はどう繋がれるのか

−25条と9条の乖離、戦後左派の限界の自覚を−

(インターナショナル第189号:2009年7・8月号掲載)


 07年10月から始まった「浅沼稲次郎記念集会」は、今年も10月9日に総評会館で開かれる。今回は「女が語る平和といのちの集会」と銘打ち、女性主体の集いである点が過去2回と大きく異なっている。
 集会の賛同人呼びかけは「戦争を呼びかけるのはいつも男たち、そして犠牲になるのは、女、子ども…。でも、いのちを産み、いのちを育み、日々の暮らしを編んでいく女だからこそ、愚かな戦争に心底、No!と言えるはず」と集まりの趣旨を語り、池辺幸恵、石坂啓、落合恵子、上原公子、神田香織、木村順子、古今亭菊千代、五島昌子、新城せつ子、新谷のり子、チェ・ソンエ(崔善愛)、豊間根香津子、星野弥生、吉武輝子といった女性たちが賛同を呼びかけている。

▼改憲状況と集会の意義

 07年に浅沼集会が企画された当時の政権は安倍内閣であり、教育基本法改悪や改憲をめざす国民投票法が国会を通過するなど、憲法改悪が差し迫った状況にあると認識される時代状況にあった。それに危機感を持った旧社会党関係者が、雲散霧消した55年体制下の護憲勢力の再結集を目指し、旧社会党内では左派、右派の双方から敬愛されていた浅沼稲次郎を旗印に持ち出したというのが、この集いの平均的評価と言ってよい。
 1回目の集会は、同年7月の参議院選挙での民主党圧勝と安倍内閣の自滅で改憲の危機は遠のいたものの、政権交代がリアルさを持ち始めたこともあって、社民、民主両党に関係者を持つこの集会にマスコミも注目、主催者の予想を大きく上回る参加者を集めた。
 真価を問われたのは、昨年の2回目の集会だった。
 前社民党党首の土井たか子と、元自民党幹事長の野中広務がパネリストになったこの集会の成否は、政権交代が当面する日本政治の焦点であり続ける中で、護憲勢力が憲法問題と政権交代とを結びつけ、リアルな政治的存在として再登場できるのかどうかの一点にかかっていた。護憲右派である自民党の野中がこの集会に参加した意味は、そこにあったからである。
 ところが集会は、そのような期待が大きく外れたものとなった。
 たしかに政権政党であり続けた自民党・野中の憲法擁護論は、9条の解釈改憲を前提としたものであり、旧来の9条原理主義の立場からすれば相容れないものが多々あったであろう。しかし護憲右派の野中と9条原理主義の土井が相対するパネルディスカッションなのだから、護憲に関して最低限の合意はどの点で可能かを探ることこそ、集会に要請された課題だったはずである。ところが野中発言に対して土井は9条原理主義的発言を繰り返すだけに終始し、接点を見いだす努力をしなかったのである。
 これには、80歳という土井の年齢的限界を考慮に入れておかねばならないが、それ以上に主催者の側が、政権交代という差し迫った政治情勢に対してリアルさを失っていたことを意味しないだろうか。こう述べると、「野中を呼んだのはリアルな政治情勢を感じていたからだ」という主催者側の反論が聞こえてくる思いがするが、そうであるならば野中の討論相手が、9条原理主義を繰り返す土井であったのはどういうことか。ここでは、野中と接点を見出さずに9条原理主義を繰り返す土井を選んだ主催者、すなわち旧社会党系護憲勢力の政治的センスが問われていたと思うのである。

▼憲法25条を発見した反貧困運動

 ところで今年の集会は女性が主体である。2回続けてきた浅沼集会の本番である2010年の没後50周年に向けて、マンネリ化を危惧した主催者の側が女性主体の企画を立てたのではないか。そう推測できる。この設定の仕方には、女性に対する利用主義の匂いを感じるのだが、ここでそれは問わない。
 今年の集会のタイトルは、「女が語る平和といのちの集会」である。この集会が開かれる10月には、社民党、国民新党を加えた民主党主軸の連立政権がほぼ確実視されていることを考えるのならば、この集会はどのような性格であるべきだろうか。
 まず集会のタイトルは「平和といのち」ではなく、「いのちと平和」になるべきではないかと思われる。すなわち護憲の力点を「25条と9条」の2つにおき、「いのち」にかかわる25条を前面に出すべきである。「いのち」と「生活」を主軸とする25条を訴える中でこそ、9条護憲は原理主義を越えて新たなリアリズムを獲得できると思うからである。
 周知の通り憲法25条は、「1)すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。2)国は、すべての生活面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」として、今日でいう新自由主義的イデオロギーとは対極の、福祉国家のイメージを鮮明に打ち出している。小泉政権下で極限に達した新自由主義にもとづく雇用、医療、年金、教育など、社会生活全般の破壊に対抗する理念が、25条には明確に存在するのである。
 25条が体現するこの理念を女性主体の09年浅沼集会が掲げ、昨年末、年初に大きな反響を呼んだ派遣村の運動と結びつけるならば、同集会は別の様相と輝きを持ってくるはずである。なぜなら、派遣村に代表される反貧困運動を担っている30〜40歳代の男女活動家たちは、運動に責任を持つ立場から必然的に憲法25条を「発見」したからである。
 彼、彼女らは、憲法25条を既存の護憲的政治勢力から学んだわけではない。たとえば派遣切りが直ちに住居喪失に直結するハウジングプア状況に対して、公的住宅を対置する運動的模索の中から武器としての25条を発見したのである。私たちを含む旧来の護憲的左派勢力は、反貧困運動を担う若き活動家たちが自力で25条を発見するしかなかった状況、すなわち戦後左派的勢力が、現実の政治に対して無縁になっている状況を恥じるべきなのである。
 もし女性主体の浅沼集会が、反貧困運動の中から登場した女性たち、たとえば作家の雨宮処凛やルポ作家の堤未加(「貧困大陸アメリカ」の著者)をはじめとする30代の有能な女性活動家たちと結合できるならば、その運動は民主党政権に左から介入する重要な役割を果たすはずである。

▼生存権の導入と森戸辰男

 もうひとつ、浅沼稲次郎と憲法25条について指摘しておかねばならないことがある。それは浅沼と同じく敗戦直後の社会党右派の論客、森戸辰男についてである。
 敗戦後の社会党の性格をめぐる森戸・稲村論争で、階級政党を主張した稲村順三に対して国民政党を主張した森戸辰男は、右派の論客として左派にはきわめて評判の悪い政治家であった。また森戸はその後、中教審の会長に就任しているから、日教組を中心とする左派が蛇蝎のごとく嫌ったのにも理由はあったのである。
 しかし戦後政治と日本国憲法というスパンで森戸を眺めたときに、森戸が果たしたもうひとつの要素が浮かび上がってくる。それは憲法25条を現憲法の中に導入したのが森戸辰男だったという事実である。
 1921年にドイツに留学し、ワイマール憲法体制下のドイツの政治情勢を実体験した森戸は、同憲法の生存権(健康で文化的生活)の重要性を認識した。そして敗戦直後の憲法研究会メンバーであった森戸は、「憲法草案要綱」の中に、25条の源流であるワイマール憲法の生存権条項を導入させたのである。最近放映されたNHKドキュメントによれば、森戸は「生存権条項である25条を必要とする時期が必ず来る」と語っていたという。
 戦前、クロポトキンのアナーキズムを研究した「森戸事件」で東大を追われた森戸辰男と同様に、戦前の早稲田大学・建設者同盟を組織した浅沼も、戦後所属したのは社会党右派である。しかし同じ建設者同盟所属の三宅正一(日農出身の社会党衆院議員、後の衆院副議長)や浅沼などは、戦前の小作争議や労働争議に寝食を忘れて関わり、文字どおり大衆の中で自らの社会主義的(社会民主主義的)思想を固めていった。(ここでは天皇制と転向問題は省く)
 この点で、左派社会党の中心となった総評民同左派の思想形成のされ方とは、決定的に違うのである。民同左派=社会党左派は、GHQの日本国憲法を所与のものとして受動的に受けとめ、50年代の高野派革同が敗北した後は、企業内組合の枠組みの中で護憲をお題目として原理主義的に主張するにとどまった。
 たとえば結核患者だった朝日繁さんが、1957年に起こした朝日訴訟(憲法第25条の生存権と生活保護法の内容について争った行政訴訟)について、60年代の社会党左派はきわめて冷やかであった。お題目としての護憲と企業内組合の利害との間にかい離が生じ、社会党左派(民同左派)の中から、その後の反公害闘争などにも通じる社会的視野が失われたからである。

 没後50周年を前にして今、浅沼稲次郎を再評価するのであれば、そのような戦後左派の限界を見据え、自力自闘で戦前の民衆とともに闘った浅沼と同様に、自力自闘で反貧困運動に立ち上がった現在の若き活動家群との合流を考えるべきではないだろうか。
 女性を主体的担い手として開かれる09年の浅沼集会について、「いのち」と憲法25条にこだわったのは以上の理由からである。

(8/7:あらい・たかよし)


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