「加藤の乱」のネット政治
「中抜き」政治か バーチャル世論か


小選挙区制と自民党の硬直化

 昨年11月、野党の森内閣不信任案に賛成票を投じようとした自民党の加藤派は、自民党主流派の恫喝的切り崩しにあい、あえなく潰走し敗れ去った。
 それにしても今回の「加藤の乱」(マスコミ造語だが、便利なので使わせてもらう)は、一つの側面ではあるが、小選挙区制という選挙制度改革が、主流派閥・経世会による自民党支配を強化し、また党体制の硬直化をもたらしたかを如実に示したと言える。
 つまり小選挙区制は当選は一人だけで、得票率51%対49%の争いだから一票の差が明暗を分ける。党組織はここに向けて整備され機関の集中がはかられる。しかも自民党では、その中心に既得権益集団の経世会が居座りつづけているのである。マスコミでは100人を越えると派閥の分裂もあるなどと言われているが、それは自民党の派閥連合時代のことで、今日の経世会は不動の主流派であり、この派閥の分裂は直接党の解体である。だから今後も党内に亀裂が走るたびに、この党の議員は不断に既得権益集団としての経世会との連携を点検し、党・経世会へと集中して硬直化する以外にはない。
 このように小選挙区制の導入が党機関の力を飛躍的に強化した結果、中選挙区時代の派閥連合的な組織体制とは異なり、加藤派議員への締めつけは派閥をバイパスし、ほぼダイレクトに及ぶようになった。それは選挙の公認や選挙資金、はては自民党支部を通じて対立候補擁立の脅しをかける等々、後援会にまでその手が及んだ。もはやかつてのように、反主流派として比較的自前で選挙を闘いぬくなどということは考えられない、いわば総主流派体制になってしまっており、自民党に昔のような「懐の深さ」は望むべくもない。この1、2年は、党内論議の不自由さなどが伝えられてもいたが、加藤も派閥メンバーも、まさかここまでえげつない切り崩しがおこなわれるとは、またそんなことが可能だとも思わなかったのだろう。
 「除名?そんなこと出来るわけがない」という加藤派の高をくくった対応は、今の自民党ブルジョア既得権益集団の、生き残りにかけた決意の前にはあまりにも無防備だったといわざるをえない。
 この総主流派体制は、内閣支持率の低迷にあえぎながらも、既得権益集団のバランスの要である森政権をどうあっても支えつづけなければならない。森打倒を掲げ財政改革を唱えて野党に同調する「加藤の反乱」は、総主流派にとって許しがたい反党行為であり、森内閣の崩壊にとどまらず、自民党ブルジョア既得権益集団の直接的な解体をも意味するものであった。
 なりふりかまわぬ加藤派への弾圧は、自民党の危機がそれほどまでに高まっていたことを雄弁に示しているし、これからもこの構造は変わることはない。

バーチャル世論なのか

 ただ今回の動きで見逃せない、もう一つの側面について検討してみたい。
 総括にかかわることであるが、今回の「加藤の乱」で注目すべきことの第一にあげたいのは、「ネット政治」(もっぱらネットの上でのみという意味ではない)の可能性についてである。
 マスコミは、「ネットにばかり気をとられて、実態の無いバーチャルな世論を現実の世論と取り違え、読みをあやまったのが敗北の最大の要因だ」(マスコミはどうしてこうもピントがずれるのか?=後述)などと総括しているが、はたしてそうだろうか?
 加藤自身の総括を見てみよう(総括らしいことは、ホームページの12月8日のメッセージにあるだけである)。

『加藤紘一です(以下要約)
 いま、一番真剣に考えているのは、私のメールにアクセスしてくれた、あのマグマにも似たエネルギーの正体は何だったのかという点です。
 この2年余り全国を歩き…だから私は、他の政治家より国民のマグマの変化を敏感に感じ取っているという若干の自負もありました。でも3週間余りで100万件を超えるアクセスというのは、私の想像をはるかに超えるものでした。多くの国民が政治の現状に不満を抱いて…加藤紘一という噴火口に向かって噴出したという解釈もできるでしょう。私もよく理解できます。
 でも私はメールを丹念に読みながら、従来の政治不信の動きとは質的に違う潮流を感じるのです。
 「政治家は何をしているのか」というように政治に不満をぶつけるのが一般的でした。ところが、私に寄せられたメールの中には「私たちにできることがあったら言って欲しい」「政治家は国民が負担しなければならないもの、払わなければならない犠牲についてきちんと説明すべきだ」という意見が随分ありました。共通しているのは、政治に不満を述べるだけでなく政治批判に「自分」が入っているのです。
 私はケネディーのように格好いいことは言えませんでしたが、この2年間「集団主義に埋没するのではなく自立した個人が連携する社会をつくろう」「一人一人が権利と責任を自覚する社会にしよう」と訴えてきました。その共感の輪が徐々にではありますが、広がりつつあるのかなというのがメールを読んだ私の最初の感想です。
 そして、このエネルギーがあれば日本の改革は可能だという自信を持つと共に、このエネルギーを身体を張って束ねて行くのが私の役割だと使命感を新たにしています。』

 「従来の政治不信の動きとは質的に違う潮流」の出現を、加藤の主張への共感であるとするのは、全面否定するつもりはないがかなり我田引水である。むしろ加藤本人も、個人の自立した連携を唱えるほどに人々の意識が変化し始めたということである。
 ここで注目したいことは、「バーチャルな世論」にうっかり乗ったかどうかと言うレベルの問題ではなく、この自立した意識・人々がネットという手段を手にし、これを活用して動き始めたという事実と、その威力に気づかされ、これで勝負できるという確信を加藤が持ったということである。

「中抜き」現象とマスメディア

 この加藤のホームページを舞台としたネット政治においても、種々の産業でネット化によっておきている「中抜き」と同様の構造を見が取れる。つまり組織でいえば中間部分、下部の意見を上部に整理按分して伝え、また上部の決定を組織の下部に状況に応じて按分通達するような中間部分が無用になっているということである。
 だからネット政治に参加しようとする自立した個人にとって、自己の見解を十全に持つためには、当然徹底した情報公開を要求しなければならないし、またついつい提供されやすい代行主義的便宜は、政治過程への直接参加の意義を否定または薄めるものとして参加者にとって当然拒否されるし、また主催者が勝手に仕切りはじめたらすぐさまそのホームページは見向きもされなくなる。このことを全く理解できないのが日本共産党であるが、それは後述する。
 マスコミが言うバーチャル(仮想的)な世論というとらえ方は、ネットにおける匿名性は無責任でもあるということを意味しているのだろう。だがこの匿名性は、いわゆる「民主国家」でも、徹底した論議を保障するための、人々の本音の発言や行動を出現させる為の孵化器の役割を十分に果たすことができる。当然、無責任な誹謗・中傷も多くでるだろうが、このことをもってインターネットを介した政治家へのコンタクトを、根拠の無い無意味なバーチャル世論ときめつけることは決してできまい。加藤のサイトに集中したメールは、マスコミがいうような実態の無いバーチャルとして片付けられはしないのである。
 「ネット政治」に対するマスコミの認識が、世間の裏側で好き者同士が勝手に盛り上がっているといったレベルだとすれば、彼らの「IT革命」認識もその程度であろう。だから当然にもマスコミは、今までどおり情報の独占が可能であり、人々を動かす世論を作る自らの力は揺るぎないと考えているのだろう。これまでのマスコミの果たしてきた役割が危うくなる可能性など、ほとんど理解されていないようだ。
 しかし一連の政権不祥事や政官財の癒着等々、はやしたてはすれども核心的事実は常に隠蔽し、結局はガス抜きに終わって人々の無力感を再生産し続けるという、欺瞞のサイクルであるブルジョアマスコミの真の役割は、ネットによる「中抜き」の対象になってもおかしくはないのだ。現在のマスコミは、事実や情報を後追い的に確認・追認し、仰々しくはやしたてるだけの役割に滑り落ちつつあるように見える。もし人々のネットを通じた政治参加と情報の交流が一般的になるとすれば、ブルジョア独裁を覆い隠そうとするブルジョアマスコミの弔鐘が聞こえる日も、そう遠くはないのかもしれない。

 加藤のネット政治に戻る。
 2月入るとすぐ加藤派は分裂し、わずか17人の小派閥になってしまった。ようするに加藤派自身は、昨年の行動をあくまでも悔い改める気がないということらしい。
 さっそく加藤は、ネット政治の第二段階へと歩を進めているようだ。全国行脚の提案と受け入れ先の募集である。また対話の要約をホームページに掲載し、その対話を軸に全国的な議論の場を広げる、あるいは対話の中身を毎回変えて、各テーマごとにホームページに載せて議論を広げる等々である。

ネット政治の可能性

 いま、「実体の無いバーチャルな世論」と揶揄された当の人々が動き始めようとしている。これが今後どのように展開するかは、いずれにしても加藤の綱領的・政治的立場の如何にかかっているのは当然ではあるのだが、はたして加藤の路線転換や政治的立場の変化はあるだろうか?
 例えば、多くのメールが加藤に自民党離党を勧めているが、加藤は離党はありえないと言いつづけている。加藤の戦略は、自民党組織と永田町の権力闘争に敗れても、いずれ自民党的なる組織のあり方、自民党的なる政治手法、自民党的なる支持層の限界とその破綻は不可避であるばかりか自壊しつつあるとの判断の上で、自らの任務を自民党支持層の最後に残る最良の部分に対するイニシャチブの確立と保守支持層のリニューアルに設定しているように見える。だから加藤は離党を頑として受け入れず、事あるごとに保守本流を自認する。
 加藤サイトにアクセスする層はむしろ非自民が圧倒的多数に見えるが、これがリニューアルされた保守支持層に収斂されるのであろうか?。さらに今後、さまざまな問題についてネット上で議論が展開されるだろうが、この多様な見解の集約が加藤の政治的立場とどう連動し、加藤も硬直的な対応をするかどうかも興味深い。
 だがとにかく、「中抜き」の政治が一歩踏み出したということであり、ネット政治の可能性の問題として、またブルジョア改革派の一分派の動向の問題として、継続したチェックが必要だろうと思う。

 さて一方、硬直化した自民党とは対極にあるように見える日本共産党のネット感覚とはどのようなものだろうか。
 昨年暮れの「朝まで生テレビ」で、日本共産党の新書記局長は、田原総一郎に「共産党の国会議員もホームページを作って、国民との率直な意見交換をやったらいいのではないか」と水をむけられた。答えは「いや、組織的なこともあってなかなか難しい」。「国民との意見交換がどうして難しいのか?」と田原。「えーと、組織としての統一した見解があるしゴニョゴニョ…」。
 一瞬、会場に失笑が漏れる場面がみられたのも当然である。日本共産党のネット感覚は、せいぜいが紙に書かれた公式文書をネット上に移すだけ(これは進歩ではあるが)のものである。ネットを通じた活き活きとした討論などは論外であり、多分発想すること自体が危険極まりないことなのだろう。日本共産党の民主集中制というタテマエに隠れた官僚的統制、そこで日々育まれる党員の上部への依存心。これが今も党組織の生命線でありつづけており、およそ自主自立などという解党主義の温床になりかねないことなど、けっして、けっして、断固として受け入れられるはずもない。
 だがしかし、いずれネット上での人々の情報交換の猛烈な広がりと勢いの中で、この党は確実に侵食され、もし生き延びようとするならば、この党のありようの変更は不可避であるだろう。

 今われわれが検討を迫られているのは、爆発的に発展・進歩しつつあるネット関連技術そのものではなく、社会のあらゆる分野において発生する、ネットと支持基盤を囲い込むことで成立している既存組織とのあいだの対立や混乱、あるいは組織変革を伴う有機的結合に焦点を当てた問題の分析と整理を行なうことである。
 インターネットがアメリカ資本主義の新たな興隆の中でもてはやされ、金融市場が席巻されたことでセンセ―ションに取り扱われがちではあるが、それだけに単純な反発や迎合を越えて、その実相についての真剣な検証が求められてもいる。

(さいとう・よしひろ)


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