【書評】「フセイン・イラク政権の支配構造」酒井啓子著(岩波書店刊)

パンドラの箱は開かれた!

(インターナショナル第138号:2003年9月発行:掲載)


 イラク情勢はフセイン政権の崩壊後も流動化の一途をたどっている。電気・水道などのインフラの整備も油田からの原油の採掘・輸送もままならず、強盗や略奪が横行し、イラクの都市市民の生活は一向に回復できない。そしてアメリカ・イギリスの占領軍に対する攻撃は今も続き、毎日一人は兵士が殺害されるという状況である。
 そこへ国連の事務所への爆弾テロ。さらにはイスラム教シーア派は、米英の庇護の下で成立した暫定統治評議会は「イラク国民によって選ばれた正統な統治機構ではない」旨を宣言し、米英に対してただちに総選挙を実施することを要求した。
 何ゆえイラクは、アメリカのネオコン派の予測に反して、米英占領軍を受け入れないばかりか、情勢がどんどん流動化するのか。この問題を考える一つの手がかりを、本書は提供してくれる。

▼個に解体されるイラク社会

 本書は、アジア経済研究所において長い間イラクについて研究してきた著者の、1990年代以降の論文を集めて整理したものである。
 構成は「政治エリートたち」と題する第1部の3章と、「はじきだされた人たち」と題する第2部の2章、そして本書全体のまとめである終章、「イラクであること、アラブであること―フセイン政権の国民統合論理―」からなっている。
 第1部はバース党政権下におけるイラクの政治構造を分析し、政治エリートがどのような社会集団で構成されていたかを分析する。そして支配エリートは、地縁閥や部族閥という形で特定の地域から出た人々で構成されることが続いたが、フセイン政権下においてはそれは徐々に解体され、フセイン個人との関係で政治エリートが構成されるようになったことが明らかにされている。
 第2部では、イラクにおける地域ごとの経済格差と、その経済格差と政治エリートから締め出された人々を反体制勢力(=バース党政権初期においては共産党、後期すなわちフセイン時代においてはイスラム原理主義組織)にからめとられないように、いかなる政策をとってきたのかを分析している。
 本書の分析で興味深いのは、第2部におけるイラクでの既成社会の解体と、それとの関わりで政治構造が変化してきたとの、著者の分析である。

 イラク南部は大規模土地所有の行われている農業地帯で、多くの農民は貧しい小作農である。しかしバース党政権成立以後のイラクの経済発展により、北部に工業・商業都市が発展すると、南部の小作農たちは農地を棄てて都市に集まり、仕事を求めた。同様なことは、北部の貧しい農業地帯の自営農民にもおこり、都市には巨大な低賃金の貧しい労働者が集積し、彼らの居住地は劣悪な社会環境のスラムと化し、この地域が反体制派の温床となった。
 バース党政権は石油による利益の一部をこの都市に投下し、スラムを解体して郊外に労働者住宅を大量に建設したり、低賃金単純労働しかできなかった人々に国家公務員としての仕事を与えるなどして、貧しい人々が反体制運動に走らないようにしてきた。そして都市に貧しい人々の仕事と住居とが確保されたことで、イラクの伝統社会の解体はさらに進んだのである。

▼人工国家のタガ=強力な政府と軍

 よく知られているように、イラクはもともと一つの国家ではない。オスマントルコ帝国が崩壊した時に、この地域を支配したイギリスが、トルコの支配下にあったバスラ州・バクダード州・モスール州をまとめてイラクとして独立させただけである。
 この地域は民族的にも複雑な構成をとるだけではなく、地域的には部族という擬似血縁集団の統制下にあり、イラクはこの部族という血縁・地縁集団の寄せ集めだったのだ。しかも戦後の工業化・近代化によって、部族という集団の統制が解体されつつあることによって、イラクはますますばらばらになっていったのである。
 第1部でみた政治エリートの構成要素が、地縁・部族という特定の地域からフセイン個人との関係へと変化した背景には、イラクの工業化による地域部族社会の解体と貧富の格差の増大、そしてこれが社会の解体に繋がらないように政権の力によって金をばら撒き、体制を保証しようとする過程の進展があったのだと、著者は指摘している。
 つまりバース党政権は、このような人工的に作られた国家をつなぎ合わせる役割をもってきたのであり、その社会の変化に合わせてその性格も微妙に変化させ、南部の大地主や北部の工業・商業資本家の利権を保護しつつ、石油で得た利益を社会に還元し、都市に集まった貧しい人々を政権が直接養ってきたという性格に変貌していた。この性格は、フセインの下でも変わらなかったのである。 
 言いかえればイラクは、第二次大戦後の工業化・近代化の過程で古い部族という共同体社会の解体が進行し、個に分解された社会へと変化しつつあったのである。
 そしてこの過程が加速されたのがフセインが政権についていた間であり、この社会の変質過程においてフセインは、地縁・部族によって構成されていたバース党官僚組織を徐々に解体し、それを彼個人との間での親密な関係を持った人々によって入れ替えていったのである。ここにフセイン政権が強力な中央政府と軍隊を持ち、個人崇拝的性格を帯びていく根拠があったのだと著者は分析している。
 1991年の湾岸戦争の直後に南部・中部でおきた反フセイン政権の蜂起は、このイラク社会と政権の性格を如実に物語っている。
 蜂起はシーア派という宗派の統率の下に起きたのではなく、伝統社会の崩壊の中で貧富の格差が拡大したことや、国連の経済封鎖が続く中での政権の汚職そして様々な生活物資の不足、さらに自由の欠如に対する大衆的不満の爆発であった。
 したがって民衆の攻撃対象は政府機関だけではなかったので、南部でシーア派が最初に出した布告は「遺体は埋葬されなければいけない。建築物を無闇に破壊してはいけない」という、当たり前の社会秩序維持のためのものであったのである。
 フセイン政権は、流動化しつつあるイラク社会の重石であったのだ。

▼社会の重石をとったネオコン

 こう見てくれば、何ゆえフセイン政権の崩壊とともに、イラクの官僚機構が崩壊してしまったかも明らかであろう。そしてフセイン政権崩壊以後のイラクにおいて、社会生活の基本である秩序の維持すらなされない理由も明らかであろう。
 イラクにアメリカ型民主主義を移植しようとしたネオコン派の策謀は、イラクに安定どころか泥沼の流動化をもたらしたのである。今や部族共同体に基盤を置いた宗派も、全イラク国民を統合する力はない。宗派そのものの内部もばらばらなのである。
 人工的な国家をかろうじてつなぎとめてきた装置を破壊してしまった以上、そしてこれに代わるものがない以上、米英軍はその立場を維持する観点から占領統治を続けざるをえないだろう。しかしそのこと自身が、ますますイラク国民の米英軍に対する憎悪を生み出し、情勢はますます泥沼化する。
 どのようにしたらイラクは安定するのか。それは伝統社会が解体したイラクで、どのような新しい共同体原理が生み出され、それが社会を覆うに至るかという問題である。その答えは、米英の政策担当者にもわからないしイラク国民にもまだわからないだろう。
 だが、パンドラの箱は開き放たれてしまった。魑魅魍魎と戦うのはイラク国民自身であって、米英ではない。従って米英軍は直ちに撤退し、国連監視団と平和維持軍の監視の下で総選挙が実施され、イラク国民自身の手で新たな政府の設立がなされるべきなのである。

(8・28:すなが・けんぞう)


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