【書評】『もうひとつの日本は可能だ』:内橋克人著(光文社刊)

リベラリズムの水脈から湧きでたグローバリズムへの批判と対案

(インターナショナル第137号:2003年7月号掲載)


 アメリカのブッシュ政権が揺さぶられている。一つはイラク各地で止むことのない米英軍への攻撃であり、イラク占領が完了しない事態である。二つめはイラクへの攻撃の根拠となった「大量破壊兵器」隠匿の情報が根拠を失ったことである。さらにはアメリカ経済の衰退の兆候が鮮明に出てきたことである。そのことは、ブッシュ政権一辺倒の日本の小泉政権にとって、大きな墓穴の暗闇を示しているといってよいだろう。
 さて、今日のこのような状況がどのようにして生起し、どう打開すべきなのかを考える上で、本書の内橋克人氏の示唆は注目に値する。

▼「いま、ある世界」への対案

 本書の題名である『もうひとつの日本は可能だ』の意味することは、内橋氏による前書き【読者へ いまなぜ「もうひとつの日本は可能だ」というのか】に簡潔に述べられている。引用すれば・・・

 『なぜ世界の半分が飢えるのか』の著者として知られるスーザン・ジョージはグローバリズム、その担い手である多国籍企業の行動、世界の食糧問題、南北間格差、WTOのあり方、中でも国境を越えて瞬時に駆けめぐる「マネー」(グローバル・キャピタル)の行動について、厳しい警鐘を鳴らしている。
    (中略)
 地球上に存在するものすべてを利潤追求のビジネス・チャンスとみるような「グローバリズム」の思想と行動、その貪欲で本能的な行動に対して「世界は商品ではない」と叫び、「世界市場化」(グローバライゼーション)の波に翻弄される世界のあり方を糾弾して「もう一つの世界は可能だ」と叫びつづけている。
 むき出しの資本主義ではなく、またその結果として生まれた厳しい貧富の格差に覆われた「いま、ある世界」ではなく、それとは全く異なる、すなわちどの国の国民であれ、国籍のいかんを問わず、人間をこそ主人公とする「もう一つの世界」に生きる権利があること、そのような世界を私たちは築き上げるべきなのであり、そしてそれは現実にも「可能なのだ」と唱えつづけている。
 そのスーザン・ジョージにならって、私たちもまた「もうひとつの日本は可能だ」と声をあげ、熾烈な競争と生き残り戦争にのみ狂奔し、何か、といえば、アメリカ発のクローバライゼーションを正義としてこれに追随し、グローバル・スタンダードなる呪文を合唱して飽きることのない、「いま、ある日本」の進み方にはっきり意義を呈すべきときがきたのではないか、と思います。いまこそ「もうひとつの日本は可能だ」と強く、透き通る声で叫ぶときではないでしょうか。

 すなわち、内橋氏は「ネオコン」(新保守主義)が主導するアメリカ帝国主義の戦略としての「世界市場化」(グローバライゼーション)の波が世界を飲み込み、分断と対立と競争を原理とする「アメリカ本位の市場一元主義」の世界のあり方を問題とする。一方でこれと対極にある非妥協と排他と信仰を原理とする「原理主義」が敗者の救済の思想として機能し、その対立は9・11に行き着いたことを問題にしている。この二つの潮流を越えて、人間をこそ主人公とする「もう一つの世界」の視座から、人間復興の社会の創造を説き、その根拠をあげ、「もう一つの日本」は実現可能であると主張する。
 その主張は、内橋氏が新聞記者として経済評論家として、45年にわたり日本経済の現場を丹念に歩き、経済とは人間が生きる日々の営みであると一貫して主張してきたことを集大成したものである。
そしてこの文脈の中で、内橋氏はアメリカ帝国主義のイラク先制攻撃の意味を次のように整理している。「人類にとっての大きな脅威を未然に取り除くためという『先制攻撃』の大義は、実はフセイン政権の転覆、抹殺、そして何よりも『体制の総入れ替え』にこそアメリカの真意があったことが明らかになった。(略)いまだ語られていない本質を、ATTACのホームページが示唆しています。」として、ポスト・フセインにおける「イラク改造戦略」を次のように要約している。

 1、全面的民営化の推進−イラクの徹底した「市場経済化」「全面的な民営化」
 2、財産権の確立−現代イラクには現存せず、まだ確立されてもいない「私有財産権」を確立する。
 3、企業行動自由化の対象−すべて自由な民間企業活動の対象とする。

 そして「語るに落ちた、というべきなのがアメリカ保守系シンクタンクの主張です。多くの研究者たちが『サダム・フセイン後の体制は、ミルトン・フリードマンの原則によって再構築されるべきだ』とイラク戦争に先立つ何ヶ月も前から幾度にもわたって主張を繰り返してきた」。このことは如実にグローバリズムの戦略を意味している。

▼「いま、ある政界」の活写

具体的に本書の構成を紹介しておこう。

 

1章の「私たちはどこへいるのか」は、「人間力」の衰退をモチーフに、アメリカングローバリズムが世界をどのように変容させているかを描き、日本の労働者を、中小零細企業の経営者を「徒労感と無力感」の淵にたたき込んでいる状況を明らかにしている。そしてグローバリズムを推進するネオコンが「経済的強者の自由」を「社会の自由」にスリ替え、アメリカ発の多国籍企業の「世界市場化」(グローバライゼーション)に狂奔する根拠を提供しているミルトン・フリードマンへの批判を展開している。 
 この結果として、十数年前から予言してきた「ダウンサイジング・オブ・ジャパン」(萎みゆく日本)の限りない進行が的中してしまったことを怒っている。

 

 2章の「幻だった『約束の大地』」では、グローバリズムを信仰する経済学者や官僚によって乗っ取られた日本社会だが、小泉政権の「規制緩和・構造改革・市場の原理」による経済再建というまさしく「グローバル」な経済政策の展開がすべて破綻し、国民を裏切る政治的スローガン[虚構]であったことを明らかにしている。
 経済の実態を根底的に改善する方策を持たず、闇雲にグローバリズムの呪文を唱えるアメリカ追随主義に陥り、もはや修復不能の状態に日本の財政を落とし込めた罪悪を指摘している。阪神・淡路大震災で阪神地域が廃墟と化したときも、人間復興のチャンスを無策のため見逃し、大企業優先、ゼネコン優先の公共投資に集中的に資金を注ぎ込んだ手法は現在も継承されている。それは生産のための復興であり、生活のための復興が後に回され、著者が『水色の荒野』と名付けた被災者のブルーテントが残りつづけた。今日ではリストラ・倒産によって生まれた多くのホームレスのブルーテントが全国の地方都市にまで広がっている。
 内橋氏は「阪神大震災・被災地の全国化」と今日の日本社会の状況を活写している。その結果として地方の隅々まで大型店舗やコンビニが行き渡る一方、全国の地方都市では閉店した商店のならぶ「シャッター通り」が出現し、増え続けている。
 デフレ・スパイラルの進行する中で、商品価値・人間の暮らしの「低位平準化」があらゆる分野で進行し、まさに「どん底に向けての競争」に全国民を巻き込み、振りまかれた「幻想」が虚構であると知られてしまえば、増税と戦争の道をなりふり構わず突き進む体制をすでに今日の小泉政権が準備完了していることが明白になってくる。このことをも本書では鋭く指摘されている。

 

 3章の「強さの中の弱さ」では、アメリカ経済の見せかけの繁栄が揺らぎを見せていることを、グローバリズムを推進する企業の虚飾・粉飾の実態とグローバリズムに抵抗するアメリカの動きを取り上げ、2つのアメリカというテーマで展開している。
 これに加えて9・11がもたらした影響を、黒字に転換した財政が再び赤字に転化し貿易赤字とあわせて「双子の赤字」が復活し、株価の長期下落と貯蓄率の急激な増加すなわち個人消費の停滞によるアメリカ経済の衰退として分析し、まさしくエンロンやワールドコムの破綻に象徴されるニューエコノミーと呼ばれる大企業の相次ぐ虚飾・粉飾だらけの会計があぶり出されことを、グローバリズムの「強さの中の弱さ」を露呈したアメリカの現状として解明して見せる。

▼「もうひとつの世界」の例示

 一方グローバリズムに抵抗するアメリカの動きとして、2つの例が提示されている。ひとつはバーモント州のベン&ジェリー社というアイスクリーム製造・販売の会社の成長のエピソードであり、今ひとつはエンロンに代表されるニューエコノミー企業が急激な成長を遂げた背景にあるむき出しの『企業買収』を禁止する「敵対的企業買収」禁止の法律が30の州で成立しているという事実である。
 この中でも今や全米第2位のシェアーを持つまでに成長したベン&ジェリー社の企業理念とそれを支持する健全なアメリカ市民の消費者意識は注目に値する。ぜひ原文を呼んでいただきたい。明るい展望が開けるエピソードである。
 今ひとつ注目すべき論述は、イスラムの思潮を反映したイスラムの経済活動の特徴を紹介する内容である。
 イスラムの経済活動の特徴は、グローバリズム経済とは対極としてある。それは喜捨と自制の経済活動であり、存在するものすべてを利潤追求のビジネス・チャンスとみるような「グローバリズム」の思想と行動、その貪欲で本能的な行動に対して、イスラムの経済は、貧者・弱者への喜捨を当然の行為と見なす、人間の尊厳を優先する経済思想があるとされている。
 イスラムの銀行は利子を取ることを禁じられている。この情報はあまり一般的ではない。氏の指摘は具体的な「もうひとつの世界」を提示している。この経済を丸ごと「世界市場化」することがイラクへの戦争目的であると指摘する論調も、うなずけるものである。
 石油の独占だけでなく、戦争経済によって経済危機を突破するというだけの意味ではない。イラクの「世界市場」への編入とこれを契機にしたイスラムの「世界市場化」を目論んでいるとすれば、まさに全世界をアメリカにひれ伏させるものとなる。ここにあげられている情報は反グローバリゼーションを主導する国際的なNGO「ATTAC」のホームページに掲示されているもので、インターネットの賜物、でもある。
 さて、ブッシュ政権は、9・11以降一挙に国防予算を増大し、アフガン・イラク戦争に突入した。今後も大量の新型兵器の受注を発表している。まさしく、経済の破綻を国防バブルで凌いできたアメリカは、アメリカ浪費社会の終焉という黄昏を迎えているのであり、ブッシュ政権はイラク後に何をもって経済成長をはかろうとするのか。
 内橋氏の分析では、イラク復興に膨大な支出を行い、すべての復興事業をアメリカの多国籍企業に独占的に受注させることを目論んでいる。その大半の資金を当然のように関係国に要求しようとするのである。これに成功すればアメリカは次の標的のイランを手始めに諸国を戦争で破壊し、自分の利益になるよう復興し、資金は他国から脅し取るという方式を推進することになる。
 ベトナムで手痛いしっぺ返しを受けたにもかかわらずである。

▼《地球を救う日本》の展望

 4章の「新たな発展モデル」では「もうひとつの世界」「もうひとつの日本」を、今起きている新たな事業の展開を通して展望するという内容になっている。
 この「もう一つの社会」のシステムの基本には『食料・エネルギー・ケアの自給』であると内橋氏は説く。われわれの言う「社会的有用労働」での論議、あるいは経験的に獲得されてきた「労農連帯」や「有機農業と消費者の連携」の思考とも相通じる「もうひとつの世界」が豊かに存在する論考でもある。
内橋氏はさらに刺激的な主張をする。すなわち「農業は21世紀の成長産業」「日本の国際貢献は食糧供給から始めよ」と。それを推し進める具体的な事業展開を紹介しつつ、《資源自立の道が日本を、地球を救う》というのである。
 「いまある世界」の常識では、日本の経済再生はかつての「高度経済成長」の神話を追い求め、過去の栄光への再来を念頭において、日本の経済だけが豊穣になればという発想を決して超えられない。だが氏が指摘する新たな生産様式の登場が「もうひとつの日本」を可能にするという。
 現にある資本主義的生産様式は、原料からを商品を生産する課程で、大量の廃棄物(ゴミ)を生み出し、環境を悪化させる。さらに消費を通してさらに廃棄物(ゴミ)をみ出している。まさしくアメリカ型浪費社会なのである。しかし廃棄物(ゴミ)を原料としてエネルギーを創出し、有用な商品を生産するシステムができあがれば、われわれは「大量浪費の社会」から「人間の尊厳を取り戻す社会」に転換することができるのである。ゴミを出さない、節約を勧めるといういわば後退的な生き方をより積極的な生き方に転換することも可能である。そして、このことを支えるのは高度な技術力である。
内橋氏が紹介する2つ事例は、NHKの番組『匠の世界』でも紹介されたもので、確かに大いなる可能性を秘めていると思う。ひとつは“「水」を生み出す一枚の膜−−東レの逆浸透膜”であり、いまひとつは“廃棄物を原料にエネルギー創出−−「北九州エコタウン」プロジェクト”である。
逆浸透膜の技術は、海水から真水を濾過する装置に世界中で使われているが、さらに応用すれば大量のエネルギーを消費し、大気汚染の要因ともなっている「石油精製装置」を、浸透圧を利用して石油を様々に分離し、廃棄物を出さない装置に転換することができるという。まさしく革命である。
「北九州エコタウン」プロジェクトは、地方自治体と企業と研究者が三位一体となって進めた脱公害・廃棄物の再利用という循環型の生産システムで、ゼロミッションと呼ばれている生産システムである。
実は日本の経済を支えてきたのは、実に8割を越す中小零細企業の技術力である。ところが「競争原理」の中で「自然淘汰はやむを得ない」とうそぶくグローバリズムの信奉者が権力を握り、中小零細企業を中心に多くの会社がつぶされ、技術の空洞化が拡大していく。これに対してゼロミッションの思潮は、職種を越え、企業を結び、経済を活性化することが可能であるという。そして、このような可能性を持つ企業や事業を誰がつなぎ、社会全体にシステムを紡ぎあげていくかという段階にきているといえる。
このような「もうひとつの日本」いや「もうひとつの世界」を目指す動きは、グローバリズムの暴虐の嵐に対抗し、社会主義の実現を目指すわれわれに大いなる問いかけをしていると考えるべきだろう。
最後に、後書きの一部を紹介し、内橋氏の思いを共有したい。

 むなしい後ろ向きの努力、すなわち「徒労の経済」を見限りましょう。
 疑いもなく「もうひとつの日本」は可能です。東京・永田町、霞ヶ関を渡る「天空回廊」ではなく、地方、辺境の地、農業、何よりも生きる・働く・暮らすの場で、ほんとうに強靱な「もうひとつの日本」がむっくりと頭をもたげはじめている。確信をもってそう断言できます。
 「成長概念」そのものの問い直しがいま始まっていることのすべてであるというべきです。「会社が潰れても人間は潰れない社会」が可能となる。
 こうして、ここに私は「もうひとつの日本は可能だ」と読者に向けて発信するこことができるときがきた、と信じています。強い確信をもって・・・・・・。 

 長年、内橋氏の著作やメディアでの発言に注目していた。その主張を集大成した感のある本書を読んで、さらに新たな発見が2つあった。内橋氏の思潮の原点にあるものが、神戸大空襲で身代わりとなって亡くなられた女性への贖罪ということ。今ひとつが、久野収−岸本重陳−佐高信−内橋克人と連なるリベラリズムの水脈である。
 われわれが掲げる『過渡的綱領』との歩調の類似に注目しつつ、さらに内橋氏の仕事に注目するところである。
最後に、内橋氏の支えとなっている久野収氏の言葉を引用させてもらう。

 少数派の抵抗運動は、これから多数派になる視点を象徴的に先取りする。いのちや生活において頂点同調主義ほど無力なものはない。【久野収著『神は細部に宿りたまう』三一書房刊(1977年)より】

(たかなし・としみ)


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