【書評】『地域ユニオン・コラボレーション論』(インパクト出版会:2000円)

職人気質や仁義で綴る労組論

−地域・中小労組運動だからこそ・・・の目線と語り−

(インターナショナル第134号:2003年4月号掲載)


 今年1月の「小野寺忠昭さんの退職と出版を祝う会」の席で、『地域ユニオン・コラボレーション論』と題する彼の著書がお披露目になった。
 この「祝う会」3日前の17日、37年間つづけてきた東京地評のオルグを退職した小野寺さんが、自身のかかわった労働運動の経験にもとづいた教訓や総括を濃縮エキスのようにして詰め込んだ、そんな印象を与える興味深い一冊である。

 わたしが小野寺さんと出会ったのは1988年の秋、「フォーラム・新しい社会の創造をめざして」と題したシンポジウムの実行委員会で労働運動分科会の担当になり、労働者の自主生産・自主管理運動をテーマにした分科会の企画を立て、聞きかじったばかりの自主生産運動=「ルーカスプラン」についてのご報告を東大社研の戸塚秀夫教授にお願いしに行き、その戸塚さんに誘われて出席した「ワーカーズ・コレクティブ(ワーコレ)調整委員会」の会合でだった。
 ルーカスプランとワーコレ調整委は、本書3章の「自主生産闘争」「パラマウント製靴自主再建」「生産する労働組合の課題」に出てくる本書の大切なテーマのひとつでもあるが、むしろ本稿では小野寺さんが「コラボレーション論」と銘打った、職人気質とか仁義とかで語られる「労働組合論」と、その目線で捉えた「総評総括」や国鉄闘争の「新たな可能性」を中心に本書の紹介をしてみたいと思う。
 ちなみに「コラボレーション」というカタカナ外来語の日本語訳を調べてみたら、『現代用語の基礎知識2002』に「共同作業。共同製作。合作。」とあった。

●きずなや心意気から見た総括

 本書の第2章「総評の総括」は、総評という組織の、人間関係をふくめたプラス面やマイナス面への論評であり、体系的な総括という内容ではない。むしろ小野寺さんの総括の真価は、実は前後の章、つまり第1章「ローカルから見た組合のかたち」と第3章「東京総行動と争議について」を貫いて語っていることにあると思う。
 「組合のかたち」は、彼に繰り返し聞かされまた議論もした、労働組合の組織と運動についての小野寺さんの持論を、その経験的土台と言える東京東部労働運動の総括として語っていると言えるし、「東京総行動」の章は、この持論の実践的格闘についての回顧と総括だと思うからだ。
 3つの章で語られる「総括」の特徴は、地域の中小労組運動という小野寺さんの「主体的立場」が貫かれていることだ。
 ところで、わたし自身の地域合同労組(全国一般)の経験でもあるのだが、地域の民間中小労組の運動には、官公労のような派手な政治動員やマスコミを賑わすほどの全国的影響力もなければ、賃金相場を決めるような経済的影響力をもつ基幹産業大手民間労組のような特権的実利もない。要するに「労働界」なんて呼ばれるところで持て囃されるような華(はな)がないのだ。
 ところがである、そんな体面や格好には縁のない中小労働運動だからこそ、彼が本書で「仁義」と呼ぶ労働者の連帯感やら相互理解と共同やらの、労働組合とその運動にとって何よりも大切な、職場と仕事を通じて具体化した人間相互の信頼関係がある。これは小野寺さんと私の、漠然とした共通感覚のベースだったのかもしれない。
 とにかく彼が、企業内労組とは厳密に区別して「職場型労組」を語るとき、そこには自主生産運動を可能にした職場の人間的な絆とか、いわゆる労働者の「仁義」や「化け身」のオルグの心意気とかが息づいている地域の中小労組運動の時代が確かにあって、それは「労働界」なんて呼ばれはじめた戦後日本の労働組合運動の中では忘れられがちだったけれど、労働者のコラボレーション=共同作業の萌芽と可能性である、と小野寺さんは確信しつづけてきたのだと思う。
 だとすると東京総行動は、華はないけど仁義に篤い中小労組の争議をベースに、「背景資本」と名付けた敵(資本)の本丸に肉薄するような共同闘争を実現し、忘れられがちな、しかし本来は労働者の自発的で自立的な共同作業の「場」でもある労働組合に欠かせないこれらの価値、つまり本当の意味で「華」であるべき地域・中小労組運動の秘めた可能性にスポットライトをあて(と言うより皆の耳目を集めて)、あわよくばこれを労働組合運動全体に感染させようとする挑戦(画策って言い方がふさわしいかな?)であり、彼の運動論の原風景なのだろう。
 この2つの章に挟まれて語られている総評総括の中で、全国一般と地域合同労組運動の秘められた可能性とその挫折の要因への言及が、私には興味深いものだった。とくに労働運動にだってどうしても必要な「金と人」にかかわる指摘は、今でもそして今後も重要な問題に違いない。

●仁義と旦那組合と交付金と

 第2章の冒頭に、「さまざまな名目を付けた交付金」が「主流派書記局のボスにより配分され」、それが「組織を腐らせることになった」(95-96頁)というくだりがある。
 当時もそして今も、「未組織労働者の組織化は労働組合にとって必要にして当然の任務である」と言うのはいいけれど、実態はそれほど美しくはない。総評の「組織化財政交付金」が、「学校」と呼ばれた主要に社会党系の派閥抗争と分かち難く結びつき、それが次第に地域や職場の組織と運動の自主性や自立性を弱め、ついには地域合同労組や全国一般の可能性を摘み取ってしまったことは、本書第一章の「合同労組の仁義」で、第三章では「縦型権威」に対抗する「各党派活動家が横につるんだパッチワーク的な運動」の提起などで、小野寺さんが繰り返し指摘している通りである。
 新入社員が自動的に労働組合員になるような企業内労組と違って、未組織労働者の組織化には「人と金」は必要だし、それが産別組織やナショナルセンターの再分配機能を介して地域・中小労組運動に投入されるのは好ましいことでもある。
 しかしだからこそ、地域ユニオン運動などに対する交付金という名の財政援助は、利益誘導の強力な武器にもなれば地域労組のボス支配の道具にもなる。そして交付金の額や有無が、ともすれば派閥的に分立するナショナルセンターへの帰属をめぐる選択に大きな影響を与えたりもするのだ。
 しかも交付金に関連して「派閥的配慮」なんて自己規制が一旦始まってしまえば、それは地域ユニオン運動にとって本末転倒というだけでなく、自らが、かつての全国一般や地域合同労組が秘めていた可能性を摘み取ることになりかねない。それが単なる過去の問題ではないからこそ、本書の金にまつわる指摘と「旦那組合」の対置が意味をもつ。
 派閥支配と無縁ではないけれど、それこそ運動の仁義を重んじて人と金を地域・中小の運動に回すような「旦那組合」への本書での言及は、古き良き地区労運動への憧憬ではなく、小野寺さんの実感としての総評総括の核心のひとつだと思うのだ。

●国鉄闘争と社会的共闘

 最後はやはり本書の第5章、「エピローグ−新たな時代を繋ぐ」の切り口である国鉄闘争に触れなければならないだろう
 ご承知のように国鉄闘争はいま、国労の古い主流派(かつての社共共闘派と言っていいと思う)がJRの企業内労組へと先祖返りをはじめ、闘争団は、国労本部を当てにせずに闘う道へと踏み出している。
 この本部と闘争団のギャップの中にも、企業内労組と「職場型労組」の違いが反映されていると思う。小野寺さんが「国鉄闘争の運動の意義」としてまとめた4点(224-229頁)の中にも、闘争団による「労働者経営」が、環境やリサイクルといった社会的運動へと転化する可能性をもち、分割民営化反対運動にとどまらない「公共・交通政策の対案型運動」が、「新たな社会的共闘」の可能性を切り開いたとあるが、それはまぎれもなく職場と地域で培われた、労働者の絆があればこその可能性なのだと私には思える。
 対する国労本部と主流派は、いわば企業内労資関係だけの「専門家」になり果て、結局のところ国鉄闘争の社会的可能性は理解せずに、重要ではあっても意義のひとつに過ぎない「総評なき後の左派の結集軸」という評価だけにしがみつき、それが困難になると一転してこれを「政治主義」と非難しているとしか思えない。そこには企業内の労資関係と、労組票を当てにする政党に依存した政治に矮小化され、社会との関わりをどこかに置き忘れてきた戦後日本労働運動の最も重要な弱点が露になっている。
 だから本書で提起される「未来に繋ぐ労働運動」の展望は、グローバリゼーションや首切りリストラや労働法制の改悪によって激化する「社会崩壊」と対峙する、社会と繋がる運動として語られるのだろう。

 本書の著者・小野寺さんが定年退職を迎えた今は、彼もエピローグで触れているように連合、全労連、全労協という労働3団体鼎立時代が終焉し、労働運動の新たな蓄積はそれなりに見いだせはするが、それが大きなうねりとなって発展するような糸口や突破口が見えにくいときでもある。
 37年におよぶオルグ人生で培われた実践的ノウハウを伝えるような本書の意味は、そんな時だから大きいのかもしれない。

(Kiichi・S)


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