【書評】『「フクシマ論」論 原子力ムラはなぜうまれたか』●その3
【開沼 博 著 2011年.6月青土社刊 2,310円】

国策たる原発政策と国の上に君臨する東京電力

―― 原発、米軍基地そして水俣病を貫く国策・企業の論理 ――

(インターナショナル第210号:2012年11月掲載)


▼福島県知事が原発に疑問

 1988年、参議院議員として大蔵政務次官だった佐藤栄佐久が福島県知事に就任する。
 当時は「国の言うことに従っておけば、間違うことはない」と中央直結の思考で、原発は「one of them」だった。
 しかし疑問が生じる。
 89年1月6日、福島原発3号機で事故が発生した。この時、事故の情報は福島原発から東京の東京電力本社、そこから通産省、そして通産相資源エネルギー庁から福島県、最後に県から地元富岡町に情報が届いたという。県も富岡町も、原発に対して何の権限も持たず、傍観しているしかないことが明らかになった。
 さらに事故の経過説明に県庁を訪れた東京電力原子力本部長は、地元住民の気持ちを無視した発言をする。知事は「安心は科学ではない。事業者と県民の信頼によって作られるものだ」と反駁。しかし国策である原子力発電に、これ以上県が口を出す権限はなかった。
 副知事を通産省資源エネルギー庁に派遣して「国が一元化している原発行政を見直し、国と県の役割を分担するよう」求めたが、国の反応は全くなかった。
 この教訓は「国策である原子力発電の第一当事者であるべき国は、安全対策に何の主導権をとらない」という「安全無責任体制」の確認だった。東京電力は、県どころか国の上に君臨していた
 91年、双葉町議会が「原発増設決議」を出す。「双葉町は財政的に恵まれていたはずなのに、なぜ」。原発を誘致した「原子力ムラ」の経済は衰退局面に入っていた。「ポスト原発は原発」という原発依存的な地域振興策としての特異性を実感する。「原子力ムラ」は、すでに原子力なしでは成り立たなくなっていた。ムラは急速な高齢化・過疎化、財政不健全化のなかで衰退してしまうからだ。

▼原子力行政の政府直轄体制を再確立

 疑問が不信感となる。東京電力や関係省庁による相次ぐトラブル約束不履行の中で、福島県は原子力政策に関して中央との対決姿勢を強めるようになる。
 知事は、98年には全国で初めてプルサーマル計画に事前了解を表明していたが、01年には一転プルサーマル受け入れを凍結した。中央にほんろうされることなく、地方・ムラの維持を最重要課題とする思想があった。しかし、この動きにたいしては、中央からの圧力、ムラの側からの困惑も見られた。
 その後も知事は、東京への一極集中化に反対し、「地方の痛み」を訴え続けた。
 だが2006年9月25日、佐藤知事の実弟が競売入札妨害の疑いで逮捕され、知事自身も10月23日に東京地検特捜部に収賄容疑で逮捕された。あくまでも無罪を主張し続けたが2012年10月16日、最高裁判所第一小法廷は上告を棄却、懲役2年執行猶予4年とした高裁判決が確定した。(この事件は、検察側の主張通りの事件ではなく、知事への政治的“逆襲”の匂いが濃い事件である。)
 佐藤知事の逮捕によって、反原子力の動きは突然頓挫する。中央によって敷かれた元の路線に回帰し、プルサーマルは運転を開始するに至った。福島県内の原発推進に対する歯止めはなくなった。
 原子力行政は、都道府県レベルの地方自治を飛び越えた政府直轄の体制を再確立した。 原子力はCО2削減に効果があるという「エコ原子力」というキャンペーンやグローバルな「原子力ルネッサンス」の機運が同時に進行した。

▼原発依存症と基地依存症

 このような中で2011年3月11日、東日本大震災、福島原発事故が発生した。
 開沼博著『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』は、福島原発事故直後に発刊された。しかし事故前に原発の危険性に警鐘を鳴らして書かれたものではない。「原子力ムラ」を検証し、今後どうしたらいいかを検討する必要があるとの問題提起で終わっている。
 では『「フクシマ」論』を踏まえ、原発問題にどのような対応が必要となっているのか。それを考えてみたい。

 福島原発事故の後に、政治思想史を専攻する石田雄東大名誉教授は『安保と原発――命を脅かす2つの聖域を問う』(唯学書房)を出版した。そこでは「フクシマ」と他のテーマを「対話」させ、原発問題が水平思考で検討されている。
 「原発を受け入れ、一度補助金という『アメ』を受け入れることによって多くの箱モノが作られると、やがてその維持管理に費用が必要となる。しかし他方では、時を経るに従って固定資産税という税収が減少していくという状況が生まれてくる。そうした時に、アメは麻薬へと変わり、次の原発を誘致しなければならないという依存症の結果を招く。
 実は、同じようなことが安保についても起こっているわけで、『安保のおかげで日本経済は発展した』という論調は、安保の犠牲を強いられた基地の町については、その犠牲は日本にとっては必要なものであるとして、経済的に補助金を出すことでその犠牲は無視すればよい、という考えが背景にある。
 ただ、沖縄の場合には、基地の受け入れが軍事占領の結果で、いかなる意味においても自分で選んだものではないという点で、より深刻な問題を含んでいる。」

▼原発を廃止するのが一番手っ取り早い解決策

 福島原発事故後、各地で「反原発」「脱原発」の運動が盛り上がっている。この力はどこから生まれて来たのか。
 『安保と原発――命を脅かす2つの聖域を問う』は自己表現・主張の問題についても触れている。
 「どうして現代の状況が戦争中の状況と私は似ていると思うかというと、対話の可能性が非常に低くなったからだということなんです。つまり、軍隊とは、命令はその是非を論じ、理由を問うてはいけないところです。そうするとそのかぎりでは、軍隊で反抗すれば戦地へ送られてしまうので、私は表向きは、ただただきっちりと命令に服従し、それで生き延びてきたわけです。その代りに思考する能力を失わされました。……
 対話というのは、共通面があって異質面があるという時にはじめて成立するわけです。それには平等の関係と、今の両面を相互に承認するということがなくてはならないわけですが、そのことによって対話による思考の展開が可能となります。」
 福島原発事故に対する事故調査報告は「民間事故調」、「政府事故調」、「国会事故調」、東京電力の調査報告、そしてマスコミ各社の調査報告があり、どれも「専門家」が調査・聞き取りをして「事実」と「事実関係」を導き出している。しかしどの調査報告書の内容も調査前から結論が見え見えで、みな自分たちに都合よく出来上がっている。都合のいい「報告書」は都合のいい政策・方針につながっていく。
 「反原発」「脱原発」の運動に参加する人たちは、《1つの出来事にも事実はたくさんある、だとしたらどれにも騙されないで自分で真実を追求するしかない、安全を追求するなら原発を廃止するのが一番手っ取り早い解決策である》という結論に至っている。
 そして自己表現・主張をする。
 選挙民は選挙制度の変更によってますます政治と社会から遠ざけられた。主張する、反対する意識と手段を奪われた。国会は選挙民に選ばれた代表者が議論をし、政府を監視したり立法活動を行う機関などと言うだけでこそばゆくなってくる。誰も期待していないからだ。その乖離を利用して、政府は勝手なことを繰り返している。権力を持つものからの上位下達、服従と支配。選挙民は信用できないのではなく不信感を募らせる。
 思考する能力を失わされ、孤立させられて誰とも対話ができない。何か事件が起きた時、そこで感じる無力感は大きいものがある。しかし原発問題は「命」に関わること。直接行動による自己表現・主張に立ち上がるしか方法がない。
 集会への呼びかけがツイッターやメール、口コミでおこなわれている。集まって来るたくさんの人びとと出会うことで、お互いに自分の主張が間違っていないことを確信する。震災をきっかけに新たな出会いを作った人たちと、反原発・脱原発の共通した思いを抱いて出会った人たちは会話・対話を開始した。社会に対して、未来に対して思考の展開を始めている。

▼新日本窒素労働組合の「恥宣言」

 同じく福島原発事故後に、熊谷博子著『むかし原発 いま炭鉱 炭都[三池]から日本を掘る』が出版された。福島原発事故と三井・三池の1963年に発生した炭塵爆発事故は似ていると指摘し2つの問題を交差させる。
 原発問題に別個にアプローチした2冊の本『安保と原発』と『むかし原発 いま炭鉱』は、共通したテーマとしてチッソ・水俣病問題を取り上げている。
 『むかし原発 いま炭鉱』は、三池鉱山と水俣病の原因を認めなかったチッソの姿勢はそっくりだという。新日窒労組の委員長だった山下善寛さんの発言を紹介している。
 「公害は、まず発生源の工場内で労働者が病気になる兆候があり、次に外の地域住民の間にさらに大きく被害が広がる。だから、『工場内の労働災害、職業病に対して十分に闘っていたならば、水俣病を起こさないですんだし、また被害を最小限に止めることができたかもしれない。しかし私たちは、初期の段階でそれを闘わずに、被害者である患者に敵対していた。自分たちだけよければいいと、労働者の賃上げや労働条件向上の闘いに終始し、むしろ会社側に味方するという恥ずべき行為を行ってきた。そのために、悲惨で世界に例を見ない水俣病事件を起こしてしまったのではないだろうか』(熊本学園大学・水俣学講義から)」
 このような考えの中でチッソ水俣工場の第一組合は1968年、「恥宣言」を出した。
 「闘いとは何かを身体で知った私たちが、今まで水俣病と闘いえなかったことは、正に人間として、労働者として恥ずかしいことであり、心から反省しなければならない。会社の労働者に対する仕打ちは、水俣病に対する仕打ちであり、水俣病に対する闘いは同時に私たちの闘いなのである」

▼放射能の許容量は科学的に決定される量ではない

 チッソへの責任追及をしていく中で、患者や支援者、医師たちは学習会を続ける。そのなかで核爆発実験の放射能をめぐる武谷三男著『安全性の考え方』と出会う。
 原田正純氏が著書『水俣病』(岩波新書)で紹介している。
 「死の灰が地球上にふりまかれているときに、一部の学者は、科学的に降灰放射能の害を証明することはできないから、核爆発実験は許されると主張した。アメリカ原子力委員のノーベル賞学者リビー博士は、許容量をたてにとり、原水爆の降灰放射能は天然の放射能に比べると少ないから、その影響は無視できると主張した。微量の放射能の害はすぐには病気にならない、すなわち急性症状を示さないところに、非常に困難な問題があったのだ。武谷三男氏らは、『許容量というのは、無害な量ではなく、どんなに少ない量でもそれなりに有害なのだが、どこまで有害さを我慢するかの量、すなわち有害か無害か、危険か安全かの境界として、科学的に決定される量ではなく、社会的な概念であること。害が証明されな いというが、現実にそういうことをやってみて、そうなるかどうかはじめて証明されるというのでは、科学の無能を意味し、降灰放射能の害が証明されるのは人類が滅びるときであり、人体実験の思想に他ならないこと。放射能が無害であることが証明できない限り、核実験は行うべきではないというのが正しい考えである』ことを明らかにした。
 この武谷氏らの考え方は、原水爆実験のみならず、工場廃棄物の放出にもあてはまり、安全についての根本的な考え方を示している」
 核爆発実験における放射能の危険性の問題の捉え方が水俣問題に向い合う時再確認された。そして今、もう一度原発問題で放射能の危険性に直面されている。教訓がまったく生かされていないからだ。

▼ 企業の繁栄を最優先

 『安保と原発――命を脅かす2つの聖域を問う』には、次のように書かれている。
 「戦前、植民地朝鮮で『労働者を牛馬と思って使え』という方針をとっていたといわれる朝鮮チッソの社員が、戦後日本に引き揚げてきて水俣のチッソで働くようになり、中には工場長になった人もいた。そうした背景もあり、水俣のチッソにおいては、地域を公害によって犠牲にしても、それを意に介さない企業体質が生み出されたのだと思われる。……(中略)……
 『チッソという企業が地域の繁栄を支えているのだ』という神話を基礎にして、チッソは下請け労働者を酷使した。たとえば、工場の生産設備を修理する時にも、生産を止めずに行うので、多くの事故と負傷者を生み出したのはその一例だ。
 そして何よりもチッソは、『汚染された海で漁民が水俣病になっても、それは企業の繁栄のためだからしかたがない』と、水銀汚染の事実に対して意に介することはなかった。」
 『むかし原発 いま炭鉱 炭都[三池]から日本を掘る』にも、次のように書かれている。
 「三池の坑道は、さらに原発ともつながっていた。2011年3月11日以降、それまで裏に隠れて見えなかったのが、明らかにつながるようになった。
 エネルギーというのは本当に、国の産業や経済、そして人々の生活を支える基幹の部分である。だからこそ、日本という国の政策と密接に結びついてきた。
 今回の原発事故で見た光景は、私がかつて炭鉱の出来事として知っていたこととあまりに似ていた。
 福島第一原発の水素爆発であがる白煙と三池炭鉱の炭じん爆発の黒煙、さらに、爆発で吹き飛んだ、原子炉を囲む建物と坑口前の建物。
 日本を動かすエネルギーを掘り、作り出してきた末端の労働者たちが、国の政策の中で翻弄されている。その炭鉱は廃坑になり、原発は廃炉となる。
 そう思いながら、日々流される記者会見を見ていた時にはっとした。
 そのままなのだ。
 情報を隠して出さない今の政府を当時の政府に、電力会社を鉱山に、マスコミなどで“安全”を主張、解説する原子力工学や医学の専門家たちを、当時の政府調査団の団長ら、御用学者といわれた鉱山学者たちに置き換えるだけでいい。
 必死に作業する原発労働者と、炭鉱労働者が重なる。
 炭じん爆発事故の時の原因隠しとまるで同じだ。
 人命や健康や安全性よりも経済を優先し、原因究明も進まず、修復もできないうちから、原子力発電を早く再開し、輸出までしようとする人々の姿も。
 産学官共同の悪い構図が、近代国家となった明治以降150年間、何もかわっていないのではないか、と思った。」
 三池の炭じん爆発事故における会社の責任は、刑事事件では不起訴になった。
 「裏で巨大な力が動いていた。
 まさに国と企業と学会と司法ぐるみの隠蔽であった。
 松尾さんたちCO中毒患者家族会は、不起訴が決まった後、その理由を聞くために福岡地方検察庁におしかけた。次席検事が言った。
 『労働者1人が会社に対いて行う貢献度よりも、三井鉱山が社会に対して行う貢献度の方が大きいと判断。その貢献度を起訴して潰してしまうことは大きな損失と判断して、不起訴と決定した』」

▼国策としてのエネルギー政策

 「1955年は日本のエネルギー政策にとって運営のターニングポイントであった。10月に『石炭鉱業合理化臨時措置法』が施行され、中小企業の閉山が進む。これで国策として石炭から石油へ。12月には原子力基本法を制定し、翌1月1日から原子力委員会が設置された。」
 石炭から石油、そして原子力への電力エネルギー源の転換は、資源の残量や価格から迫られたものではない。政府の政策転換である。三池労組への合理化攻撃は、後の国鉄分割民営化と同じように労働組合の解体を迫るためだった。
 この夏、原子力発電がなくても全国の電力が賄えることは証明された。にもかかわらず政府はなぜ原子力発電の維持にこだわるのか。
 1つには、アメリカの核の傘の下での安全保障体制維持のためである。アメリカは日本での原子力研究・開発を強要している。
 2つには、原子力発電所が日本にとっては東南アジア諸国への輸出商品になっているからである。日本商品の東南アジアへの輸出拡大、日本企業の進出のためには電力の供給量の確保が必要となる。民主党政権になって以降も政府を先頭にそのための外交・営業活動が進められてきた。日本で危険だからと廃止するものを輸出できなのである。

▼「安全」「安心」を「経済」では説得できない

 『むかし原発 いま炭鉱 炭都[三池]から日本を掘る』は、三池鉱山と水俣病の原因を認めなかったチッソの姿勢はそっくりだという。その姿勢は、福島原発事故後の東京電力の姿勢ともそっくりだ。自己保身の姿を隠すことなく曝け出した。
 そこでは政府、企業、御用学者の連係が存在する。さらに「労」の「産」防衛という強固な協力がある。「産」・「官」・「学」・「労」の4者共闘の構造が存在している。
 彼らは、「反原発」「脱原発」の主張に「経済」で反論する。経済が発展しないと生活向上がないという。経済の発展とは民間活力を発揮して競争力をつけることだという。
 しかし競争力を煽って「経済」で走り続けた結果としての格差拡大が、東北、そして原子力ムラが陥った事態だった。東北地方は、東日本大震災が発生する前から過疎化が進んでいた。そのことが今回改めて問題提起されたのである。
 多くの人びとは、経済の発展は富める者がさらに富むだけで、人びとの生活の底上げをはかるものでないことをすでに体感している。電力のコストアップは企業を海外に追いやってしまうという論理を、労働者はかなり前から人件費のコストアップは企業を海外に追いやるという理論で聞かされている。その理論への服従の結果は、本工労働者の生活は保障されたが非正規労働者の数を増大させ、さらに処遇を劣悪なものにしたことをしていった。同じ屁理屈に労働者は翻弄されない。
 原発に依拠しなくても電力供給が十分なことをこの夏の事態は証明した。
 「脱原発」「反原発」を主張する人たちは、そのことに気付き、生活の向上というフレーズにごまかされることなく安全な社会、安心した生活ができる社会を目指している。
 結局、政府と「企業」は東日本大震災から何も教訓を導き出そうとしない。いや、「経済」を主張することで「復興」を忘れ去ろう、忘れさせようとしている。復興事業は経済力をつける事ではない。「安全」、「安心」を「経済」では説得することはできない。
 このことが「フクシマ」を経ての一番の教訓である。

(11月24日:いしだ・けい)


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