【書評】『「フクシマ論」論 原子力ムラはなぜうまれたか』●その1
   開沼 博 著 2011年.6月青土社刊 2,310円

汚染の恐怖による批判が通じない「ムラ」の構造

― 中央と地方の同床異夢の相関関係を読み解く ―

(インターナショナル第207号:2012年3月号掲載)


 2月19日付の『朝日新聞』に「『脱原発』声上がらぬ下北」の見出し記事があった。
 原子力発電所や核燃料サイクル施設などが集中している青森県下北半島で、3.11以降も「反原発」「脱原発」の声が響くことはないという。東通原発がある東通村で、「原発が来てもいい面もあったんだ」と、かつては反対運動の先頭に立った漁師が言う。
 大間町には大間原発の建設が開始された。そこでは人口6.000人の町で1.700人が建設現場で働いていた。3.11で工事は止まったが、11月以降、長町や町議会は国を繰り返し訪れて建設再開を求めているという。
 3.11以降に行われた各地の自治体議員選挙で「反原発」「脱原発」を主張した候補者は苦戦を舐めた。
 このような状況はどのようにして生まれたのだろうか。

 ▼「地域を守る」目標の「意図せぬ結果」

 昨年6月に開沼博著『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)が発刊された。
 著者は福島県出身で「フクシマ」論は故郷の話だが、「原子力との初めての出会い(それは福島ではなく六ヶ所だったのだが)が私に与えた印象は今でも全く変わっていない。私たちは原子力を抱えるムラを『国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険なものを押し付けられて可哀想』と、あるいは『国の成長のため、地域の発展のために仕方ないんだ』と象徴化するだろう。しかし、実際にその地に行って感じたのは、そのような二項対立的な言説が捉えきれない、ある種の宗教的ともいってもいいような『幸福』のあり様だった。」という。
 その六ヶ所での印象から、「フクシマ」・「原子力ムラ」=原子力発電所及び関連施設を抱える地域」の問題を、「中央と地方」と「日本の戦後成長」の関係から論じ今後に向けて問題提起をした。
 その論を側面から検討してみる。
  原発はどのようなところに入ってきたのか
 『「フクシマ」論』は、中央と地方の関係における「支配―服従」について「支配があるから服従があるのではなく、服従があるから制服がある」という。
 「自らの利益のために地域を弄ぶ」中央の身勝手さに対して、地方は「自ら勝手な特需幻想」を持ち「地域を守る」目標を立てる。しかし地方は「意図せぬ結果」につながって行くという。
 「そこでなされたのは、植民地征服であり『国内植民地』の制服でもあった。」という。

  ▼日韓併合によって東北は取り残された

 福島・東北を『国内植民地』と捉える、例えることの実態はどのようなものであっただろうか。
 在日韓人歴史資料館に展示されている新聞記事は、1911年に柳田国男が政府から「韓国併合ニ関シ尽力其功不少」ということで「勲五等瑞宝章」を貰っていたと報じている。柳田の民族学は日本のアジア侵略の先兵だったといわれるが、もう1つの顔は条約に携わる官僚。記事は、叙勲は1910年に「締結」された日韓併合条約の条文作成に関与した功積に対してだろうと推論している。
 条約はどのようにして作成されたのか。
 アメリカ大陸への侵略者は、近代的土地所有意識がない先住民から植民者が土地を奪い取る。現在の北海道大学に明治初期に赴任したクラークはアメリカ式土地収用方法を新渡戸稲造に伝授した。新渡戸がその方法を柳田に伝授するとともに台湾で実践したと推論している。
 柳田が『遠野物語』を刊行したのも1910年。奇しくも大逆事件がでっち上げられた年でもある。
 中生勝美編『植民地人類学の展望』(風響社刊)は「戦時中の民族学は、戦争遂行のための基礎学問として、あらゆる国で利用された。」という。
 「戦略展開地域での現地事情、とりわけ原住民の状況、社会組織、政治形態は、戦争遂行のための兵要地誌作成に必要最低条件として求められる情報である。これらは民族誌作成の必要項目と重複し、その意味で兵要地誌作成のための基礎学問として『民族学』が重視されていたのである。」
 「日本でも、戦時中に『民俗研究』の必要性が軍部から提起され、文部省から支援されて、民俗研究所が設立された。また太平洋戦争が勃発すると、東南アジアの占領地を統合するため、統合調査が実施されたように、部分的にせよ、民俗調査が軍事行動と直接結びつく『有用な学問』として支援されたのである」
 柳田が『遠野物語』で言う「山人」は「我々社会以外の住民、即ち、我々と異なった生活をして居る民族」、平地に居住する『日本人』=「大和民族」に先行し、やがて「帰順」した「東北人」を指す。

 『日本人』の政府は、日韓併合によって朝鮮半島からの鉱山資源と食糧の略奪が可能となるともう一度東北を捨てる。東北は取り残されたままで軍人・軍属の供給拠点となって行った。その構造は終戦まで続く。
 福島原発が建つ土地の一部は、戦時中は陸軍の練習飛行場で、戦後は塩田事業が行われたが数年後に廃れる。現在の原子力ムラの生活レベルは福島県で最低レベルであったという。しかし原発を受け入れた理由は地域共同体の貧しさからの脱出という思いだけでなく、中央との接点をもって起死回生をはかろうとする意識が大きかったという。

▼ 地元のエリートが就職する東京電力

 農地改革で農家は自分の田畑を所有した。小規模面積を家族で耕作するが農繁期以外は余剰の労働力が生じる。農業技術の開発はさらに余剰労働力を出した。
 しかし戦後の産業振興は、朝鮮戦争による特需でも地方から労働力を供給しなければならないようなことはなかった。
 55年の「岩戸景気」の頃から、繊維産業の発展、電気製品の需要拡大のなかで地方の労働力は都市部に吸収されていく。特に中学卒業の労働力は「金の卵」ともてはやされた。
 その後高校進学者が増大し、高校卒業の労働力である「銀の卵」は技術革新が進む中での技術者・技能者、中間管理職候補となった。しかし都市部は地方の「銀の卵」を「金の卵」ほど吸収しなかった。まもなく「金の卵」求人が減っていった。

 

 福島原発地域は産業の招聘に期待をかける。そこに「大企業」東京電力が現れた。
 都市部に流れない「銀の卵」は地元に就職する。成績が良かったエリートは地元の大きな会社に就職するという構造ができ上がった。東京電力は、地元では選ばれた者しか入社できない憧れの会社となった。エリートが働いている会社が危険なはずはない。危険だなどという風評は迷惑だった。

▼ 原発誘致で「地域振興」

 仙台はローカル線のターミナルでもあり東北の中心都市だった。東京―仙台間が特急で片道4時間、急行で6時間の頃は仙台を支店として営業所が存在していた。
 道路が整備されると、仙台市内は県内だけでなく福島や山形からの買い物客でにぎわった。高速道路が開通するとさらにそうなった。
 しかし、片道2時間で新幹線が開通すると、仙台で支店だったところは営業所になり、管理監督者が指示だけ与えて日帰りするという構造になった。
 東京と仙台を結ぶ鉄道は東北本線と太平洋岸を走る常盤線がある。しかし東京―仙台間が特急で片道4時間、さらに新幹線が開通すると常盤線の利用は減っていった。沿岸自治体がどのようにして人口減少を食い止めるか、企業を呼び込むかの課題を背負っていた。
 今回の東日本大震災で明らかになっていたのは、東北地方の大企業系列の部品製造の子会社・孫会社の存在であった。高速道路の開通とともに過疎化防止対策や地域振興の美名のもとに物言わない低賃金労働者に依存した収奪構造ができ上がっていた。

 ▼「原子力」とは何か。

 『「フクシマ」論』は、ただの「エネルギー生産や兵器に用いられる高度な科学技術」ではないと位置付ける。軍事的秩序にとって重要な要因であり、電力確保にとって重要な位置付けがされてきたし、地域開発や環境運動にとって大きな課題であった。つまりは自然科学の分野だけの問題ではなく社会科学の分野でもあったという。さらには東北地方の歴史性などに視点を当てたら人文科学の分野の問題でもあるだろう。
 しかし戦後の経済成長は科学や技術の進歩がけん引すると捉えられ、地域開発が近代化の美名のもとに押し進められ、そこから取り残されている地域では追い付くことが命題となり、住民の生活安定が進む中で、意識は「原子力」に支配されていってしまったという。
 このような中で作り上げられた構造は、自然科学の分野から危険性を主張する「反原発」や「環境保全」の視点からの批判だけでは崩されないものになってしまっていたという。

  ▼自然科学・技術が独走

 今「朝日新聞」は「原発とメディア」を連載している。その66回で相反する2つの主張を紹介している。
 森恭三論説主幹は、74年7月12日号の『朝日ジャーナル』の巻頭言に書いている。
 「科学技術が進歩すればするほど、科学技術をみちびくべき精神というものが重要となる。なぜなら科学技術は自己推進的に、自分自身の理論によって発展してゆくものだからだ。何が善であり悪であるかという価値観は、科学技術の外から与えられねばならぬ」
 科学部長の木村繁は、79年1月号の土木学会誌に論文を書いている。
 「原発は『安全性に問題がある』などと反対論をふれまわるのは、門外漢の文芸評論家や作家、原子炉のネジ一本いじったことのない理論物理学者である。『反科学・反技術』の思想をはびこらせてはならない。彼らの偏見に満ちた、誤った『感想文』に対抗するには、額に汗する第一線の技術者の発言が必要だ。理論物理学者の机上の空論を粉砕する積極性を技術者は持ってほしい。現場の声は評論家らのうつろな議論をたやすく圧倒するだろう」
 前者は自然科学と社会科学、人文科学の分野それぞれの他分野からの点検の必要性を指摘しているが、後者は自然科学分野のさらに技術の独走を主張している。技術は他分野の批判を受け入れることなど必要ない位置にあるということである。この主張は経済界の主張と一致していた。

 ▼社会科学、人文科学の点検の欠落

 大学医学部の精神衛生の授業で教授が「生きているとはどういうことか」と質問したら「心臓が動いていることです」という答えが返ってきたという。医学生的回答というよりは社会科学、人文科学の思考が欠落した者の回答である。
 しかし現在の医学の研究はそのような思考のなかで専門分野の究極を探求する欲望実現に向かって、社会科学、人文科学の分野での点検なしで進められている状況がある。ゲノム、遺伝子研究、精神医療の数値化などはまさにそうである。医学が社会科学、人文科学の分野から検証されることなく「進歩」している。人権・人格は無視されている。そしてその進歩を期待しているのが経済である。
 原子力はそのような中で支配・管理されていった。

 ▼原子力ロボットが「正義の味方」

 このような構造はどのようにして出来上がったのか。
 52年4月から、漫画雑誌『少年』に手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の連載が始まりかなりの長期間続いた。鉄腕アトムは、原子力をエネルギー源とする人と同等の感情を持った少年ロボットであり「正義の味方」である。テレビアニメとしても高視聴率だった。
 広島・長崎から10年も経たないうちに、原子力は新たなエネルー、「正義の味方」として浸透を開始されていった。
 手塚治虫は長い間、日本共産党に高額の個人献金を続けていた。
 「鉄腕アトム」は、原子力の平和利用論に大きく貢献した。

 ▼ビキニ事件を日米政府が封殺に動く

 1954年3月1日、アメリカがマーシャル群島ビキニ環礁で行った水爆実験で静岡県焼津港のマグロ船第五福竜丸が死の灰をあびて3月14日に帰港した。寄港すると新聞は「邦人漁夫ビキニ原爆実験に遭遇、23名に原子病、水爆か」と報道。世界的なニュースとして広まった。第五福竜丸だけでなく延べ856隻以上の漁船が被災していたことも明らかになった。各市場ではマグロ放射能検査が行われ、取引が中止された。築地市場ではマグロを地中に埋めて処理をした。
 各地で原子力兵器の製造・使用・実験の禁止を求める署名運動が開始された。東京・杉並区では鮮魚店連合が展開していた水爆禁止の署名運動をヒントに「杉並アピール」が発表された。署名数は、55年8月に広島と長崎で開催された原水爆禁止世界大会までに900万筆に達した。
 12月28日、日本政府はマグロ放射能検査中死の閣議決定を行う。そして1月4日、日米両政府は交換公文を交わす。
「1 米国政府は日本国民の損害のため法律上の責任とは関係なく慰謝料として200万ドル支払う。
  2 前期金額の配分は日本政府が決定する。
  3 日本政府は前期の金額を昨年のマーシャル群島における原子核実験より生じた日本国およびその国民の一切の損害に関する請求の最終的解決として受諾する」
 漁業関係者からは抗議の声が上がったが、水産業界は「騒ぎが大きくなればマグロが売れなくなる」と放射能魚廃棄の基準値の引き上げを要求した。
 「当時、マグロ漁界は独占化がすすみ、母船式大型船団が中小船主を抱え込んでいた。また、流通業界は造船費や運営資金を貸し付ける等、中小船主に強い影響力を持っていた。一方中小船主も、『ビキニ事件による倒産をなんとか免れたい』という追い詰められた状態で、わずかな『慰謝料』と引き換えに、事件の幕引きを手伝わされた。」(幡多高校生ゼミナール他編『ビキニの海は忘れない』汐文社刊)
 53年、読売新聞の資本のもとで日本テレビが開局した。
 53年7月30日、力道山は日本プロレスリング協会を設立する。日本テレビはプロレスを中継する。
 テレビがまだ珍しかった頃、プロレス興業で力道山は対戦するアメリカ人選手を負かせた。試合中継をみて視聴者は歓喜した。しかしこの興行は、ビキニ事件と原水爆禁止運動から関心を背けさせる1つの手段だったと言われている。試合には進行台本があった。

 ▼「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」

 1961年夏、ソ連は大型水爆実験を開始する。この実験に抗議するか支持するかで原水禁運動は対立する。その一方の極である中ソを「平和勢力」と主張する勢力は原子力の平和利用を主張した。
 中国新聞の基本的な論調は「広島の復興」。しかし報道統制が解除になっても原爆被害の実態や悲惨さを伝える記事は多くはなかった。しかしビキニ事件が編集方針の変更を強制した。
 金井利博論説委員は、原爆を落とされた側の広島が人類に与えることができるのは、落とされた現実の報告とそれに基づく忠告であるという視点から紙面づくりを始める。金井論説委員の指導を受けた後輩記者も様々な視点から原爆被害の記事を書き続ける。
 64年に開催された分裂ぶくみの第10回原水爆禁止世界大会で金井論説委員は呼びかけを行う。
 「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。……
 世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨についてではない。……
 平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか……
 今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである」
 しかし中国新聞社の姿勢とは裏腹に、「原爆は威力として」軍事力、原子力・原発をエネルギーとして受け入れられていった。
 「人間的悲惨」の原爆被害の恐怖、原子力の危険性の訴えは「おざなりに」なり、訴える者は少数派になってしまった。平和運動は衰退していった。
 

いしだ・けい
                                  (つづく)


書評topへ hptopへ