【書評】ナオミ・クライン著「ショック・ ドクトリン−惨事便乗型資本主義の正体を暴く」(岩波書店刊

腐臭を放つ資本主義− 「ショック・ ドクトリン」を読んで

(インターナショナル204号:2011年10月号掲載)


▼惨事に便乗する

 @「3.11以降の日本は確実に次ぎの標的になる」(堤 未果)〔下巻帯書〕に引きつけられて本書を手に取った。巨大災害時に、“好機到来”とばかりに、復興どころか、一握りのグローバル資本が巨万の富を集積させ、多くの人々が塗炭の苦しみに投げ込まれる実態が丹念な取材のもとに克明に記されている。

 A災害=惨事に便乗する資本の動向を理論づける新自由主義経済学派が世界で展開してきた“ショック療法”の実態が暴きだされる。「“ショック・ ドクトリン”というレンズを通すと過去35年間の世界がまるで違って見えてくる」と筆者も言うように、災害に止まらず、戦争・クーデタ・テロ・経済不況等々あらゆる機会を捉え、流血の大弾圧による人民の多大な犠牲の上築かれる究極的格差社会、これが惨事便乗資本主義の姿である。  

▼ショック・ ドクトリンとは

@本書名の“ショック・ドクトリン”とは聴き慣れない言葉である。心理学におけるショック療法とフリードマンを頭目とする新自由主義経済論・政策(ドクトリン)をむすび付けた著者独自の用語だろう。新古典派とも称する新自由主義経済論においては、自由な競争=市場原理の下でのみ(即ち純粋資本主義のもとで)“神の手”によって富の増殖ひては 社会の発展がもたらされると考える。
 フリードマンとその弟子ども(シカゴ学派)は、これに宗派的確信を抱き次ぎのような経済政策を打ち出す。
 第一に小さな政府(財政支出削減)、第二に公共事業の民営化(民間への売却)、第三に国家のすべての規制の撤廃(最賃制や価格統制)、第四に国家の経済介入の排除、第五として資本の国際自由化だ。彼らは世界中でいかなる状況にあろうともこのドクトリンの貫徹を目指す。

Aこの経済政策遂行の為には、労働者人民の抵抗を初めとする障碍を除去しなければならない。
 ここで、心理的白紙状態を生み出すショック療法の手法が導入される。
 戦争・クーデタ・経済恐慌・テロ事件・自然災害等あらゆる機会をショック状態として捉え、それ以前の制度・権利・習慣・文化等(人民の既得権も当然含まれる)を白紙状態とし、己の政策を自由に実現しようとする、これが、ショック・ドクトリンの正体だ。シカゴ学派は、70年代以降この信念に基づき全世界で暗躍してきた。

▼チリの悲劇=途上国でのシカゴ学派

@シカゴ学派の最初の実験が、チリのアデェエンデ政権に対するピノチェトの軍事クーデタ、みせしめの大量虐殺・“死のキャラバン”というショック療法による経済政策の断行だった。医療・教育を中心とする公共支出の27%削減、ただ同然に国営企業は売却する。その結果、国内企業の相次ぐ倒産・失業率20%増加・インフレ率375%に達し、チリ経済は15%縮小した。

A“人民戦線的政権”の解体に止まらなかった。国家の統制の下に国民経済を構築しようとする途上国の企図は徹底的に粉砕された。
 国際独占資本とそれに結びつく一部資本と大土地所有者の利益を優先する自由主義市場経済の場へと転換させられた。
 シカゴ学派にとっては輝かしい“成功”だと喧伝され、同様の政策は、瞬く間に、アルゼンチン・ボリビア等ラテンアメリカ全域でも過酷に展開された。これらの諸国では、徹底した弾圧、無差別検挙・拷問・テロが横行した。  チリの悲劇と同様の事態は、アジアでのスカルノ政権の崩壊とスハルト政権の登場とその経済政策にも表れた。

B時代は若干後になるが、アジア経済危機(この危機そのものが、発展し始めたアジア経済の循環的要因と国際金融市場のブラフの側面が多分にあると思うが)に際しての、シカゴ学派の牛耳るIMF・世銀は全く傍観するだけであり、何の救済策もなされなかった。
 このためアジア諸国の国民経済は深刻な打撃を被る一方、国際資本が有望な企業を買収・ 統合する道を拓いた。政治経済的ショックだけではない。2004年スマトラ沖地震とその後の津波という自然災害を好機到来とばかりに、スリランカでは次のような事態が発生した。災害発生直後には民族的対立は消滅し助け合いの雰囲気が盛り上がっていた。
 ところが、政府は、「バッファーゾーン」(緩衝地帯)構築と称して、漁民を海岸から暴力的に締め出し、高級ツーリストスッポト建設に着手し始めた。
 災害をショック療法として一挙に着手されたのだ。漁民たちの生活権・居住権を奪い恒久的スラムに押し込める一方で、世界の富豪の“南国の楽園”の建設を米国企業が請け負うのだ。  

▼社会主義圏の崩壊とシカゴ学派

@旧社会主義圏の崩壊と混乱に乗じてシカゴ学派は動きその矛先は、ポーランドに最初に向けられた。
 巨大な国営企業・協同組合の組織化・労働者評議会の組織化等ポーランド連帯の運動は、新しい社会システムにむけた可能性に満ち溢れ、民主主義的労働者大衆の熱気に溢れていた。だが経済的には、400億ドルの債務・深刻な食料不足・昂進するインフレのただ中にあった。「連帯」指導部は、その経済再建をなんとシカゴ学派に求めたのだ。(すべてが終わったあとで、「連帯」指導部の一人は当時の無知を嘆いたが)・。IMFや世銀は債務救済の条件として彼らのドクトリンの実行を条件づけた。
 この結果、ポーランド経済はさらに急速に悪化、工場生産30%下落・失業率25%に上昇、本格的不況に陥ってしまった。労働者はストライキで対抗し、「連帯」への支持は急落し、1988年の勝利から2年後、「連帯」選挙で大敗北を喫することとなった。

A中国では、改革・解放経済への移行は、フリードマン直々の助言のもとでなされた。ケ小平の私的所有の容認・市場の海外資本への解放・労働者保護施策の削減・大量消費の促進等の諸政策の断行は、物価上昇・失業増大・格差拡大を誘引し、広範な大衆の抗議の声が拡大していた。
 ケ小平は、40万の武装警察の創出を抜かりなく片方で準備していた。天安門事件はかくして引き起こされた。若者を中心とした民衆主義を求める大衆への戦車 おも投入した武力弾圧はショック療法としての効果を狙ったものであった。筆者は、実は その直後から全国の工場労働者が最も過酷な弾圧をうけ、沈黙させられたと述べている。  

Bロシアに於いても、スターリニズムに反対し民主主義を求める大衆の要求は、新しい社会への渇望として立ち現れていた。シカゴ学派の握るIMFと世銀は、「シカゴ学派の経済プログラム」か「民主主義革命」かの選択を迫った。
 断行出来ないゴルバチョフはエリツンに追い落とされた。
 エリツンは、第一のショック療法としてソ連邦を解体、第二に経済ショックとして、国営企業の民営化・価格統制廃止・貿易自由化を敢行した。
 その結果は惨憺たるものであり、インフレの昂進・賃金未払・消費40%減・貧困ライン1/3以上となった。大衆の反撃には非常事態宣言と武力弾圧で臨み、さらなるドクトリンの徹底化を企図する。
 そこで、第三のショック療法として、チェチェン攻撃が開始されることになる。
 ロシアでは、国営企業が外国企業への売却を許可しなかったため、党高級官僚が買収、新興財閥を形成、「ロシアの共産主義者は権力と財産を交換した」と皮肉られることとなった。

▼先進諸国での民営化の嵐

@欧米諸国では、途上国で実施されたショック療法を、労働者大衆の獲得した既得権と民主主義的に形成された市民社会を前に暴力的に一挙的に実現することは困難だった。
 それでも、フリードマンを師と仰ぐサッチャーは、民営化・規制撤廃・自由貿易・財政支出削減を骨子とする「所有者社会」を掲げた。
 その実現に向けた一種のショック療法が、フォークランド紛争であった。ナショナリズムの高揚をショックとして利用、ドクトリン実現を目指した。

A米国では、レーガンから始まる民営化の嵐は、共和党政権下は言うまでもなく民主党クリントン政権下でも続き、90年代末には大規模公営事業の殆どが対象となった。
 その結果は、中産階級の完全な没落と、1%の大金持ちと99%の貧しい人々というとてつもない格差社会を誕生させることとなった。この具体的事例は「貧困大国アメリカ」(堤未果)に語られている。
 日本での中曽根の国鉄民営化から小泉の郵政民営化・規制緩和・労働法改悪に至る全過程もこの国際的潮流の中にあることは言うまでもない。

B9.11とテロとの闘いをショック療法として、残されていた領域=軍事・警備・刑務所・消防・情報管理等の分野をも民営化・外部委託され始めた。特に、セキュリタリー産業が大きく伸張し、国境監視が産業として成立、CIAの連行・収容・尋問も外部委託され、セキュリタリー産業は未曽有の高収益をあげた。  
 イラク戦争とその後の占領過程において、「戦争の民営化」が一段と進んだ。
 傭兵ビジネス・後方活動の殆どの民営化(軍隊のマクドナルド化と筆者は言う)占領地の警備等のセキュリタリー部門等だ。
 さらに、「復興分野」においても、ブッシュのアウトソーシングの発想により、イラク軍編成・訓練も民間委託され、結局復興財源はアメリカ資本に環流する仕組みが作られた。国営企業売却・配給制度廃止・大量解雇(特に公務員)は、イラクをズタズタに引き裂くことになり、民族宗教対立を深刻にし、暴力の吹き荒れる地となってしまった。
 その一方でイラクの財産は米国に食い荒らされ、石油利権も石油メジャーに利益を吸い上げられることとなった。
 政府国家と経済界が混然一体となり、戦争とその復興でも二重に収益の実現に狂奔する、これがイラク戦争の実情だったのだ。

Cハリケーン・カトリーナの被災地ニューオーリンズはマメリカ社会の縮図として無惨な状況を呈した。
 「災害復興計画」は何一つ実現されず、シカゴ学派のドクトリンにより、予算削減(学生ローン・医療保険・食料配給券にかかわる)、公務員給与支払い拒否により自治体機能は麻痺し、教育の民営化による教職員の大量解雇が発生し、法廷機能さえ停止した。
 一般大衆の居住地区には電力復旧はなされず、公共住宅は放置され“モールベルト地帯”(カビの繁殖した地帯)と化した。
 金持ちは、民営化されたサービス提供によって優雅な生活環境が整う一方、庶民はフェンスで囲われ、パトロールで監視され、外部と遮断され、犯罪人のように難民施設に収容され、復興の望みは断たれている。
 著者は「新自由主義の虚偽と神話がどんな結果をもたらすかみせつけた」と断じている。  

▼なお警戒を怠るな

@本書で述べられている諸事件が、ニクソンショック以降であることはすぐ気づかれるだろう。このショックこそ、マンデルが言う「後期資本主義」のサイクルの終焉の時だったのだ。
 その絶頂期には、大衆消費社会を実現し中産階級を産み出し、資本蓄積と発展の過程が社会発展と軌を一つにする幻想も醸し出した。
 シカゴ学派は、「後期資本主義」のサイクルの終焉後の、現代の“資本主義の死の苦悶”を代弁しているのだ。

Aシカゴ学派の破産と資本主義の実体的破産にも拘わらず、否、そうであればこそ、グローバル資本の振る舞いは些かも変化することなしに、あらゆる事件・情勢に介入するだろう。
 本書を読む人ならば、今現在進行する諸情勢にも、ブルジョアマスコミの一方的断片的情報にまどわされない分析の必要を痛感するだろう。  
 「ジャスミン革命」としての中近東を席巻する市民的運動と独裁政権の崩壊の背後で国際資本はどう対応しようとしているのか―例えば、リビヤの石油利権に石油メジャーはどうアプローチしているのか、これらの国の国営事業はどうなるのか……。  
 ギリシャの財政危機から始まったEU金融危機(実際のところ、ギリシャ財政危機=国家破綻という評価さえ誰がつくりだしたものなのか、ギリシャ労働者の背骨をへし折るキャンペーンかもしれない)についても、G20の協議の背後で、全く語られない米英金融資本の思惑はどこにあるのか等々、深い警戒心と洞察力をもって情勢分析し、真実の世界像を掴みとらねばならない。

B本書の訳者は後書で「……あからさまな惨事便乗経済の発動は今のところ伝えられていないものの、復興の名を借りて住民無視・財界優先を打ち出す自治体も出て来ており、予断をゆるさない」と指摘する。
 宮城県知事の漁業をめぐる特区構想は、中小漁民の経営権を剥奪し、大資本の進出を奨励するものである。復興財源も果たして本当に被災者の地元に届くのか、注意深く経過を追わねばならない。3.11ショウックを奇貨として、なかなか実現できなかった増税(消費税含む)や、TPP参加といった懸案事項を一挙に成し遂げようとする気配もある。野田政権の動向にも監視の目を怠ってはならないだろう。

▼希望への道が見え始める

@人類の滅亡をも道連れにしようとするグローバル資本主義の廃絶の道がたやすく見いだせる訳ではない。しかし、世界の民衆の反撃は確実にはじまっている。その運動の中から 資本主義廃絶後の社会のありようがほのかに見えてくることも確かだ。  
 ラテンアメリカでは、2000年代に入り、軍事独裁政権に取って代わった反米民主主義政権を続々と誕生させた。IMFや世銀の介入を排した「米州ボルーバル同盟」による比較的穏やかな経済圏の形成。
 チリでは、主要経済部門の国有化や土地改良・教育への大規模な投資・医療の拡充など当たり前の政策に基づく「平等な社会を目指す運動」が始まっている。
 ブラジルでは「土地なき農民運動」という農民達の共同組合の結成と農地再利用運動が進んでいる。
 アルゼンチンにおける元従業員達による倒産企業を民主的に運営する協同組合の結成、ベネズエエラでは、協同組合が全国で10万結成され、国の業務がそこに委託され、地元労働者の働く場所が提供されている等々。
 筆者が“日常生活の民主主義”と指摘する改良運動と政策は、経済的疲弊からの回復過程であるとともに、あたらしい社会組織のあり方に示唆を与えてくれていると思う。  
 スマトラ沖地震とその後の津波でも、スリランカと違ってタイでは「再進入」と称する行動で開発業者の介入を許さず、自分の土地は自分で守る意志が明確に打ち出された。 「住民の直接参加による復興が一般的になっている」と筆者は指摘する。
 タイの運動はニューオーリンズの被災地住民にも多くの教訓を与え、自力復興の精神が発揮され始めている。

A本書は次の言葉で結ばれている。
 「地域社会に根を張り、ひたすら実質的な改革に取り組むという意味において急進的なこれらの人々は……平等で住みやすい場所へと作りかえている。そしてなににも増して、自らの回復力の増強を図っている」と。  
 私達もまた、出来合いの観念からではなく、現実の諸矛盾を人間として共同してたたかう過程から来たるべき社会の有り様を探り出していくことが求められている。即ち、資本主義の極北にまで至ったその対極に、次の社会の原像が浮かびあがってくることに確信を持つべきだろう。  
 本書は大部(上下2巻700ページ弱)であるけれども、多くの方々が一読され、災害復旧の諸課題の追求のみならず、資本主義の究極的実相とその廃絶を考え抜く一助にされるよう期待するものである。

 【10/20:かなえ・あきら】


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