【書評】『アメリカ帝国の悲劇』文芸春秋 2004年刊:2800円

4つの悲劇に復讐される「基地の帝国」アメリカ

(インターナショナル第152号:2005年1・2月号掲載)


 国際社会に制約されない先制攻撃を宣言したいわゆるブッシュ・ドクトリンが公表されて以降、「アメリカ帝国」の分析こころみる書籍はあらゆる書店の店頭をかざるまでになり、国際社会の強い反対を押し切ってイラク戦争を始めて以降は、アメリカ軍の世界的再編も含めて、その軍事的側面についての究明も盛んである。
 だがこの「帝国」のリアルな実態、つまり軍産複合体と呼ばれるアメリカの政治と経済の関係とはどんなもので、世界中に張り巡らされた米軍基地ネットワークがもつ戦争以外の役目とは何であり、そして現実のアメリカ軍の実態とはどんなものなかを、すでに明らかな事実と公表された資料に基づいて詳細に論じたという意味では、本書は飛び抜けた力作である。

▼少し長い著者の紹介

 それは著者チャルマーズ・ジョンソンが、1967年から73年にかけて「中国研究の専門家」として中央情報局(CIA)の国家評価局顧問の地位にあり、「きわめて高度の機密取り扱い許可を与えられていた」だけではなく、戦後アメリカの共産主義封じ込め戦略を提唱したアイゼンハワー政権の国務長官だった「ダレス家の書斎」で、「CIAの最新報告や、古い情報評価のバックナンバー、スパイ活動の専門技術を扱った機密刊行物」に自由に目を通せたおかげで、アメリカの国際戦略の表裏をつぶさに見聞してきたことが大いに役立っているに違いない。
 しかも本書を貫くアメリカ国防総省に対する徹底した批判的視点は、このCIA顧問時代に培われた。彼は「国家情報評価を秘密にする最大の理由はその完璧な陳腐さにある」という冗談めいた疑惑を抱き、やがて「CIAでは主客が転倒していること、アメリカが本当にやっているのは情報の収集と分析ではなく秘密活動であることにじょじょに気づ」き、第二次大戦中にCIAの前身である戦略事務局(OSS)を設立したウィリアム・ドノヴァンが局内に残したという言い伝え=「彼は情報の分析を海外での破壊活動の便利な隠れみのと考え・・・この口実は長年にわたって有益であることが実証された」を知って、「国家安全保障上の理由から秘密を守っているとはいっさい考えないようになった」という。「政府の各部局は議会の詮索や政府内部のほかの政治的官僚的ライバルから身を守るために物事を秘密にしている」《本書17-18頁》だけだからである。
 そして1996年、当時の大田知事に招かれて沖縄を訪れたことで転機を迎える。「沖縄にある事実上のアメリカの軍事植民地を初めて訪れ・・・アメリカのどんな重要な戦略も沖縄の20パーセントにもあたる一等地に38カ所もの独立した基地を展開する理由を説明できはしないという事実を痛感」し、「日本と中国の政治経済を研究することに人生を捧げてきた」著者が、専門外である「アメリカの全地球的な軍事覇権主義を分析する」仕事を始めることなったからである。彼は、この年に起きた駐留米軍兵士による少女強姦事件で噴出した「沖縄県民の敵意に深く心を動かされ」《同12-13頁》たのである。
 こうして始まった彼の新しい仕事は、まずは前著『アメリカ帝国への報復』(2000年:集英社)として公表された。ところがこの著書は、「アメリカの帝国主義的な政策がその被害を受けた国々に怨嗟の種を蒔き、やがてアメリカ自身にテロ攻撃をふくめた報復となって跳ね返ってくるだろう」《訳者あとがき》と、翌2001年9月のテロを予言することになったのである。

 本書を紹介する前に著者の経歴や転機を少しばかり長く紹介したのは、彼がかつてアメリカ情報機関の重要なポストを経験し、まさにその仕事に関わる中でアメリカの「帝国主義的な政策」の矛盾や欺瞞を見いだし、アメリカ政府に対する厳しい批判者に転じたことが重要だからではない。
 同様の経歴と転機をへて自国政府の批判者に転じた例は、最近(と言っても2年ほど前だが)では『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(02年5月刊)の著者・スティングリッツが、クリントン政権の経済諮問委員と世界銀行のチーフエコノミスト兼上級副総裁であったことはよく知られているし、もう少しさかのぼれば、「反グローバル運動のバイブル」と言われた『グローバル経済という怪物』(97年4月刊)の著者デビッド・コーテンは、中米経済研究所(INCAE)顧問や国際開発庁(USAID)顧問といった、アメリカの対外援助と国際的な開発行政に長く関わってきた経歴をもっていた。
 こうした著書には、アメリカに根付いた言論の自由の強力な伝統と共に、この伝統を支える「アメリカ的個人主義」に基づく自己の信念と学術的結論に対する忠実さがよく現れている。だがこれらの著書が私たちにとって有益なのは、9・11テロを契機にその姿を露にしはじめた新しい帝国・アメリカについて、その実態を解明しより効果的に闘う為の知識や材料を提供してくれる「すぐれた教科書」たりうることである。
 本書の著者ジョンソンの経歴と転機を多少詳しく紹介したのは、これを確認しておきたかったからであり、それは著者たちの思想的立場がどうあれ損なわれることのない使用価値だろうからである。

▼「大量消費社会のスパルタ」

 著者のジョンソンは、現代の帝国・アメリカと過去の幾多の帝国とを決定的区別する特徴は、それが「植民地の帝国ではなく、基地の帝国」であり、しかもその軍事基地は戦争の遂行ではなく「軍国主義と帝国主義の純粋な示威行為」の必要によって維持されていることだと言う。
「北アメリカ大陸を占拠して植民し、砦(フォート)と呼ばれる前哨基地」を全土に建設したアメリカは「しかし、時代がもっと現代に近づくと・・・ほかの多くの帝国とちがって、領土をまったく併合しなかった。そのかわりに、領土のなかに排他的な軍事地帯をもうけ(ときにはたんに借り上げて)、植民地の帝国ではなく、基地の帝国を作り上げたのである。こうした基地は・・・文民のしっかりした監視を受けることなく国防総省から指示を与えられ・・・拡張をつづけるアメリカの軍産複合体と結びついて、基地を取り巻く現地の文化に大きな影響を与えたが、それはほぼ例外なく悪い影響だった。こうした基地がアメリカを新種の軍事帝国に変えた」《34頁》のだと。ではそれは、いったいどんな種類の「軍事帝国」なのか。
 彼の回答は「兵士たちのエアコンつきの家や映画館、スーパーマーケット、ゴルフコース、水泳プールを見せびらかす戦士の文化、大量消費社会のスパルタ」《同前》という新種の軍事帝国である。
 著者の「アメリカ帝国」に関する認識の最大の特徴がこの一点に凝縮されている。と同時にこうしたアメリカ帝国像は、植民地の飽くなき拡大を求めて相争う一国的な帝国主義諸国とは違う、つまりロシア革命の指導者レーニンが第一次大戦前に当時の金融資本の動向を分析して提示した「帝国主義」像とはまったく様相を異にする、新しい帝国主義の姿の提示でもある。
 こうして、「現代のアメリカ帝国」はその「基地建設方針、つまりわれわれが地球上に兵隊を配置する特定のやりかたをくわしく見なければ、気づくことも理解することもできない」《241頁》と考える著者は、国防総省の公式文書で明らかにされている38カ国725カ所の海外基地と、国連に加盟する189カ国のうちの153カ国に配置された米軍の実態を検証して、その膨大な「設備代替価値」や駐留軍高官と兵士たちの豪華な暮らしぶり、各国との「軍地位協定」で守られた兵士たちによる犯罪の横行、基地のある諸国の対米感情までを多くの資料を駆使して詳細かつ具体的に論証している。
 あわせて著者は、「アメリカ軍国主義の根源」(第2章)を1898年の米西戦争にまでさかのぼって考察し、「第一次世界大戦がアメリカ帝国主義のイデオロギー的基盤を生み出し」、「第二次世界大戦はその成長する軍国主義を解き放った」《70頁》経過を追い、「アメリカ軍国主義の各組織」(第4章)の発展と変容の過程と「代理兵士と私設傭兵たち」(第5章)の実態、さらには「ブッシュよりずっと有能な帝国主義者」クリントンが推進したグローバル化の帝国主義的内実とその直面した危機(第9章)に至るまで、実に広範な問題を精力的に論じている。
 このすべてを短い書評で紹介することはできないので、以下「基地の帝国」を支え推進する国防総省と軍需産業の関係を検証した部分と、著者の結論を紹介したい。

▼軍産複合体と現代の地方総督

 世界を包囲する米軍基地ネットワークの重要な効果は、もちろん「威嚇」であ。それは石油などの戦略資源を事実上支配する多国籍企業の活動を強力にバックアップし、諸外国政府がアメリカに抵抗する決断を躊躇させる圧力であり、CIAやアメリカ軍特殊部隊の暗躍によるクーデターや反乱という隠然たる脅迫によって補完された、帝国主義的政策を遂行する基本的手段である。そしてもちろん本書でも、著者は多くの頁を割いてこれを論じている。
 その上で著者は、基地ネットワークのもうひとつの効用を指摘する。それは、アメリカの尖兵として選挙で選ばれた自国政府をクーデターで転覆するような軍隊が、いかに作られるかという秘密をも明らかにする。
 その効用とは、海外基地に駐留する米軍が各国軍隊と親密な関係を築き、アメリカ式の装備による「近代化」を促すことで新たな兵器市場を開拓し、軍需産業に莫大な利益をもたらす効果である。「訓練して売る−これは同盟国を集め、低開発国から金を稼ぐための、密接に連携したシステムなのである」《174頁》。基地が存在しない国では派遣された軍事顧問団が、それを受け入れない「反米的」諸国では潜入した特殊部隊や秘密工作員が、「親米的」な軍幹部や武装ゲリラと親密な関係を築くのである。
 これによって引き起こされる内乱=「低強度紛争」やイラク戦争のような極地的な戦争は、アメリカ製兵器の格好の展示会となって「軍国主義と戦争と武器セールスと基地拡張のサイクル」《274頁》を加速する。
 軍需産業と国防総省の基地ネットワークのこうした結びつきは冷戦終焉後の90年代、海外基地司令官たちの権限強化を伴って急速に拡大したという。
 「1990年代には、二大政党の指導者たちが、多くの外交政策の目標は・・・こうした軍同士の接触や武器取引によっていちばんよく促進できるという結論に達し」、「国務省の国際軍事教育訓練計画(IMET)は、1994年以降、4倍の規模に拡大」《172頁》され、クリントン政権下の1997年には「重要な外交政策や軍事戦略を定める責任は、公式に戦域司令官に与えられた」《160頁》のである。
 すでに中央軍(中東)、太平洋軍、欧州軍、南方軍(ラテンアメリカ)の最高司令官として「半自治権を持つ将軍や提督たち」は「長年の内に、自分の担当する戦域で大使よりも大きな影響力もつようになってきてい」《161頁》たが、それは「昔の帝国と同じように、われわれの帝国の地方総督」として「治外法権を認める『軍地位協定』をホスト国に守らせ、アメリカ兵が地元住民に対して犯した罪の責任をとらなくてすむように目を光らせる軍の高官」《11頁》なのだと論じる。
 著者はこのシステムの機能を、実に多くの事例を挙げて暴いていく。

▼「帝国の悲劇」の「予言」

 だが本書の邦題にもあるように、こうしたアメリカ帝国の将来に対する著者の「予言」は、「報いと復讐の女神、虚栄と傲慢の懲罰者であるネメシスが、われわれとの出会いを手ぐすね引いて待ちかまえている」《本文の結語:401頁》という悲劇である。
 この帝国を襲う悲劇は第1に、「たえまなく戦争がつづく状態がおとずれ」て「アメリカ人に対するテロが増加」し、「アメリカ帝国という怪物から身を守ろうとして大量破壊兵器に対する依存」が強まり、第2に「民主主義と憲法上の権利が失われ」、第3に「真実を伝えるとい原則が、プロパガンダや情報操作、戦争や権力や軍隊に対する賛美」に取って代わられ、第4には「財政が破綻する」《366頁》ことである。
 本書の終章(第10章)は、この4つの悲劇の根拠と現実性を、例によって多くの事例を示しながら説明している。

 かつては自由と民主主義と繁栄の代名詞であったアメリカが「帝国」として意識されるようになったのは、国際政治にさほど関心のない普通の人々にとってはごく最近、つまり9・11テロの後、ブッシュ政権が「悪の枢軸」を告発してイラクで無法な戦争を始めてからであろう。
 だが著者ジョンソンは、彼自身が意図したか否かは別にして、この現実をアメリカの帝国主義と軍国主義の歴史的到達点であることを明らかにし、「われわれが自分たちの国を失っていまうのではないかと恐れて」《21頁》警鐘を乱打している。
 もちろん本書には、同意できない記述も説得力に乏しい展開も多い。ひとつだけ例をあげれば、クリントン政権がすすめた「グローバル化」と世界貿易機構(WTO)設立が賢い帝国主義的政策だったことには同意できても、ガット体制が今でもうまく機能することが可能であるかのように論ずるのは、私には幻想としか考えられない。
 にもかかわらず、本書を貫く彼の危機感と詳細な論証は、80年余り前にロシア革命の指導者トロツキーが「ヨーロッパとアメリカ」と題する報告で述べた「予言」と二重写しになる、アメリカ帝国主義の「現在の危機」の活写に思えるのだ。
 「まさに、時がたつにつれてますます合衆国が全世界を自己に依存させるがゆえに、ますます合衆国自身があらゆる矛盾と恐るべき激動とを伴った世界全体に依存するようになる」。「われわれはアメリカの力を一瞬でも過小評価しない。・・・・それどころか合衆国の力は今やヨーロッパ革命の最大のテコである」(『ヨーロッパとアメリカ』1992年:柘植書房刊)。
 もちろんトロツキーの「予言」は、現代の「新種の帝国」という新しい時代認識の上に据え直されなければならないし、「ヨーロッパ革命」の部分は「もうひとつの世界のための闘争」と書き換えられなければならないだろう。
 なぜならいま私たちが相対するアメリカ帝国は、トロツキーの時代に破滅した「一国的な帝国主義」の没落に替わって台頭し、第二次大戦で荒廃したヨーロッパに資本主義を再建し、戦後世界を「自由と民主主義と繁栄」への期待で教育し、少なくとも戦後の四半世紀は「資本主義は生命力を使い果たしたのか」という同じ報告におけるトロツキーの問いに「ノー」と答えてみせた、「大衆消費社会のスパルタ」だからである。

(2/12:みよし・かつみ)


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