【書評】

『<節度の経済学>の時代--市場競争至上主義を超えて』内橋克人著 朝日新聞社03年12月刊 1,470円

人間と地域の再生に役立つ「技術のあり方」

(インターナショナル第148号:2004年9月号掲載)


 京都から舞鶴に向かう国道を中古自転車を満載したトラックが行く。舞鶴港から発展途上国に向けて積み出されるのであろう。最近よく見かける風景である。また、舞鶴港の周辺の十数キロには純農村地域が広がる。その田んぼの中にポンコツ自動車が積み上げられた風景が見える。搬入・解体に忙しく働く労働者のほとんどはアフリカ系や南・西アジア系の人々である。ポンコツ自動車で動くモノは舞鶴港からロシアやアジア全域に積み出されるのであろう。こんな様子が村の隣組の農事会議で頻繁に出てくる話題である。日本の社会の様相が「田舎」でも大きく変化していることが分かる。
 さて、本書の帯にこうある。『マネー資本主義に抗して―「人間復興」のシステムを目指す―その具体的提言』。あとがきで著者は次のように述べている。「本書は、1990年代半ば以降、時代の節目、節目において私が行った発言のうち、とりわけ新聞メディアでの論述を中心にとりまとめたものである。90年代初頭、これからの日本が迫られるものは過去の『過剰拡大の後の過剰負担』の清算にほかならず、やってくるのは『長期構造的停滞』のほかないと私は指摘した。」略「その長期構造的停滞に陥った日本経済からの脱出口を求めて、私たちの政府は、市場競争至上、企業行動自由化一辺倒の政策をもってし、この国に生きる人々を置き去りにした。」「長きにわたってこの国を支配した官僚的規制から解き放つ本来の『規制緩和』が、たちまち『公共の企業化』へとすり替わった。環境、景観、教育、労働、人の生命の安全、ついに私たちの老後まで『商品』となった。市民社会が主導すべき市民的社会規制も、古い政官財の癒着と同様、既得権益への固執とみなされるようになった。社会的規制も、形を変えた経済的規制だ、という荒い政策論が大手をふるった。」「結果、この国でもまた生活・地域の格差拡大、モノをつくる現場でのあい次ぐ工場事故など、すさんだ社会の様相は深まっている。勝ち組、負け組などという言葉が日常的に語られるようになったのも、この90年代にほかならない。」「本書に収めた折々の言説を、時を経て省みるとき、当時、危惧したことのすべてがあらわな姿で現実のものとなりつつあることに、私はあらためて衝撃を受けざるを得ない」と指摘している。

▼経済の繁栄と社会の衰退

 本書は、5つの章構成からなっている。<市場競争至上主義を超えて><住民自治の原点><「食の安全」を求めて><政治のあり方を問う><「匠の時代」ふたたび>と続く構成でほぼ推察できるように、市場競争至上主義すなわちグローバリズムに対抗し、人間復興のための経済システムを一人一人の生活の再生・地域経済の再生・生産労働現場の再生を貫く思潮の構築を提唱するというのが内橋克人氏の意図である。内容は、内橋氏が後書きで述べたように、1990年代半ば以降2003年9月までの34本の新聞メディアでの論述が中心になっている。その中でも著者の地元「神戸新聞」に掲載された論述が19本を占めている。著者の神戸に係わる姿勢を如実に示している。論述を時期別に並べるのではなく、テーマ・項目毎に並べられていることも本書の特徴である。内橋氏が昨年世に問うた「もう一つの日本の再生は可能だ」(光文社)と多くの部分で重なり合うが、本書は、著者が90年代から一貫して主張してきた言説のほとんどがことごとく「あらわな姿」で現実のものとなりつつあることに衝撃を受け、その主張を再度掲載することで、「人間復興のシステム」づくりを世に問うというものである。
 表題にある「節度ある経済」について、「規制緩和」の奔流に抗して対置された「節度」「秩序」「社会的責任」「制度」をキーワードに、人間復興→地域復興→新たな経済システムと国際協調という流れを現実の動静をとおしてきわめて説得的に説明・論証されている。現在、グローバリズムの激流に対し、民衆の対抗思潮が芽生え世界的な広がりを示し始めていることは、諸メディアを通じて報じられている。
 さらに著者によれば、「いま世界経済に新たに始まっている波は、日本とは逆に、規制緩和(デ・レギュレーション)から再規制(リ・レギュレーション)へ、という趨勢です。アメリカ主導の「世界市場化」という「国益戦略」によっていったん突き崩された防波堤を再び築き直す。巨大な妖怪と化した国際投機資本に対して、規制を設ける、といううねりです。」本書58頁(1998年9月25日「週間金曜日」)
 「上の動きは、マレーシア、ロシアで90年代後半から起こっており、今やヨーロッパでは安全、健康、環境保持で「社会的規制」が始まっている。」(「月報司法書士」2003年3月号)この状況を踏まえて、日本のあるべき方向を「節度ある政治・経済・社会」として指し示している。
 本書を読み進めていくと、内橋氏の一貫した姿勢が、繰り返し見えてくるとともに、氏の的確な表現によって、事態の本質が浮かび上がってくる。すなわち、現在のアメリカ主導のグローバリズムの潮流が作り出している社会状況を次のように表現し、その意味するところを世界の多くの識者の見解を集め、また氏独特の表現を多用し象徴化している。
 グローバリズム下での社会の特徴は、「モノとカネのムダを最小化」するために「人間をムダにする」社会であり、市場原理至上主義の価値観が生み出したものである。そして「経済は栄え、社会は衰退する」というエドワード・ルトワク(米戦略国際問題研究所上級研究員)の説を引用する。
 また99人の「負け組」と1人の「勝ち組」に淘汰され、生き残るためにリストラを際限なく行い、有能な社員を首切りし、労働者の「働く自由」でなく、資本の「働かせ方の自由」を最大限保障する労働法の改正を進める社会である。会社に残ってもいつでもリストラが待ち受けている社会であり、「勝ち組」こそリストラをさらに進めることによって勝ち続けようとするのである。氏はこのような社会を「高度失業化社会」といい「人間排除の経済」の社会という。まさしく現実はこのとおりである。

▼有用な技術、枯渇しない資源

 これに対し、氏は先に述べたように「人間復興のシステム」づくりを世に問うている。
「高度失業化社会」に対し「会社を潰せば人間も潰れる社会」でなく「会社が潰れても人間は潰れない社会」を創出し、「人間排除の経済」に対置して「人間復興の経済」をめざし、「虚の経済」に対し「実の経済」を提起する。
 そしてこれらを現実のものとするためには、日本が培ってきた「技術力」(氏はこの技術を持つ人々を「現代の匠」と呼ぶ)を社会化することを軸に、方向を示している。
 第一は、新たな「産業連鎖」の形成であり、第二は、再生可能エネルギー(生き続けるエネルギー)の創出であるという。
 新たな「産業連鎖」の形成とは、「人類が過去、うち捨ててきた膨大な植えエミッション(廃棄物)を新しい資源、原料へと添加する技術であり、そのために必要とされるのが新しい「産業連鎖」なのである。」(本書260頁)氏は具体的な例として“ビール工場と養殖漁業”“古紙と建築資材”を例に挙げている。
 再生可能なエネルギーとはまさしく「自然界に存在する、枯渇することのない循環資源を身近な生活の場に生かそうとするものである。」これを支える技術には“燃料電池の実用化”や“海水淡水化装置”に代表される日本の「技術力」が大きな位置を占めることになる。
 そして、氏が最後に述べているのは「現代の匠とは、何よりも社会のあり方を根元から問い直し、新たな仕組みを生み出そうとするする人びとをいうのである。」「いかに生産条件に役立つ技術であろうと、それがひとたび生存条件にとってマイナスであることが分かれば、これを採用しない、という技術社会のあり方を守る人々のことである。」ということである。かってわれわれが論議をした『社会的有用労働』と通底しているのではないか。ぜひ本書を購読される際、内橋氏の「もうひとつの日本は可能だ」等の著作を併読されるようお勧めしたい。
 UFJをめぐる騒動、美浜原発に見られる関西電力の無惨な利益優先主義による労働者の犠牲、プロ野球における1リーグ制策動とこの夏の暑さを倍加させた事件を考えるとき、まさしく本書が指摘した日本社会の帰結を見る感がする。そして「年金改悪」に見られる政治の腐敗と隘路に突入した日本社会をどう再生するのか、われわれは「何をなすべきか」自問し、挑戦をしなければならない。

【たかなし・としみ】


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