鎌田慧著『去るも地獄 残るも地獄』によせて
闘いの評価を曖昧にした「思い」
神話化された三池闘争と、国鉄闘争の未来


やがてくる日に
 歴史が正しく書かれる
 やがてくる日に
 私たちは正しい道を
 進んだといわれよう
 私たちは正しく生きたと
 いわれよう

 私たちの肩は労働でよじれ
 指は貧乏で節くれだっていたが
 そのまなざしは
 まっすぐで美しかったといわれよう
 まっすぐに

 美しい未来をゆるぎなく
 みつめていたといわれよう
 はたらくもののその未来のために
 正しく生きたといわれよう

 日本のはたらく者が怒りにもえ
 たくさんの血が
 三池に流されたのだと
 いわれよう

 1960年9月8日、三池闘争は終息した。
 82年に発刊された『去るも地獄 残るも地獄』の書き出しにあるこの詩は、闘争終息後の9月20日発行の、三池労組などが連名でだしたビラの最後に載っていた。詩は、三池闘争の最中殺された久保清さんの慰霊碑のとなりの石碑にも刻まれている。
 この詩を最初に読んだとき、三池闘争282日間を闘った労働者の心意気が感じられた。三池闘争はまだつづいている、決して負けてはいないと確信した。
 しかし三池の閉山決定を聞いた後で読み返すと、はたしてこの労働者の思いは受け継がれたのだろうかという疑問が湧いた。そして昨年来の国鉄闘争における国労本部と闘争団の攻防のなかでもう一度読み返すと、今度は苛立ってきた。
 かつては、1278人が解雇されそれを撤回させることができなかった三池闘争について語るとき、「敗北」したと公言することははばかられた。「終息」「終了」「解決」などと言い表われされた。たしかに詩にこめられた思いを共有しつづけようとしたとき、「敗北」と断定するのはつらいことだろう。三池労組と支援の労働者は、その限界まで闘いつづけたのだから。
 しかしその「負けさせたくない」思いは、闘争の客観的評価を曖昧にもさせてきた。

 昨年からの国鉄闘争の混迷は、こうした三池闘争を連想させた。もちろん40年のタイムラグがあり、取り巻く情勢も労使の力関係もちがう。しかし国労執行部の政治的立場は、三池闘争と二重写しに見えてきた。簡単にいえば、共通のスローガン「長期抵抗路線」で双方が、「勝つ闘争」ではなく「負けない闘争」を続けているように思える。
 しかし労働者は、歴史に正しく書かれるために闘争をしているのではない。「やがてくる日に」ではなく、いますぐにでも正しい道を進んだと確信したい。
 いまこそ国鉄闘争には、そのような方針が必要なのではないか。では「負けない闘争」ではなく「勝つための闘争」はどのように構築されなければならないのか。
 鎌田慧さんの『去るも地獄 残るも地獄』は20年まえ、すでにそのことを提起していた。鎌田さんの三池闘争とその後の闘いへの問題提起を三池闘争関係の資料で補足しながら、国鉄闘争と重ねあわせて勝利のための闘い方をさぐってみたい。

人権回復、労働者の連帯

 三池炭坑の歴史を語るとき、囚人労働、強制連行、そして「ヨーロン」とよばれてさげすまれた与論島出身労働者を抜きにしては語れない。さらに三池闘争は、みずからを誇りをもって「ユンヌンチュ」とよんだ与論島出身者を抜きにしては語れない。
 ユンヌンチュは、三池闘争のまえの53年の1722人の解雇撤回をかちとった「英雄なき113日の闘争」をへるなかで、低賃金での過酷な労働をしいられた下請け労働者から三池鉱山の本工労働者となることができた。労働組合の解雇撤回闘争は、労働組合の力強さを知るとともに「人権を回復」する闘いでもあった。三池鉱山への消せない怨念をいだく彼らにとって、三池闘争は決して負けられない闘いであった。

 ユンヌンチュの三井鉱山港務所の労働者だった竹内福雄さんが語っている。
 「囚人労働は、1930年に廃止された。そのあと、中国人、朝鮮人、およびイギリス人捕虜などと並んで、もっとも苛酷な労働を強いられたのは、与論島出身者であった。風俗・言語のちがいは、『未開人』として差別感を助長し、ヨゴレゴンゾウと軽蔑された労働者となって、さらに差別されることになった。その差別をはね返そうと、一致団結して働けば働くほど、標準作業料はひきあげられ、賃金はさらに切り下げられた。敗戦後の乱痴気騒ぎは、そんなしっこくからの解放の表現だった。・・・
 竹内さんは1961年、停年で三井鉱山港務所を退職した。勤続30年と10カ月だった。最後まで第一組合員であった。なぜ第一組合に残りつづけたのか、それに答えて彼はこういう。『戦時中の酷い労働条件を忘れることができんからです』。
 朝、仕事に出る。その日は徹夜、そして午後3時まで働かされる。その繰り返しだった。疲れはて、銭湯から帰って寝ていると、係員が情容赦もなく叩き起こし健康よりも、船を1日で早くだして経費を削減するほうが、会社にとっての重要事だった。
 新港社宅は、まわりを柵で囲まれていた。出口は守衛が見張っていた。客がきたので酒を買いにでようとしても、『どこへ行くのか』と呼びとめられた。それがめんどうで柵を越えたのを発見され、解雇されたものもいた。屋根に登っていただけで怪しまれて解雇されたひともいる。社宅は収容所だった。そんな管理と支配への憎しみ、低賃金と重労働への怒り、それが身体のなかに刻みこまれた。会社と対抗する第一組合こそが竹内さんにとっての正義であった。それに死の淵からようやく生還した軍隊体験がある。三井と軍隊への憤りが竹内さんを三池労組に踏みとどまらせた。」

 ユンヌンチュの三池労組港務支部貯炭出来高分会の行動隊員だった供利政広さんがかたっている。
 「48年、親方制度は廃止となり、労働者は直傭労働組合に組織された。それは労働組合というよりは、臨時夫の同業者組合といったような性格であったようだ。契約期間は1年間、毎年3月に身体検査をうけ、その結果によって再契約された。病弱者は情容赦もなく切り捨てられた。だから健康なもので、病気を理由に解雇されるのではないか、とまいとしビクビクしながら働いていた。直傭夫のほとんどは高齢者や年少者であり、青年・壮年で体力のあるものは、三井三池の直轄夫として採用された。
 直轄夫(本工)の仕事は石炭、硫安、岩塩、肥料など三井コンビナートで生産される原料、製品の荷役であり、直傭夫は、ボタの処理とか船積みなどの補助労働だった。それはとうぜん賃金にも影響していたから、直傭夫のなかでも直轄夫化を望む声が強かった。しかし、そうなれば、老人は切り捨てられ、18歳未満の者は、労働基準法にもとづいて深夜労働ができなくなる。直傭労働組合の300人が本工になれたのは1955年。三池労組の力によってである。
 直傭夫だったときの供利さんの悩みは、三池労組がストライキにはいっているときに働かなければならないことだった。直傭労働組合は、名前は『労働組合』であっても、なんの力もなかった。本工たちがストにはいっているときに、彼らは『スト破り』になってしまうのだった。彼は、三池労組本部へ相談にいった。ストライキのとき、自分たちは働いていいものかどうか、それをたしかめにいったのである。『さしつかえない』と組合が答え、彼は安心した。そのころから、彼は労働者の連帯、といったようなものが気になっていたのだった。それでわざわざ組合に出かけたのである。・・・・
 53年の『英雄なき113日間の闘い』に勝利したのち、三池労組は、供利さん流にいえば『日の出の勢い』となったのである。・・・・
 子供のころから与論島人として差別され、働きだしてからは、1年契約の臨時工として酷使される。うっ積していた不合理への怒りと、闘争を通じて実感した仲間との連帯感、それが彼を活動家にしていった。
 指名解雇の通告を、彼は『ああ、きたか』と静かな気持ちで受け止めた、という。いま、三池闘争でなにを思いだしますかときくと、彼はちょっと目をつぶってから、『仲間』『団結』と答えた。・・・・
 貯炭分会での解雇者16名のうち、11名までが与論島出身者だった。1200名の指名解雇者のうち、同島出身者は36名である。・・・・
 与論島出身者のなかで最初に第二組合に参加したのは・・・3、4人だった。」

三権委譲方式と現場協議制

 「英雄なき113日の闘争」をへて三池労組は職場闘争を展開し、労働条件の均一化をすすめ、交渉力、妥結権、スト権を職場に譲ねる「三権委譲方式」を獲得した。職場のヘゲモニーを実質的に労働組合がにぎった。最近発刊された平井陽一著『三池闘争』は、三池闘争を次のように評価している。
 「組合によって展開された『輪番性』と『生産コントロール』は、職場の労務管理を麻痺させ、それに取って代わって労働者職場秩序を構築・維持することにほかならなかったから、企業としては職場秩序を回復して生産効率の向上を図るためには、これらの組合規制の中心的担い手たる職場活動家=『生産阻害者』の排除が不可欠であり、三池闘争として激突せざるをえない『労使対立の非和解的性格』が存在したことになる。」
 労働組合は、自覚するかしないかにかかわらず企業内組合の限界に挑戦していたのである。この「自主管理」の萌芽にもなりかねない労使関係を資本は容認できず、資本は「総資本対総労働」の総資本を形成し、59年から攻撃を開始した。それが三池闘争である。
 三池闘争の指導部は「向坂学校」出身者が多数をしめていた。しかし「英雄なき113日の闘争」の指導部は、戦後組合を結成したものや職場改善闘争をすすめてきたものなどもいた。戦後の「自主管理闘争」も遠いむかしのできごとではなかった。
 大衆的労働組合における指導部はさまざまな潮流があるのは自然だが、「英雄なき113日の闘争」と三池闘争の指導部は構成に変化があった。そのようななかで三池闘争の指導部にとって「三権委譲方式」は、平井陽一著『三池闘争』では「経営権の蚕食というこれまでの運動とは一線を超えた領域に足を踏み入れたことに対する躊躇」か、「あるいは到達した職場闘争の高みに対する認識がなかったのか、いずれかと思われる」。
 この「到達した職場闘争の高みに対する認識がな」いまま、過去の栄光にすがっているのが「向坂学校」ではないのか。

 65年の国労大会は「職場に労働運動を定着させる」という方針を決定した。その具体的行動方針として「職場要求について必ず現場長との集団交渉をおこない・・・」などを掲げた。そして職場交渉権確立の手がかりとして36協定の事業場締結確立の方針を掲げて闘いを開始した。その成果として68年3月、現場団体交渉制度である「現場協議に関する協約」の合意が成立した。これは三池労組の「三権委譲方式」を取り入れたのもであった。
 60年代後半から開始された生産性向上運動いわゆるマル生攻撃は、国鉄では70年からはじまった。マル生攻撃は国労潰しであった。これに対し国労は、具体的な反マル生闘争として不当労働行為や不当差別にたいする闘いを取り組んだ。裁判、公労委、ILOを舞台に闘われたが、国労は世論の支持も得、公労委は国鉄当局の不当労働行為を認定して謝罪を命じた。反マル生闘争は勝利した。しかし新労も確実に組織を拡大していた。
 反マル生闘争は保線の労働者にとっては、「人権闘争」だったという。そこで労働組合の闘いを知ったという。それまでの保線労働者は過酷な労働を強いられていた。そして保線には多くの下請け労働者が働いていた。三池におけるユンヌンチュとおなじ体験を、国労の保線の労働者はした。
 「三権委譲方式」と「現場協議制」、協会派指導部にとっては「長期抵抗路線」の手段と位置づけられていたのだろうが、政府・資本にとっては容認できるものではなかった。国鉄の分割民営化は、国労もろともこれを潰すために開始された。
 人権回復をもとめて労働組合運動に希望と確信をもったユンヌンチュと保線の労働者によって支えられ、企業内組合の限界に無自覚に到達していた協会派指導部によって闘われたのが三池闘争、国鉄分割民営化反対闘争ではなかったのか。

下請け労働者と新労

 三池闘争の最中、新労が結成された。その数は当初三池労組の指導部が予測していたものを上回る。三池労組が新労を会社の肝煎り、分断工作などといくら批判しても、会社が第二組合を結成するのは常套手段である。それよりも一組は、どこでこの攻撃を食い止めるかを方針にしなければなるまい。攻撃の本質はなにか、労働者はどのような意識で闘いをつづけているのかを、組合指導部はとらえる必要があった。それがなかったことが、三井鉱山の労組・三鉱連の内部での対立ともなっていったのではないだろうか。
 最近になって新労結成の経過を明らかにした本が出されたが、この問題を総括した三池労組の文書はない。さらにいうと三池労組は、三池闘争をいまだ総括していない。というよりも神話になった過去の闘いは総括のしようがない。長期抵抗路線もまた、三池闘争の腐敗神話に支えられていつまでも繰り返しつづけられるのだ。

 久保さんが殺害されたのは、会社が生産を強行再開した3月28日の翌日だった。
 殺害したのは会社に雇われた暴力団員だった。この時の状況が、三池労組発行の『みいけ二十年』に書かれている。
 「山代、寺内組(大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた)・・・暴力団は『お前の顔は覚えたぞ』『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」と。
 会社が雇った暴力団が、警察も黙認したテロで労働者を虐殺したことは絶対に許すことはできない。しかし三池労組員・久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者であり、ストで仕事からあぶれていた人夫であった事実は重い。彼らは三池の労働組合に組織されることもなく、会社に雇われたのである。
 三池労組の、このなんのこだわりもない記述の中から本工と下請け、日雇い労働者の関係がみえてこないだろうか。時代的制約もあろうが、三池で総資本と対峙した「総労働」の中には、日雇い労働者は入ってはいなかった。「英雄なき113日の闘争」での三池労組とユンヌンチュとの関係が、当時の三池闘争でも構築されていたなら、久保さんは虐殺されずに「総労働」も一層強化されたのではないだろうか。
 この問題は、増えつづけているパート、派遣、下請け労働者と正規社員との関係という、労働組合の現在的課題を提起してはいないだろうか。 また国鉄の分割民営化のとき、当時の国鉄の下請け労働者がうけた玉突き解雇の問題もとらえなおしてみる必要があるのではないだろうか。

長期抵抗路線の実像

 闘争終了後、会社と炭労・三池労組は生産再開問題について交渉を開始した。しかし職場交渉について、「英雄なき113日の闘い」以来の職場闘争の諸権利は解消され、12月1日一番方から全面就労が再開された。
 三池闘争が終了すると、年末から翌年3月にかけて全国の炭坑で合理化提案がおこなわれた。しかし炭労の、産業別統一闘争を組む体制はくずれていた。炭労の各支部は、三池労組の妥結を契機に全面的首切り合理化に直面したが、独自の闘いを展開せざるをえなかった。
 このようななかで三池労組の闘いは、団体交渉に比重が移っていった。そして、大衆の抵抗闘争による以外にないという立場を確認するにいたった。
 1962年の三池労組定期大会で長期抵抗路線の方針は確立された。その行動方針は「要約すると、差別は資本主義が存在する限り存続するし、三池の今日の差別は、資本主義的合理化の一形態にほかならないということである。とすれば、差別に対しては、姿勢を低くして抵抗を放棄するのではなく、合理化攻撃そのものに抵抗する以外に道はないことは明らかであり、差別されて困るという組合員の意識がある限り差別攻撃はなくならないという点を組合員に意識させることの必要性が強調された。そして、資本の体制的合理化に対決する反合理化の闘いは長期展望をもった抵抗、長期抵抗路線しかないことが確認されたのであった。・・・・
 そして職場抵抗闘争の新たな創出、三池大闘争を闘った体験と誇り、三池労組指導部への信頼、5人組活動の活性化、活動家養成の前進、教宣文化活動の豊富化などの中で、長期抵抗路線への認識は深まり、その内容は高度化していった。・・・・
 では反撃に転ずる条件は何か。
 第一は、大衆の信頼が指導部に集中しているかどうか。そして第二は、味方の志気が旺盛かどうか。・・・」(三池労組編『みいけ炭坑労働組合』)。
 この路線はその後、具体的にはどのように展開されたのか。方針のなかからは、資本主義的合理化の一形態との闘争という政治闘争と職場闘争の接ぎ木、認識の深化という学習会による教条化と排外主義、ねばり強い抵抗闘争という職場とじこもりの色がにじみでている。そして反撃に転ずる条件のひとつ、大衆の信頼が指導部に集中しているかどうかは、組合員の独自行動は団結を乱すものとして許されない上位下達の組織形態が称賛され、スターリニズムそのままの上からの統制が色濃く現れていた。
 「長期抵抗路線」という言葉が使われたのは、闘争収拾が明らかになった60年9月13日に開かれた決起集会の宣言文でだという。そのなかに「たたかいは終わったのではなく、今から長期の抵抗闘争に突入する、という全三池の決意をおつたえします」とある。 現在の国鉄闘争などでよく聞く「長期抵抗路線」はここからはじまった。

 いま「闘う闘争団」が、「大衆の信頼が指導部に集中している」のとは正反対の状況のなかで、独自の闘いを開始したことは、客観的には、多くの闘争団員がこれまで確信していたであろう「長期抵抗路線」からの離脱であり、その「揺らいだ確信」から「新たな認識」への転換を経てこそ闘いの飛躍をかちとることができる。

自発的大衆行動への不信

 「マンモス訴訟」において三井鉱山は信義則違反を主張してきた。68年1月12日の協定で問題は解決しているというのである。
 「(1)原告らは、被告が昭和43年(68年)1月12日及びそれ以前に三池労組との間で締結した本件事件に伴う原告らの援護等に関する諸協定を誠実に実施する時は、被告に対し右協定に定めるもの以外の金銭賠償等の請求は行わない。
 (2)将来経済事情その他の変更等により、原告らが被告に対し前項の諸協定の内容の補正等を要求しようとする場合でも、原告らは、組合を代理人として、組合と被告との協議によってのみ右要求の実現を図るべく、原告ら各自が直接被告に対し金銭その他の給付を請求したり、そのための訴えを提起したりする等の手段にでることはしない」。
 実はこのような合意があったのである。
 三池労組は、上位下達の組織運営で、組合員の行動はあくまで労組の責任、指導のもとにおこなわれなければならず、個人的行動、独自行動は団結を破壊するものとして認められない体質を闘争時だけでなく日常的に一貫してもっている。それは一般組合員の意識、創造力、能力を否定するだけでなく、不信感の逆の表現である。組合のもつ力量は組合役員の力量でしか評価できなくなり、そこから方針はたてられる。そのことを知りつくしている会社は、一般組合員に知らせないことを条件に組合役員と協定を結ぶことができるし、その組合役員は協定を守るため特定の者で集団化する。そして問題が発生したときは会社にたいする責任が暗黙の解決内容となる。組合は一般組合員にとっては弾圧機関となってしまう。その体質は日常的にも一般組合員と組合役員との不信感としてあらわれる。新労をいくら批判しても、三池労組ももう一つの企業内組合を突破できなかったのである。
 松尾さんらが訴訟を起こすのには、9年を要した。国労闘争団の中の闘う闘争団が国労本部から自立し、訴訟にも団員個人で参加するのに14年を要した。自分たちの所属する労働組合を信じるのはもちろん悪いことではないが、一般の組合員とは置かれている状況が違う被解雇者は、その組合員の組織(国労)からは相対的に自立し、当該としての闘争方針と解決内容についての自己決定権を闘争開始の時から持つべきであった。これまでの国鉄闘争は、争議の主体がはっきりしていなかったのである。
 闘争方針等の一切を組合本部にゆだねるということは、政府・会社にとっては生活苦、解雇への怒りで闘争団と温度差がある人間と交渉ができるということである。それは政府や会社にとっては有利であるが、闘争団はらち外となるリスクを負う。そして「雇用されている者たち」の組合の力が後退を余儀なくされたとき、闘争団にも後退が強制されることになる。
 これまで闘争団は、企業内組合で崖っぷちに立たされていた。そして今、企業内組合の外に追いやられようとしている。しかし国労執行部は闘う闘争団を統制・処分できるだろうか。三池の松尾さんらにできなかったようにできはしない。なぜなら、国労(国鉄闘争支援中央共闘もふくめて)は企業内組合として闘ってきたが、全国の国鉄闘争は企業内組合主義を突破して闘ってきたからである。国労が「全国の国鉄闘争」を処分できないかぎり、闘う闘争団を処分できはしない。
 そしてもし処分を強行したら、それは国労の文字通りの自殺行為である。

(いしだ・けい)

 


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