サッカーワールドカップの感動と腐敗

2002年6月5日

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 6月4日は、「アジアで最初の、ワールドカップ史上初めての日本と韓国による共催によるワールドカップ」(『現代用語の基礎知識』2002年版より)で、開催国である韓国と日本の初戦の日だった。結果はご承知のように、韓国代表チームは2−0でポーランドを下しW杯出場6度目にして初の勝利、日本代表チームは2−2でベルギーと引き分け、2度目の出場で初の勝ち点1を獲得した。
 こうした国際的スポーツイベントがあると、マスコミはいつも「がんばれニッポン」と大騒ぎをし、進歩的人士や革新政党でさえこのときばかりは「がんばれニッポン」を唱和するものだから、わたしたちのような「極左派」は、ナチス時代のベルリンオリンピックになぞらえて「ナショナリズムの称揚」と「国威発揚」に利用されるスポーツイベントを批判することになる。
 しかし考えてみれば、このマスコミや政府・政党のおきまりのパターンの空騒ぎに、おきまりのパターンの批判を投げつけるだけでは、いかにも芸がない。
 現に「ナショナリズムの称揚」と言ってみても、「歴史的な」韓日両国代表チームの初勝利と初の勝ち点は、サッカー先進地域であるヨーロッパから監督を招へいすることで、つまり外国人の力を借りてはじめて達成されたのだし、韓日共催という試みも、「近くて遠い隣国」韓国と日本の、とくに若い世代の感情的距離を縮める可能性があり、それが「日本の帝国主義的国威発揚だ」とか言われても、逆に現実的には聞こえないだろう。それに両国代表チームの若き戦士たちの健闘ぶりが、サッカー後進地域の人々を感動させた事実は否定しようもない。
 だからむしろ、今の日本社会と国際社会のあり方を変革したいと考える者は、現実に人々が疑問を抱き、不満に思い、憤りを感じている具体的事実をとらえて、有用な批判的提起を心がけるべきなのではないだろうか。その具体的事実のひとつが「大量の空席問題」、つまり観戦チケットの不足と不透明な流通・販売の問題なのだと思う。
 日本代表チームの初戦が行われた埼玉県の土谷知事が「損害賠償ものだ」と怒ったが、この問題での怒りの代弁を、むざむざと政治屋たちに預けてしまう必要はない。これは巨大イベントにつきまとう利権争いの結果であり、国際サッカー連盟(FIFA)なる官僚組織はこの利権を取り仕切る輩の巣窟であることを、事実にもとづいて批判することこそが必要だからだ。
 つまりW杯直前の5月29日に開かれたFIFA総会で、ブラッター会長が不透明な財務処理で糾弾されても再選されたこと、FIFA上層部との癒着が指摘されるイギリスのチケット販売代理店・バイロム社が大量のチケットを抱え込んでいたこと、それがチケット販売手数料をめぐる利権独占の疑いが強いこと、さらには親睦と交流を名目に、W杯に出場しない国々のサッカー協会にまで配られる無記名の観戦チケットがダフ屋に転売され、それが各国サッカー協会職員の「ボーナス」になっていることなど、スポーツイベントを、言い換えれば選手やサポーターたちの純真な情熱を食い物にするビジネスの横行を公然と非難し、若い世代がこうした腐敗と不正に批判的まなざしを向けるための手助けをする必要があるのだと思う。
 なぜならこうした不正は、人々がスポーツの世界に体現されていると信じている公明さや公正さ等々の崇高な理念への裏切りであり、同時にあらゆるモノを商品化し物質的(金銭的)利益の自由な追求が善であるとして、人々の純真な情熱さえも金銭に換算する資本主義というシステムの下では決して排除できない問題にほかならないからである。だとすれば私たちは、この裏切りと「純真な情熱さえも金銭に換算する」スポーツビジネスの横行に憤る若い世代に、例えばマルクスの次の言葉を贈るといった「手助けを」考えてもいいのではないだろうか。
 「勇敢を貨幣で買うことのできる者は、たとえ彼が臆病であっても、勇敢なのである。(中略)人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提したまえ。そうすれば君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、(だからまた情熱はただ情熱とだけ=筆者)等々というように交換することができる」(『経済学・哲学手稿』国民文庫19刷版:203頁)。
 若きマルクスが記したこの一節は、資本主義に対するラディカルな批判の入り口であるだけでなく、FIFAやIOC(国際オリンピック委員会)などの利権に群がる醜悪な大人たちへの鋭い批判でもある。

【釜爺:かまじい】


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