国難最中の政争と震災特需銘柄
2011年6月9日
国会と自民党本部のある東京・永田町の常識と論理が、庶民感覚とかけ離れているのは「当
たり前」と言ってしまえばそれまでだが、福島原発の炉心溶融沈静化に向けた工程表の見直し
―もちろん危機の長期化という見直し―が取りざたされる「国難の最中(さなか)」に、「菅降ろし」なる政争が顕在化したのには、さすがに愕然とした。戦後日本の政治が、自民党と民主党という二大政治屋政党しか生み出さなかった歴史的ツケとは言っても、この政争はあまり無
様と言うほかはない。
もっとも、自民党と公明党が否決覚悟の揺さぶり戦術としてそれを提出したのであれば、「
やっぱりヤツらは何にも変わっちゃいない」と片付けることができたかもしれない。しかし自民・公明両党の内閣不信任案に同調しようとする民主党内の「反乱軍」は勢いを増し、菅内閣
打倒後の具体案もなしに ―そうなのだ!この反乱軍は無謀にも「次期総理大臣候補」も立てずに― 倒閣に突進しようとしたのである。
たしかに「イラ菅」の異名を持つ現首相は、他人の面前で官僚や閣僚、同僚議員を激しく非難 ―罵倒!とも言われるが―
する悪い癖の故に人望が無く、結果としてリーダーシップの発揮に不可欠な「情報」と「同志」とを自ら失っているとの噂は、私でも承知している。「こんな上司の下じゃ、まともな仕事はできねーよ」って気分の党員がいるのもうなずけるが、それ
は「イラ菅」を民主党の代表に選んで総理大臣にした自らの責任を忘れ、国民の負託を受けた議員としての自覚にもとるというものだ。
なによりも08年夏の総選挙で実現した民主党政権の登場は、そうした「政治と庶民感覚の乖離」を、自民党長期政権を終焉させることで「改善」したいという、実にささやかな、そして
切ない「庶民の願い」が込められていたと思うからだ。
それを無碍(むげ)にして、旧態依然たる「永田町の論理」―いや!次期首相候補と菅内閣の諸政策に対する「対案」もないという意味では、永田町の論理以下とも言えるが―で倒閣運動に現(うつつ)をぬかす政治が、大震災被災者の切迫した要求をまったく反映していないことだけは確かである。
だが、政局と呼ぶにはお粗末すぎるこの騒動で明確になったことが、ひとつだけある。
民主党内「反乱軍」は、福島原発事故と「計画停電」という経験も手伝って、3・11以降の民衆の社会的意識が大きく変化しつつあることを、傲慢にも無視できると考えたか、あるいはその変化にまったく気づいていないということである。
だいたい「菅首相のもとでは与野党の協力は実現しない」とか「菅が辞めればみんなで一緒にやれる」などと言う理屈は、明け透けに言えば既得権益の上に胡坐をかく連中が、挙国一致を装って「震災特需」を山分けするための方便であることくらい、なんとなくではあれ人々は見抜いていると考えるべきだろう。
そう!「国難」に耳目を塞いで倒閣運動に現(うつつ)をぬかすなんて芸当は、震災特需なる政治利権ぬきには考えられない。そしてこの特需に大きな期待をよせているのがゼネコンを中心とする建設業界であり、その建設関連株を「震災特需銘柄」として投資家に推奨する、証券会社を中心とする金融業界なのだ。
巨額の資金を投じる国家プロジェクト ―原発はその典型だ!― に群がるこの旧い利権勢力
は、石化燃料依存型から自然エネルギーへの「シフトチェンジ」がはらむ価値観の転換を、例えば1970年代に世界的ベストセラーとなったシューマッハーの名著『スモールイズビューティ
フル』が示唆したような価値観の復権を、誰よりも恐れる理由がある。なぜならそこには、3・11という自然の驚異を目の当たりにした人々が、脱原発をふくめて新たなライフスタイルと共に模索しはじめた政治と経済に関わる、新たな価値観が躍動しているからである。
「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうるのである。そこで、
数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめな いとすれば、それは無用の長物である」(第1部第5章「規模の問題」)と。