★Kさんへの手紙5:軽視される精神的虐待★
2006年12月20日
今月は、多くの、子どもによる「親殺し」事件の判決が出されました。その中で二つの特に注目すべき事件についての裁判結果があります。一つは、昨年6月に東京板橋でおきた社員寮管理人の両親を殺害した事件。もう一つは、一昨年、水戸市で起きた両親殺害事件。二つの事件は、犯罪を犯したのが息子であること(板橋の事件の息子は当時15歳、水戸の事件の息子は当時19歳)と被害者がその両親であること、そして凶器が鉄アレイであることと、どちらも親による精神的虐待が背景にあったと見られることなど極めて似通った事件でした。そしてこの二つの事件の一審判決に共通している事は、どちらも親による精神的虐待が事件の背景にあった事実を裁判官が見ようとせず、少年の行為を理不尽な行為として断罪していることです。
12月1日に東京地裁が出した板橋の事件の判決では、裁判長は、少年が父親から受けた行為では「大きな精神的苦痛を受けたとはいえない」として、弁護側が主張した「不適切に養育された少年は精神的に未熟」なため保護処分相当とする主張を退けて、少年に懲役14年の刑を言い渡しました。裁判官は少年が父親から受けてきた問題行為として、「頭ごなしに寮の仕事を言いつける」ことや「少年のゲーム機を壊した」り「お前はばかだ」などの雑言を吐いたこと、さらに「完全自殺マニュアルを少年に与えたこと」だけを認定しています。そして仕事を言いつけたことには「家族の一員として仕事を手伝うことの重要性を教えた形跡がないなど教育的配慮を欠く不適切な面があった」とするが、これは単に「親子関係の持ち方に問題があっただけ」と断定し、ゲーム機はすぐ買いかえられており大きな精神的打撃を与えたとは言えず、ばかやろうとの言葉は、「親が激しい言葉でしかったに過ぎず」問題ではないとしました。また完全自殺マニュアルを与えたことは問題だが、「少年がこれを学校に持参して友人に示すなど、深刻な受け止め方をしていなかった」と断定しました。裁判官の事実認定は、少年が話したことの表面だけを捉え、父親による問題行動の一つ一つを個別的に捉えて、総体としての父親の子どもに対する対し方の性格を捉えようとしない、きわめて表面的な捉え方だと思います。
頭ごなしに仕事を押し付ける行為は、父親が息子を一個の人間として認めていない証拠であり、だからこそ少年が熱中するゲーム機を壊すことができたのです。たしかにゲーム機はお金を出せばまた買えます。しかし大事にしているゲーム機は、それ自身が大事なものであり、それを父親によって壊されたことは、少年の心に大きな傷をつけたと考えられます。そして常に父親が自分のことを馬鹿だとなじり続けるということは、父親にとって少年とは何者でもないことを示しており、この文脈で考えれば、父親が息子に完全自殺マニュアルを渡したという行為は、「お前なんか消えてなくなれ」と言ったと同然の行為になるわけです。しかし裁判官はこのような行為全体を虐待とは捉えていません。この少年の起こした事件は「いわゆる虐待などで両親が少年に強度な苦痛を与えて追いつめたような事情は見出せ」ないと裁判官は断定し、したがって「少年が両親に募らせた不満や憎しみは身勝手なもの」であり、「短絡的かつ自己中心的な動機に酌むべき余地はない」と断定したわけです。
この裁判官の虐待に対する認識には物理的暴力による虐待しかなく、馬鹿にしつづけるような精神的虐待や、過度の期待と言う精神的な虐待はその認識の外にあることを示しています。だからこそ少年の性格には歪みが大きく、それは親子関係のありかたに起因している面も大きいと認定しながらも、親が取った行為を多少教育的配慮が欠けているとはいえ通常のしつけの範囲であったとして、少年を断罪するという判決になったわけです。教育的配慮が欠けている親子関係そのものが虐待であるとする今日学問の世界では常識となっていることが、世間一般にはまだ受け入れられていないことを示す判例でありましょう。
もう一つの水戸の事件は、両親を殺害した動機は、同居する祖父の厳しいしつけに不満をつのらせ、その関係で両親にも不満を募らせた。そして祖父をまず殺そうと思ったが、人を殺す事の恐怖を払いのけるためにまず両親を殺し、それから祖父を殺そうとして、まず自宅で寝ていた両親を鉄アレイで頭部を何度も殴って殺害したという。この事件でも12月18日に判決を出した水戸地裁の裁判官は、少年が主張した虐待を認定していません。
少年は「話を聞いてくれないという意識が子どものころからあった」と発言していますが、裁判官は、「愛情あふれる普通の家庭だった」という同居する祖父の証言や「両親は自分でやりたいと思ったことに反対せず、積極的に応援してくれた」という少年の姉の証言を採用して、少年の家庭環境は良好であり、少年の「性格は自己中心的であり」、「一方的に不満を募らせた結果の冷酷かつ残忍な犯行」として少年の行為を断罪し、無期懲役の刑を言い渡しています。
この事件についてはあまり詳細に報道されなかったので詳しい状況はわかりませんが、裁判官が採用した祖父の証言は、その祖父こそが少年が「しつけが厳しい」と不満を募らせた原因そのものであり、当事者の主観的な意見を採用したに過ぎません。また姉の証言は、両親の娘に対する態度を示すに過ぎず、長男である少年に対する態度を示すものではありません。なぜなら親は往々にして、娘に対する態度と息子に対する態度は異なるものだからです。
この水戸の事件は、祖父や親による少年に対する過度の期待という精神的虐待によるものだと思われます。少年の両親はどちらも教師で、父親は中学校・母親は小学校の教師でありました(祖父の仕事は報道されていません)。そして少年は、2003年の春に高校を卒業してから自宅に引きこもるようになり、母親は少年の面倒を見るために小学校教師を退職し、父親も北海道への家族旅行を計画して連れていたと言います。裁判官はこの事実に「子ども思いの両親」像を見たのだと思いますが、これもあまりに表面的な捉え方でしょう。引きこもりはしばしば親による過度の干渉が子どもの人間としての自信を失わせ、家の外の世界での激しい競争に耐えられずに起きるものです。少年が「話しを聞いてくれないという意識が子どものころからあった」と発言していることは、親や祖父が息子に過度の期待を寄せて、親の思い描くような人生コースを歩ませることに汲々として、本人の意思を無視してレールを敷き続けたことを伺わせます。そして少年もまた内心に不満を蓄積させながらもきっと親の期待に応える良い子を演じていたのでしょう。それが限界となり、おそらく高校卒業の時に思い描いたような進路を選べなかったことを切っ掛けにして、引きこもりという形で現われたものと思われます。そして母親が少年の世話のために教師を辞めたということは、せっかく家に一人でいられると思ったら、またもや教師でもある母親の終日の監視下に置かれてしまい、少年にとって、我が家すら心の平安を得る場所ではなくなったことを意味しています。こんな状況になっての家族旅行など、なんの効果がありましょう。家族が自分を束縛する存在と化している中での家族旅行。それは監視された状態での軟禁状態を、少年にとっては意味したと思います。このままでは自分が殺される。脱出するには自分を抑圧する家族を消す以外に方法はない。少年はこう決意したと思います。しかし一番不満を抱いていた祖父には手が出せなかった。きっと怖かったのでしょう。だからより抵抗の少ない両親からまず手をつけたというのが真相ではなかったでしょうか。もしかしたら姉も殺そうと考えていたのかもしれません。少年にとっては姉は、もう一人の口うるさい母親であった可能性があるからです。
板橋の少年はすぐ控訴することを表明しました。彼は父親から受けた虐待を事件以後にかなり明確に認識するようになっており、これが受け入れられないことに対してはっきりとした抗議の意思を示したのだと思います。水戸の少年は、「有期でも無期でも控訴はしない」と言っていますが、裁判官が判決を読み上げる中でも「薄笑いを浮かべていた」と報道されており、彼は両親を殺害してもなお、その束縛から逃れられず、未だにそこから抜け出そうともがき続けている可能性があります。
一昨年・昨年と各地で子どもによる親の殺害事件があいつぎ、今年も、奈良で医者の息子が継母と弟妹たちを家に火をつけて焼き殺した事件がありました(この事件でも本当は殺したかったのは暴力を振るって医者になるよう強要した父だったといいます)。これらの「親殺し」に対する裁判結果が次々に出ていますが、どの判決も親の対応を総体として認識し、それが虐待にあたると認定するには程遠いものがあります。とくに以上取り上げた二つの例のように、物理的暴力という形をとらない虐待は、まだまだきちんと認定されていません。親による虐待行為は、それが物理的暴力という形をとっても、親はかならず「しつけ」だと言います。その「しつけ」そのものの是非・有り方こそ問われねばならないのに、残念ながらまだそうなってはいません。これは、いま問題になっている学校におけるいじめの背景に、教育という「しつけ」行為そのものが内包している差別性・虐待的傾向があるのに、これが十分には認識されていないことと対になっているのだと思います。それは社会そのものが持つ差別性や暴力性に起因しているからであり、それを認めることは、社会のありかたの根源的な見なおしに繋がるから、どうしても避けられてしまうのでしょう。
問われているのは、家庭や学校をも含めた社会のありかたなのです。その差別性に押しつぶされてそれを自覚しないままで、目の前にいる敵をたたくという形で抗議の声をあげた被害者だけを断罪しても、社会が変わらない限り次々と同じような事件は起こります。完全にもぐらたたき状態になっているわけです。
2006年も早くも年の瀬を迎えます。残念ながら今年もまた、未来への明るい展望を見出せないまま終わりそうですが、多くの矛盾が噴出しているということ自体が、社会を変える第一歩だと認識すれば良いのかもしれませんね。
追伸:そうそう、親殺しといえば、13日に大阪地裁で死刑判決を出された大阪の姉妹殺害犯の山地被告も、16歳だった2000年に母親を殺害しているそうですね。彼は少年犯罪の厳罰化の前でしたので少年院送りになり、03年10月に少年院を退院しています。報道によると彼は公判で「少年院で殺人を快感と自覚した」と述べたそうですが、弁護士が差し入れたノートには、「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。ばくぜんと人を殺したい」と書いたそうです。彼もまた親による虐待に耐えかねて母親を殺したものの、いまだに親の束縛から逃れられていないのでしょう。彼にとって殺人とは、自分を束縛する得体の知れないものへの攻撃であり、束縛から解放される手段と思えるのでしょう。きっと少年院での生活は、それまでの家庭生活と同様に、愛情に包まれることのない殺伐とした規制のみ多いものだったに違いありません。彼の魂を救う努力をしないで放置したまま社会に放り出した結果が今回の殺人でしょう。なのに「母親殺害で快感を感じたことに由来して今回の犯行に及んでおり、改善は非常に困難だ」という理由で死刑を言い渡すとは。この裁判官もまた親による虐待についての認識も、それから脱却させるための方法の確立についての認識もなく、ただただ厳罰でもって犯罪者に臨むという、誤った対応をしています。これじゃ救われないね。親による虐待で魂をずたずたにされた子どもは。
2006年12月20日
すどう・けいすけ
Kさんへ