国連中心主義外交の分裂、必要となる対案

2003年3月21日

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 米英軍による対イラク開戦直後、小泉首相はこの戦争を公然と支持し、日米同盟つまり日米安保体制堅持を最優先する外交の重要性を強調し、自民党もまた日米同盟優先外交を支持する態度を明らかにした。
 しかし今回表明された日米同盟優先外交は、これまでは日米同盟と矛盾してはこなかった「国連中心主義」(国際協調主義)という、もう一つの外交戦略の柱を事実上投げ捨てるに等しいという意味で、実は画期的事件のように見える。
 今では与野党が共に主張する国連中心主義は、冷戦時代下の日米同盟と国際協調=アメリカを中心とした西側諸国の反ソ連協調体制の終焉以降、ある意味では最も広く認知された外交戦略の柱だったと思う。1951年のサンフランシスコ講和条約締結以降、日本の世論を常に二分してきた日米安保条約をめぐる対立が冷戦の終焉とソ連邦の崩壊によって現実的基盤を喪失したとき、これに代わる新しい国際協調の枠組みがいわば「国連中心主義」だったとも言える。
 つまり小泉政権と自民党が日米同盟優先を公然と表明し、民主、共産、社民などの野党がこれに国連中心主義に依拠して批判を浴びせるという構図は、曖昧ながらも冷戦後に成立した日本の国際戦略が分裂しはじめたことを暴くものなのだと思う。いうまでもなく小泉と自民党にとっての国連中心主義は、5大国が拒否権という特権をもって世界秩序を取り仕切る安全保障理事会中心主義であり、それはまた戦後に国連を組織したアメリカの国際支配(パクスアメリカーナ)を大前提に、日米二国間同盟を機軸とした国際協調である。ではこの小泉を批判する野党の国連中心主義の実態は何なのか? それはとりあえずフランスとドイツが体現する「国際協調への同調」とは言えても、そこには仏独両国政府のような物質的基盤が欠如しているしそれを自覚しているようにも見えない。
 フランスとドイツは欧州連合という経済的政治的基盤と、ヨーロッパの伝統的価値観、例えば「古いヨーロッパ」を象徴する200年も昔の「人権宣言」に盛られた「推定無罪の原則」にこだわって「フセインの犯罪の証拠を査察によって見つけるべきだ」と主張したのだし、国連憲章に明記された国家主権の神聖不可侵をタテに「体制転覆の戦争」に明快な反対を唱えているのである。それに比べて「対米追随」なんて非難は、判りやすかもしれないが無内容で「反米民族主義」を標榜するどこかの知事みたいな連中をほくそ笑ませるだけではないだろうか。
 小泉のイラク戦争支持に対する批判とは、こうした意味で戦後日本の反戦平和運動の戦略的な飛躍を要求していると思えて仕方がない。
 アジア全体を視野に入れた自発的で互恵的な経済共同体の構想や、あるいは戦後民主主義が普及した基本的人権を徹底的に尊重し、日本国憲法が内包している平和的生存権=人間が平和のうちに生きる権利の保障を国際的な価値として提起するような戦略的な対案こそが求められてはいないだろうか。
 おそらくこうした構想は、この間イラク戦争を真剣に止めようとパレードに参加し、命を賭けてヒューマンシールドたらんとイラクに渡った人々にとって、戦争を阻止はできなかった教訓のうえに今後ますます必要とされることだろうと思う。

【釜爺】


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