連合赤軍「浅間山荘」事件の映画

 2002年5月15日

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 1972年の連合赤軍による浅間山荘籠城事件のドキュメンタリー映画「突入せよ」が、この5月11日から公開されている。役所広司が演じる警察官の主人公が、「彼らは革命の英雄ではなく、国民の敵であることを立証する」と部下たちに訓辞するシーンが、TVCMでも繰り返し流された。
 この映画の原作は、警察官僚として浅間山荘事件にも直接かかわった佐々淳行の『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋社刊)だから、それが警察官僚の視点から、現場で命がけで人質救出作戦をになった警官たちの賛歌になるのは当然だが、この事件のTV中継を、籠城する彼らと同じ全共闘世代の一人として見入っていた私には、やはりイライラさせられるキャンペーンに見える。
 ところがいまや当事者たちは、あるいはこの事件をもてはやした人々も、このイライラするキャンペーンについて何も語ろうとしない。というよりも事件から30年をへた今、この事件が意味した敗北について語りうる人がいないという現実は、事件の当事者で当時未成年だった「兵士」のTVドキュメント(今年2月に放映されたと思う)が雄弁に物語っていた。彼は、忘れようもないであろうこの事件をひたすら忘れようとしながら、長い時を生きてきていた。
 たしかに私たち、つまり当時の第4インターナショナル日本支部は、この事件を「日本初の革命的銃撃戦」などともてはやす新左翼諸派とは一線を画し、事件直後の機関誌『世界革命』で、連合赤軍の銃口は、「金嬉老事件」(68年2月)の銃口が在日朝鮮人への差別、しかも日本人警察官による差別を鋭く告発したように「語りはしなかった」と主張し、テロリズムへの批判的態度を明らかにした。それはその後、連合赤軍の逃避行の過程で繰り返されていた同志を殺す粛正事件が暴露され、革命を軍事に矮小化していた人々が混乱に陥ったのとは対照的な態度だったとは思う。
 それでも連合赤軍のこの悲惨なまでの破産は、全共闘運動という、私たちもまた共有した大衆的反乱の土壌から生み出されたものの一部であるには違いない。こんな無惨な敗北の原因は何かが語られなければ、当時未成年だった「兵士」に救いがないだけでなく、「イライラするキャンペーン」は私たち自身の運動にとっても障害となる。
 ひとつ、はっきりしていることはある。
 それは佐々のこの類の作品の中から、文藝春秋読者賞を受賞した『東大落城』(文藝春秋)ではなく、「あさま山荘」事件が映画化されたという点である。『東大』の映画化は、セットが大変とかいう技術的問題以上に、「あさま山荘」とは違ってけんけんがくがくたる論争を引き起こし、佐々自身が作品の中でも指摘した基本的課題、この国の未来への確信を抱かせるような教育の欠落とか、警察機構のひどい官僚主義など、解決されないどころかますます悪化しつづけてきた社会的問題を浮き彫りにするだろう。なぜなら東大には、少数の兵士ではなく大衆がいたからである。それは、興行的な映画にするには、危険なほどに面白すぎる。
 しかしその東大闘争からわずか4年後、連合赤軍の悲劇はおきた。彼らの逃避行を不可避とした少数精鋭主義は、「学生運動の先駆性論」にはらまれていた大衆への蔑視と不信から芽を吹き、武装闘争に傾倒する信条は、「革命は銃口から生まれる」という単純化された「毛沢東語録」の教条に育まれ、鉄の規律を理由にした粛正は、日本共産党とスターリニズムの裏切りだけが革命を妨げてきたのだという「裏切り史観」の土壌に根ざしていたのだと思う。
 全共闘世代の敗北はこうした理論的未熟さ、もっと言えば社会科学の唯一の実験室である歴史的総括を軽視して、今で言えば小泉首相のような、単純化された大言壮語のスローガンや過激な教条を理論や戦略的展望の代用品にしたてあげた結果でもあった。
 しかも戦後資本主義は、レーニンの帝国主義論の予測をこえて、新しい力強い経済的発展を実現していた。歴史を軽視した未熟な理論が、この経済的発展という大波に抗することができなかったのは、必然的でもあったのだと思う。

釜 爺


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