時評:

ボスと結託した時代の寵児たち

―プロ野球再編劇に見る「改革」派の「裏切り」―

(インターナショナル147号:2004年8月号掲載)


 「球界のドン」こと読売東京巨人軍の渡辺恒雄オーナーが突然辞任し、近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの経営統合と1リーグ制移行を焦点に進められてきたプロ野球12球団再編のゆくえが、一挙に不透明になった。
 「弱小球団」の経営難とかプロ野球興業の縮小再生産とかいう問題は、いわゆる左翼の世界ではどうでもいい世俗事かもしれないのだが、この球界再編劇の過程で次々と明らかにされたプロ野球球団の秘密主義やら談合体質は、かつて世界経済の「ナンバーワン」を自認した資本主義・日本の凋落と、「この国」あるいは「日本社会」のどこが「おかしい」のかを凝縮して暴いたという意味で、実に興味深い出来事だ。

 だいたい近鉄球団の命名権売却や球団の身売りなど、球団自身の自助努力をことごとく妨害しておきながら、当の近鉄とオリックスの合併交渉を突然公表し、待ってましたとばかりに「1リーグ制への移行」を前提にした再編論を持ち出し、それを来期から実施するという奇襲まがいの展開は、事前に密談を重ねて「できレース」のシナリオを描かなければ絶対に不可能だろう。
 この奇襲を終始リードしたのが渡辺オーナーで、積極的に加勢したのがオリックスの宮内義彦オーナーと西武ライオンズの堤義明オーナーの2人なのだから、蚊帳の外に置かれた他球団・オーナーが憤慨するのも当然ではある。ところが一気呵成の再編シナリオが、この他球団の消極的抵抗で遅延しはじめると、事情を察知した選手会が猛反発し、これにファンが呼応する形で反対意見が噴出した。セリーグ5球団が「来年からの移行には反対」を表明するに至ったのは、この大衆的圧力のひとつの成果である。
 もっとも阪神球団が音頭をとったセリーグ5球団の対応は、どの球団がこの「できレース」に加担しているかという疑心暗鬼にとらわれた日和見にはじまり、対抗する談合と根回しに精を出しながらファンや選手会そして世間の反応を眺め、「勝算あり」と反撃に出たといったところだろう。

 選手会とファンの反発は、「密室談合・できレース」と渡辺の「選手の分際で」発言に象徴される「偉そうなオーナーの横暴」に集中し、「ナベツネの独断専行」や「老害」と言った批判が大々的に報じられた。それは自民党にも野党にも、官僚機構にも企業にも、そして労働組合にさえ蔓延する日本社会の古い支配構造に対する反感が、球界という「比較的弱い敵」に対して吹き出した、現状への不満の発散とでも言えるだろう。
 だがわたしにとって興味深かったのは、プロ球界の古い体質の暴露ではない。それは多少ともプロ野球に興味のある連中にとってはとっくの昔に判っていたことだ。
 むしろわたしの興味を引いたのは、渡辺という過去の時代を体現する人物、ちょっと乱暴に言えば戦後の混乱期に野望を抱いて成り上がった「業界のボス」に、一時は時代の寵児ともてはやされた新進気鋭の経営者が追従したことである。その経営者とはオリエンタル・リース(株)社長の宮内と、西武鉄道グループの総帥・堤である。
 とくに宮内は、いわゆる国際基準会計をいち早く自社に導入し(とは言ってもこの会計基準は、様々な不正のあげくに倒産したアメリカのエネルギー商社・エンロンのそれに類似するたぐいの基準だが)、グローバリゼーションに対応する日本の経営刷新を得意げに語って「改革」の担い手を自認する「やり手の経営者」をウリにしてきた人物だし、彼もまた「新参者」としてプロ球団の経営に乗り出したはずであった。
 こうした過去の主張と行動に照らせば、近鉄球団の買収を申し出ていたベンチャー企業を「ボス」とつるんで一方的に排斥し、球団の合併と1リーグ制移行を拙速に進める談合の片棒をかつぐ宮内の行為は、自らに対する裏切りである。
 だが考えてみれば、実は宮内のような連中がグローバル・スタンダードを得意げに持ち歩き、小泉のような戦略なき政治家を押し上げたのが日本の「構造改革」だったのかもしれない。明らかに思慮の足りない、だからまた刹那的な思いつきで「旧秩序」を破壊さえすれば改革ができると言った思い込みという点では、小泉と宮内は同じレベルだったのかもしれないし、そもそも市場の無政府性に調整と委ねることを最良とするマネタリズムが一世を風靡すれば、こんな輩が台頭するのも無理はない。だからこの連中は危機に直面すると強力なボスの保証や寵愛に擦り寄るご都合主義を遺憾なく発揮し、旧構造と対決する「改革」のことなどあっさりと忘れることができるのだろう。
 それでもひとつ確かなことは、この戦略なき「構造改革」の推進が日本経済をさらに疲弊させ、社会的混乱と閉塞感を一段と増幅させたことである。そしていまや小泉は、政権維持のために「ぶっ潰す」はずの自民党「守旧派」との談合にうつつを抜かし、宮内は、球界のドンに追従してファン=お客様と選手=「商品」を平然と見下すのだ。
 結局、日本で叫ばれた「構造改革」や「グローバル化」は、この程度の連中に引き回されるシロモノだったのだろう。それはかなり抜本的な再編の圧力に直面する日本資本主義にとってさえ(!)、間違いなく不幸なことだったと思うのだ。(Q)


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