今上天皇家の「天皇制」を巡る戦い

−天皇退位問題の意味するもの─

(インターナショナル第226号:2016年12月号掲載)


 今年8月に今上天皇明仁が日本国民に対して近い将来において退位したいと表明したことから、天皇の退位を認めるか否かが大きな政治問題となっており、その成り行き次第では、総理大臣の専権事項である解散権をすら制約しかねない大きな政治問題となっている。
 国民世論の大勢としては、「高齢と健康不安」を理由とした天皇の退位表明は好意的に受け止められ、先日の天皇誕生日における談話で天皇は、国民が好意的に受け止めてくれたことに感謝の意を表したほどである。しかし天皇退位問題を検討するための有識者会議においては、そしてこの会議が実施した外部ヒヤリングにおいても、識者の天皇退位問題への捉え方は、国民世論とは異なった様相を呈している。
 個々の論者の説を検討するのは煩瑣なので大まかに政治傾向別にその論を述べれば、特徴的なのは、安倍内閣を支持する極右民族主義者の考えは、天皇の退位を認めないとするものである。理由は天皇位は終身のものであって、健康問題があるのならば摂政を置けば済むことであり、憲法に定められた事項を超えて天皇が、災害にあった国民に寄り添ったり戦跡を巡る慰霊の旅に何度を足を運んだりする今上天皇の在り方は行き過ぎであると批判する。彼ら極右民族主義者は、神なる天皇の統治する神国日本を称揚し、天皇を象徴ではなく元首にしたいする立場であるが、天皇は彼らの思惑すら超える政治的主体であってはならないのであって、今上天皇の動きは、よりリベラルで民主主義的であり、彼らの嫌う天皇の自立化と受け取っているようである。
 これに対して比較的リベラルな立場にある人々の多くは天皇の退位に好意的であるが、天皇退位を保証する法的措置の在り方については、皇室典範を改正して天皇の自発的退位も認めようという傾向と、特例法の制定で今回の天皇退位に対応しようという傾向に分かれる。前者は国民世論と同様に、現在の皇室の在り方やその姿勢に好意的であり、天皇も人間なのだから、健康や高齢という理由で自発的退位もありうるとして、恒久的な法整備を求めるものである。そして後者の人々は、憲法で政治的行動を制限されている天皇が、憲法にも定められていない国民に寄り添ったり慰霊の旅を続ける今上天皇の動きは憲法をも壊しかねないと批判的である立場から来ている。
 そしてどうやら有識者会議の大勢としては、今上天皇の退位に対しては特別立法で対処し、今後の問題や、さらに天皇退位問題とともに再び注目を集めている女性天皇問題や女性宮家問題など皇位継承の在り方にかかわる問題は、時間をかけて検討するという言い方で先送りしようということにまとまるようである。これは天皇退位問題が皇室典範や憲法の改正にまで広がり、総理大臣の解散権行使や政治姿勢まで制約しかねない危険性を取り除くという現政権の意向に沿ったものである。だが野党は政権のこの姿勢を批判しており、比較的リベラルな立場の人々の中の恒久法で対応しようとする人々とお同じ立場で政府に対峙しようとしており、まだまだ予断を許さない状況である。
 しかし天皇退位問題を巡る世論や識者の論評などで、一つ大事な問題が等閑視されていることに気が付く。
 それはなぜ今日の時点で、今上天皇が自らの退位を表明したのかという問題であり、それは、天皇は政府ともその他の政治勢力とも独立した一個の政治的主体であるということを改めて認識せよという問題でもある。

▼危機に直面する皇位継承

 ではなぜ今上天皇は自らの退位を提起したのか。それは世間一般が受け取っているような、そして先の退位を表明した「お言葉」の額面とは違って、今、天皇家の皇位継承が危機に陥っているからであり、そしてこの危機を、安倍政権とそれを支える極右勢力が無視しているからである。
 現在の皇室典範では天皇は男系男子で継承されると定めている。即ち天皇の血を父方で継承した男子にのみ皇位継承を許すというものだ。この制度を前提にすると、実は現天皇家の皇位継承は危機に瀕していると言わざるを得ない。
 それは何か。
 それは、皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王の次の世代の男系男子が、秋篠宮の長男悠仁親王ただ一人だという問題である。そしてこの悠仁親王に何かあれば、彼に代わって皇位につくべき宮家の男子がいないということなのだ。
 現在ある皇太子家と秋篠宮・常陸宮・三笠宮・高円宮の五家の子女は、悠仁親王を除いて皆女性である。したがって天皇も宮家もすべて男系男子にしか継承権を認めない今の皇室典範のままではやがて、天皇家直系に何かあって皇位継承出来る男子がいない場合のスペアである宮家が全て消滅し、悠仁親王と彼の将来の子女だけが皇位継承と宮家継承を担うということになってしまう。
 皇太子もすでに56才。秋篠宮もすでに51才。健康で活動できるのはあと30年ほど。その時に悠仁親王が無事成人していれば40才であるが、はたして彼に無事跡継ぎの男子があるかどうか。そして新たなる宮家を創設できる男子があるかどうか。
 現天皇家はあと数十年でその命脈を絶たれるかもしれないのである。これでは天照に始まる皇祖皇宗に申し訳ないと天皇は考える。だからこそ今上天皇は、国民的人気も高く、しかも比較的リベラルで女性天皇・女性宮家にも理解を示した小泉純一郎が総理大臣である間に、この問題を一挙に解決しようとして皇位継承を検討する有識者会議を設け、皇太子の長女愛子内親王への皇位継承と、各宮家の女子による宮家継承を提言させたのだ。
 しかしこの提案は、極右民族主義者の反発でつぶされた。国民世論は大勢としてはこの提案に好意的であったのだが。
 現在の政権・安倍政権を支える人々こそは、今上天皇のこの提案をつぶし、今でも無視し続けている人々である。
 では、なぜ彼らは今上天皇の提案を無視し続けるのか。それは彼らが戦前の神聖なる天皇を頂く神国日本の国家体制を復活させようとたくらむからであり、その体制における天皇とは、彼ら選ばれた者たちの特権を強化するためのロボットとしての権威でなければならず、平和と民主主義を標榜する現天皇家は、彼ら極右民族主義者にとっては、敵対物に過ぎないからだ。
 現天皇家が継承できなくなればそれでよい。その際には、旧皇族の中で、彼ら極右民族主義者に同調し天皇になりたい人物はいくらでもいる。極右民族主義者はこう考えているに違いない。

▼政治的主体としての天皇家の戦いの歴史

 天皇家は一個の政治的な独立した主体である。彼らはかつては政治権力を実際にわが手に握ってはいたが、その手から権力が滑り落ちた時代、すなわち彼ら古代的土地所有者が武士勢力という新たな封建的土地所有者にとってかわられた時代においては、武家勢力の覇者に対して、その政治的権力の正統性を与える権威となることで、その存在を維持してきた。そして権威としての天皇家の絶対的基盤は、神社の神格を定める権限、高位の官吏や僧侶を任命する権限、暦を定め元号を制定する権限とともに、皇位継承は天皇家の専権事項であると
いうものであった。
 それは皇位継承は天皇家の内部で行われるものであり、天皇の退位と次の天皇の選任と皇位継承は、外部のいかなる勢力にも左右されずに、天皇家とその廷臣である上級貴族の合議によるというものであった。
 だから政治権力を拡大し天皇家をも飲み込もうとする勢力が現れた場合には、退位を強行したり、場合によっては有力な臣下を動かしてその勢力を実力で滅ぼすということすらしてきたのだ。
 その良い例は天皇を乗り越えて自らを神と称した織田信長を明智光秀を動かして殺害させたことであり、さらには神社の神格を定める権限、高位の官吏や僧侶を任命する権限、暦を定め元号を制定する権限を天皇から奪い取った上に、さらに皇位継承の問題までも幕府の意向で決めようとした徳川氏の建てた江戸幕府の動きに対して、時の天皇は突如幕府に計ることなく退位し、時の将軍の娘が生んだ内親王に皇位を譲り、徳川の血が天皇家内部に入ることを阻止してしまった例がよく知られている。
 前者は正親町院と追号された天皇の行為であり、後者は後水尾院と追号された天皇の行為であり、後水尾院の突然の退位に対して時の将軍徳川秀忠は、天皇を隠岐の島に島流しにしようと口走ったが、天皇家と将軍家との関係が敵対関係になることを恐れた臣下の進言で思いとどまったという。
 天皇が将軍の権力を飾る権威にすぎずあらゆる権限を奪い去られた時代に、天皇に唯一残された権限が、自らの意思で退位し次の天皇を選定する権限であったのだ。

▼天皇を籠の鳥にした近代日本国家体制

 だが西洋諸国の植民地化の危機に対応して出来上がった明治国家が成立した際には、この天皇の専権事項も法律によって制限され、事実上奪われたのだ。明治憲法と共に制定された皇室典範においては、天皇は自ら退位することはできず終身その位にとどまることとし、天皇に健康問題などが起きて職務を遂行できないときには摂政を置いて職務を代行することが定められた。そして皇位継承を含めてこれらのことを決めるのは天皇ではなく、内閣および戦前では元老院の専権事項とされたのだ。
 大日本帝国憲法では天皇は国権の最高権力を保持するとされたが、その行使は、内閣や議会そして軍の輔弼を受けることとされ、これらの国家機関の意思に反して権力を行使することは憲法の明文の上では定められていなかった。ただし憲法解釈上は、天皇には拒否権があるとされてはいた。いわゆる天皇機関説である。つまり内閣や議会や軍の意向と天皇の意向が対立した時は、天皇はこれらの輔弼機関の意向を拒否して、自らが握る輔弼機関の長たちの任免権を行使して自らの意向を貫徹できるということである。しかしこの天皇の拒否権は行使されることはなく、この意味で戦前の国家体制においては、天皇は籠の鳥であった。
 そしてこの天皇が籠の鳥である状態は、戦後の日本国憲法体制でも維持された。
 天皇は国権の最高権力保持者ではなくなり、憲法で定められた七つの国事行為に携わるだけにその行動を制限され、政治的意思を表明する権利は奪われた。皇室典範もそのままであったので、天皇は相変わらず自らの意思で退位することもできず、次の後継者を決めることもできなかったのである。

▼新しい天皇像の模索が始まった

 このような籠の鳥状態に対して天皇は不満であったはずである。したがって国権の最高権力を保持したことのあった昭和天皇は、戦後においてもしばしば、毎月内閣総理大臣から内政外交などについて報告を受ける際にその政治的意向を発言したが、憲法上で天皇の意思など完全に無視されているので、この動きは何の波紋も及ぼすものではなかった。したがって戦後の昭和天皇は、国権の最高権力者ではない形であっても、日本国における最高権威者として存在し続ける新しい形を模索したはずである。そしてこの課題は息子の今上天皇に引き継がれた。
 この昭和天皇と今上天皇の二代に亘る模索の結果が、「常に国民に寄り添い、国民に平和と安心を与える権威として天皇」が新しい天皇像として提示されているのだ。
 戦前の天皇は、時々巡幸と称して国内を巡り、民情を視察することはあっても、災害時に被災者を見舞ったり、やさまざまな国民的行事に出席することはなかった。災害時には天皇家から金銭が下賜されるとともに、天皇の代理としてその言葉を伝える侍従などが派遣されるだけであったし、巡幸において、直接国民を言葉を交わしたりすることもなかったのだ。
 この体制に変化が生じたのだ戦後復興の過程で何度も行われた昭和天皇の巡幸であった。戦後の巡幸は戦前のそれとは異なり、国民の生活場に天皇が直接赴き、さまざまな分野で活動する国民の生活を視察するだけではなく、その活動を励まし直接声をもかけるものであった。そして昭和天皇は、自らが戦争を阻止できず多くの犠牲を国民に強いたことへの反省であろう。彼はできるだけ戦跡を巡って慰霊の旅をしようと試みたが、残念ながら彼の願いは政府の拒否にあって実現しなかった。それは天皇の戦争責任問題を再燃させかねない問題であったからだ。
 今上天皇は、この父天皇の意思を引き継いだ。皇太子として天皇に代わり沖縄を初めて訪問したことを皮切りとして、彼は天皇になってからも国内の戦跡を回るだけではなく、遠く海外の戦跡にも足を延ばして慰霊の旅をし、その際には戦った相手の国の兵士や一般国民の慰霊も行ったのである。そして国民的行事に積極的に出席するだけではなく、国民に常に寄り添う姿勢を見せる場として彼が見つけたのが、災害時の被災者慰問であった。これは雲仙普賢岳の噴火災害の時を皮切りに頻繁に、しかも災害がまだ続き復興事業さえ手がついていない時期でも挙行され、平服で避難所の床に膝間づいて、被災者と目線を合わせて励ましの言葉をかけ続け、被災者の言葉に耳を傾ける姿が、権力者とし上から目線でただ被災地を視察するだけの政治家と好対照を見せ、国民の共感を呼んだのだ。
 おそらく天皇家がこうした姿勢を取ることとしたのは、幕府も明治国家も天皇から奪うことのできなかった天皇の固有の権限、日本国の総神主として国家と国民の安寧を神に祈る権限に由来しているものと考えられる。
 この今上天皇家の姿勢は、天皇夫妻が自らの手で子供を育てたり、子供の個性を大事にしてその教育に心を砕くさまと相まって、平和と民主主義を体現する権威としての新しい皇室像を作り上げてきたといえよう。

▼退位提起に込めた天皇の意図

 こうして築き上げてきた国民的共感を武器として、今上天皇は、極右政治勢力の妨害と戦って天皇家継承の危機を回避するとともに、日本近代国家体制の成立とともに奪われた、一個の政治的主体としての在り方も奪いかえそうとの動きに出たのである。天皇の世代交代を早めることによって、次の次の天皇、そしてさらにその次の天皇に誰がなるのかが問題となる。たった一人しか皇位継承候補者がいない状態はあまりに危険であることが明るみに出、皇位継承の在り方そのものを早急に再検討せざるを得なくなる。この動きの主導権を天皇家自身が握る。
 これが今回の天皇退位の提起であった。
 彼にとって自らの退位が、特別法であれ恒久法であれ、自らの退位の意思が法的裏付けを得て実施されればよいのであり、その形にはこだわらない筈である。そして彼の真の狙いが退位問題にはなく、退位問題の検討をきっかけとして、二代に亘って模索し造り上げた国民に寄り添う天皇というあり方を確立するとともに、女性天皇・女性宮家成立という新たな皇位継承の在り方の確立に向けて動き出すことができればそれでよいのである。
 事実有識者会議の結論は、こうした問題は時間をかけて検討するとされた。決して無視することはできなかったのだ。
 そしてあわせてあわよくば、戦後の平和憲法を改悪し、戦争ができ、人権を軽視した体制に戻そうとする安倍政権に代表される極右民族主義に正面から対決する天皇家という新たな像を強化するとともに、極右民族主義政権の動きを止めるか阻害できれば、今上天皇にとって本望である筈である。
 天皇退位の意向がスクープされたのが、参議院議員選挙で自民党など改憲勢力が圧勝した直後であったことに、天皇の意図が見え隠れしている。
 天皇とはこうした自らの在り方も自らで決め、自身の存在を日本国にとって不可欠のものとする政治的意思をもった主体であることを、今回の天皇退位問題は、示したのである。

(12/26 すなが・けんぞう) 


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