【時評】名前を出せば犯罪は減るか?
少年法「改正」めぐる不毛な論争


 少年法の「改正」が、「少年凶悪犯罪」のたびに取り沙汰されている。総選挙の直前にも与党3党が少年法「改正」を画策したが、さすがにこれはあまりの拙劣さゆえに、法案が提出されることなく破綻した。
 たしかに、いじめと呼ぶには悪質に過ぎる巨額の恐喝や、いとも簡単に殺人を犯すなどの少年犯罪がマスコミを賑わし、こうした少年犯罪に社会がどう対応すべきかが問われている。しかし少年犯罪への社会的対応の課題が、センセーショナルなマスコミ報道を通じてしだいに少年法「改正」に向けたキャンペーンの様相を呈し、しかもその焦点が「少年の実名と顔写真の公表」に絞り込まれていく現状は、やはり放置できない危険な兆候というべきだろう。
 公表賛成派の主張は、被害者感情を盾にして、「少年にも社会的制裁が必要だ」というものだ。しかしその本質は、より重い社会的制裁という威嚇で少年犯罪を抑止しようという、死刑存続論と同じ論拠に拠っている。だが制裁の威嚇が犯罪の抑止力になるなどという刑法論議が何の根拠もない主張であることは、死刑を廃止した国や地域で、殺人事件が急増した訳ではないという厳然たる事実によってすでに明らかだ。
 だが他方の公表反対派にも、問題がないではない。少年法の「精神の遵守」つまり「未熟な青少年の未来の可能性」を無条件に信頼すべきだと謂わんばかりの、むしろ教条的とさえ言える公表反対の主張は、少年によって妻と子供を殺された遺族(夫)が、強姦されて殺された妻の実名報道を求め、自らも公然と実名を名乗って「事件の真実を報道してほしい」という正当な要求の前には色あせる。へたな匿名報道は、被害者と遺族の尊厳を二重三重に踏みにじることがこれまでもあったからだ。
 問題なのは少年の実名や顔写真を公表するか否かではなく、被疑者つまり警察に逮捕されただけで裁判にもなっていない人間の実名が報道されるべきか否かであり、「少年だから・・・」という論争は、不毛な論争と言えなくもない。だがそれが少年法「改正」の焦点ならば何らかの「基準」を、社会的制裁の威嚇で犯罪を抑止しようという反動的意図に対置する必要がある。だが「公表反対派」には、これができていないのだ。
 実は少年犯罪と言えども、成人と同様に扱われる事件はある。成人と同様と言うのは、氏名や顔写真の公表も「できる扱い」という意味である。しかもこんなことは、すでにブルジョア法制の下でもはっきりした基準ができていることなのだ。
 それは少年犯罪を扱う家庭裁判所が、審判の結果として少年を検察庁に送り返す、いわゆる「逆送」である。少年法の定める年齢にもとづいて一旦は家庭裁判所で非公開の少年審判を行うが、「この事件は成人と同様に扱うのが相当である」と家裁が判断すれば、事件は検察庁によって成人と同様の訴訟手続きに基づいて公判に付される。そしていうまでもないことだが、あらゆる裁判は公開が原則なのだから、公判に付された少年事件もまた完全に公開されているのだ。
 ところが、前述した遺族の訴えを報道したテレビにしろ新聞にしろ、彼自身の実名は伝えながら、成人と同じ扱いの裁判になっている事件の少年被告の実名は報じない。これが「少年法の精神の遵守」だと考えているのだとすれば、これこそ教条主義と呼ぶにふさわしい。そしてこうした「教条的な」少年法の精神の遵守の主張が、反動的な「公表派」を勢いづかせてもいる。      

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