【時評】神の国、談合政治、そして陛下の官僚
戦後保守政治と「神の国」発言の因縁


 小渕首相が急病に倒れ、急遽首相になった森喜朗は、首相就任直後から「日本は天皇を中心とした神の国」などの「失言」を繰り返し、総選挙で自民党が単独過半数を取れない事態に大いに「貢献」した。だから森の「失言」については、野党各党ばかりか与党3党内部からすら「総理としての適性」を疑う声が上がったのだが、この「適性」なるものについて少し考えてみたい。
 「神の国」発言は、選挙で各種神道団体の支持を受け、議会ではその見返りに神道団体の利害を代弁する議員集団である神道議員懇談会の席上おこなわれたのだが、もちろん森自身も同懇談会の有力なメンバーである。しかも連立を組む公明党に配慮して「誤解を受ける発言のいたらなさ」は陳謝したが発言を撤回しなかったのは、これが森自身の本音または政治的信念でもあるからだ。
 ただしこうした本音は日本国憲法の定めるところ、つまり主権在民や政教分離に従って権力を行使しなければならない首相や各官庁大臣などの公人は、決して公然と表明してはならないこともまた戦後保守政治の不文律であった。靖国神社の参拝をめぐる公私の使い分けや玉串料の公費負担を違法とする判例などは、この本音と建前の使い分けの基準を示しているのである。
 従ってこの不文律を破って、密室の政治談合の場でなら許される、否むしろ本音で政治取引をする国対政治家としては評価されたであろう森の資質は、保守政治から見ても「公人としての適性」を疑われて当然なのだ。裏方の自民党幹事長は勤まっても、首相にしたのはヤバかったかな、という訳である。
 だとすれば、野党による「首相としての適性を欠く」という森批判は、保守勢力の森批判との区別が曖昧になり、その分だけ政治的インパクトが無くても不思議はない。野党各党がこうした敵失を活かせないのは、彼らもまた官僚機構が差配する国対政治や談合政治に染まり、本音と建前を使い分けるのが当然でもある代議制と代行主義にどっぷりと浸っているからに他ならない。
 ところで、戦後の保守政治家が繰り返し吐露する天皇制を擁護するこの本音には、どんな背景と社会的基盤があるのだろうか。
 もちろん今日でも、軍人遺族会など国家神道支持勢力の隠然たる影響力は過小評価できないが、それが政治権力に対してこれほどの影響力を保持し続けている最大の要因は、戦前からほとんど無傷で維持された「陛下の官僚」とその機構の存在がある。
 この国家官僚機構は、アメリカ占領軍自身が占領政策の遂行に必要と判断して戦前の伝統ともども温存したのだが、それは天皇を戦犯から除外して「陛下の官僚」の秩序維持を図る処置と一対であった。その官僚機は、敗戦直後は「陛下への責任」を感じて政治の優位に甘んじたが、60年代の高度経済成長政策の成功をへて「陛下の有能な官僚」としての自尊心を取り戻し、政治に対する尊大な影響力を回復したのだ。その意味で彼らは、憲法に主権在民があろうとも本音では天皇に、より正確には天皇を象徴として戴く「神道の伝統ある国家・日本」に忠誠を誓う役人たちであり、国家神道の伝統の最も正統な継承者でもあるのだ。
 だがいまその国家官僚機構が、金融グローバリズムをめぐる「第2の敗戦」と、労働者民衆による自己決定権の要求の高まりに挟撃されはじめている。「本音の政治家」森が、この危機を打開して「陛下の官僚機構」を擁護しつづけるのは難しい。     

 (F)


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