イチロー人気とプロ野球人気の凋落
企業社会日本のスポーツとクラブチーム制の優位性


野球中継視聴率の急変

 日本のプロ野球にみきりをつけ、アメリカ大リーグのシアトル・マリナーズに移籍したイチロー選手が首位打者と盗塁王の二冠に輝き、ついてゴールデングラブ賞も獲得して攻走守のトップを独占、さらにはダントツで新人王にも選ばれ、ついには新人としては60年ぶりというリーグ最高殊勲選手(MVP)にも選ばれて話題になっている。大リーグコンプレックスの強いプロ野球ファンが、大いに盛りあがるのも無理はない。
 しかしこのイチロー人気のあおりをうけたように、プロ野球人気の凋落が暴露されてしまったのは皮肉な余禄だった。
 昨年からマリナーズのエースクローザーとして、今年もセーブ王を争う活躍をみせた元横浜ベースターズの大魔神・佐々木投手への注目もあって、大リーガー・イチローの活躍とアメリカでの人気は、深夜に放映される大リーグの衛星中継テレビの視聴率を急上昇させ、視聴率が伸び悩むプロ野球中継との好対照を見せたのだった。
 もちろんイチローは、日本でも7年連続の首位打者という実績ある選手だが、彼の活躍が原動力となって、マリナーズは大リーグ記録にならぶ116勝という驚異的勝率でアメリカン・リーグ西地区で優勝し、プレーオフも制してディフェンディング・チャンピオンのニューヨーク・ヤンキースと対決するワールドシリーズにまで進出したのだから、日本の野球ファンがイチローに魅了されたのは当然といえば当然だ。
 でも考えてみればこの現象は、マスコミが意図的につくりだす人気選手ばかりが注目され、野球というスポーツの醍醐味がすっかり影を潜めた日本プロ野球の構造的欠陥が、はからずもあばきだされただけなのかもしれない。なによりも、日本では「無口でニヒル」と言われたイチローが大リーグに移籍してから記者会見でみせる生き生きとした語り口や輝く笑顔が、「プロ野球」と「大リーグ」の魅力の違いを強烈にアピールしていたように思えたのだ。おそらくそれは、選手の自発性とやる気に大きな影響を与えるシステムの違い、よりはっきり言えば、企業社会に従属した日本のプロスポーツという構造的欠陥の現れだったのではなかったか。

実力、人気、報酬の関係

 イチローがものすごい!選手であることは、彼の大リーグでの活躍で日米両国で実証された。でも新人ながら337万票というダントツのファン投票でオールスターに選ばれた大リーグでの人気に比べれば、日本での彼の人気はいまいちだった。
 日本のプロ野球には、「人気のセ、実力のパ」と呼ばれる実態がある。実力で勝るパリーグも、人気ではセリーグに及ばないという「構造」への揶揄である。
 パリーグのブルーウエーブに所属するイチローは「夢の4割打者」を期待される天才打者だったが、彼がマスコミで注目されるのは10試合もヒットが出ないといった不調の時ばかり(もちろんそれは彼のすごさの逆説的証明だが)で、衛星中継でファンを魅了したような攻走守にわたるすっごい!プレーは、日本では時々、しかも見る人にはスリルも醍醐味も伝わらない、数秒間の細切れで紹介されるありさまだった。
 だからプロ野球選手としての人気という点では、彼はいつもセントラル・リーグの、しかも東京読売ジャイアンツという特定球団の、さほど実力もない選手たちの後塵を拝するしかなかったのだ。もっとも、スポーツ選手の人気と実力は必ずしも一致しない。でもプロスポーツの世界は本来、実力つまり試合での活躍と人気はそれなりに比例するものだろうし、それは報酬を決める選手の評価とも密接に関係するものであろう。
 こうした実力と人気そして報酬の関係が、大リーグではそれなりに皆が納得できる関係として成立しているのだろう。それは日本人大リーガーの草分けとなり、球団経営者と選手会の対立で混迷していた大リーグの救世主ともてはやされた野茂投手といえども、実力を発揮できずに人気が低迷すれば躊躇なく解雇されることでもわかる。かわりに粗削りだが気迫あふれる若い選手たちに、大リーガーとして活躍するチャンスが、これまた平等に与えられる。日本人大リーガーたちもこうしたチャンスを与えられたことで、いまの人気をえることができたのだ。
 ところが日本では、実力と人気と報酬の関係が球団を支配下におくスポンサー企業の財力や政治力で大きく左右され、選手としての実力と人気の乖離が、だからまた報酬に対する不公正が平然とまかりとおってきた。それは、イチローと同じように野茂や佐々木というすごい@選手たちに大リーグへの移籍を決意させる原因にもなっただけでなく、日本のプロ野球の「構造的欠陥」と呼ぶ以外にないと思うのだ。

企業社会と巨人軍人気

 日本のプロ野球で最大の人気球団は、いうまでもなく東京読売ジャイアンツ(巨人軍)である。しかしこの巨人軍人気は、「球団を支配下におくスポンサー企業の財力や政治力によって」つくられた虚構、要するにまがいものの人気だと思う。
 カラクリは簡単だ。プロ野球ファンに限らず人は親しみを持った人間を応援したくなるものだが、この「親しみ」は、見知らぬ人間よりはよく知っている人間に対して抱きやすいものである。姿形や声を見知っている相手には、それをよく知らない相手よりはずっと親しみを抱き応援もしたくなるのは、まあ人情というものだ。
 ところでいまやプロ野球の全国テレビ中継といえば、そのほとんどが巨人戦である。他のチームを圧倒するこの巨人軍の全国的露出は、読売新聞社と日本テレビというスポンサー企業が、日本最大の発行部数を誇る全国新聞紙上で派手に扱い、あるいは巨人戦中継放映権を独占していることで可能になったのだが、この圧倒的な露出度が巨人軍選手の知名度だけを突出させ、全国の野球ファンに「親しみを感じる巨人軍選手」だけを提供する事態を構造化したのだ。
 その結果、実力ではイチロー、佐々木、野茂といった選手たちの足元にも及ばない平凡な巨人軍選手が、高い知名度と親近感がつくる「人気」では彼らを圧倒し、巨人戦がダントツの観客動員力をもつことになる。それは当然、巨人球団の会計をダントツの黒字にして選手は高額の年俸に恵まれ、ついでに他のチームから実力のある中軸選手を高額の報酬で引き抜くことをも可能にした。そのうえ視聴率と売上部数を競い合うマスメディアがこの虚構の人気に追随もしくは便乗し、巨人軍にとってだけの経済的好循環がシステム化されたと言える。
 しかもこの「巨人軍だけの好循環」システムは、企業社会に取り込まれたお父さんたちの生理にもよく合致していたと思う。
 プロ野球全盛期には「よらば大樹の陰」ということわざにまだ実感があったし、個人的業績以上に身内の融和を基準にした人事考課が重視される時代だったから、「最古にして最強のプロ球団」と一体感のもてる巨人ファンであることは、「漠然とした多数派」という安心感を与え、だが他方では企業社会に対する日ごろのウップンを晴らすには格好のポジションでありえたのだろう。

クラブチームか広告塔か

 だいたい巨大企業が、企業イメージの宣伝のためにプロのスポーツチームを子飼いにするなんてことは、日本的な企業社会があってはじめて可能だったと思う。
 欧米のプロスポーツの主流は「クラブチーム」、つまりホームグランドのある地元ファンに依拠し、その期待にこたえることを基本にした経営が主流だ。大リーグはクラブチーム制ではないが、地元に強く密着したフランチャイズ制によって運営されている。だから地元ファンの期待を裏切ればチームの観客動員力は衰退し、球団経営者も猛烈な非難に直面する。ところが企業子飼いのスポーツチームは、不況や業界の衰退などでスポンサー企業の収益が悪化すれば、ファンがどれほどチームの存続を願っても切り捨てられる憂き目にあうのは、日本の名門企業チームの相次ぐ廃部が証明している。
 もちろん日本でもプロサッカーリーグ(Jリーグ)は、企業の子飼いチームを母体にしながらもよりクラブチームに近いフランチャイズ制として発足し、若い世代ではプロ野球よりも高い人気をはくしている。
 そこでは強いチームが、エキサイティングな試合をする魅力的チームが、そして若手とベテランの区別なく試合で活躍した選手が人気を得、逆にフランチャイズを軽視し、テレビ独占中継や好立地の試合場(国立競技場)の特権的使用なんかにこだわる旧来的なあり方に固執し、魅力的なチームを創る努力を怠ったとしかおもえない名門チーム・東京(旧・川崎)ヴェルディーが、一部リーグからの陥落の危機にさえ直面した。
 それは巨人軍人気という虚構が平然とまかり通り、イチローのようなものすごい@選手が人気(名声)と報酬に恵まれず、企業社会に従属したプロ野球に見切りをつけて世界の檜舞台にあこがれざるをえなかった、企業社会に従属した日本のプロ野球のあり方、その構造的欠陥の露呈を象徴していたように思えてならない。

 ところでわたし自身はテレビ観戦はそれなりに好きだが、競技場に足をはこぶほどスポーツ観戦に興味がある方ではない。ただその昔、社会主義的革命政権はプロスポーツを容認するべきか否かという、まあ若気の書生論議をしたのを思い出す。
 当時のわたしは、プロスポーツ断固容認派との比較ではあいまいだったのだが、この書生論議の核心はむしろ、才能にめぐまれたスポーツ選手がそれを生業(なりわい)とすることをどう保障するのか、あるいはスポーツ競技を観戦するという文化に労働者権力はどういう態度をとるのかをめぐる、けっこう奥の深い論議だったのだと今は思う。
 そしてイチローの大活躍と対照的な日本の企業従属型プロスポーツの凋落が、クラブチームという欧州の伝統的なあり方のもつ優越性を教えてくれたとすれば、それはかつての書生論議にもおおいに参考になると思えたのだ。なぜならその優位性は、スポーツを生業にしたり観戦する人々による「大衆自治と自己決定」システムの優位性に違いないと思えるからだ。                                                               (Q)


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