【右島一朗君を追悼する】

挑戦をつづけたライバルをおくる

(インターナショナル第148号:2004年9月号掲載)


 右島君が亡くなったという話を聞いた数日後、知人は「機関紙が出なくなるんじゃないかと心配だよ」と真顔で語った。「分裂」後、私はその「機関紙」を読んだことはないが、話ではかなりの分量を書いていたらしい。
 かなり前、さまざまなジャンルの知識を持ち合わせている彼に「君は岩波知識人ならぬ岩波新書知識人だ」と言ったことがあった。本当に、通勤や取材の往復に寸暇を惜しんで読書をしていた。まだまだ書き残したネタはたくさんあっただろう。
 それにしても今年は50歳台の知人がかなり亡くなっている。60年代後半から走り続け、みな疲れがたまっているのだろうか。しかしみな早すぎる。

 「分裂」の数年前から、第四インターの大衆運動の集会参加者は激減していた。右島君と、90年5月職場の爆発事故で殺された宮城修と私の3人だけの参加ということがかなりあった。そのようなとき3人でよく話をした。それが「仲良く」話をした最後かもしれない。話題に事欠くことはなかったが当時の大きな問題であった国鉄闘争についてもかなり討論をした。労働運動の可能性に確信を持つか、持てないかがそのあと「仲良く」話をできなくなった原因のひとつになった。

 以前彼は「機関紙」に原発問題をよく書いていた。彼は原発絶対反対の立場をとっていた。それは当時の第四インターの主張とは多少違っていた。編集部でNさんと激論をしているのを聞いたことがある。突き詰めると「科学の発展を確信するか、しないか」という論点に至った。彼は「原発は未来においても問題解決しない、だから研究も開発も即中止すべき」とハルマゲドンにも似た主張をした。私はNさんの主張に近かったが、この問題は労働者国家の核兵器所有問題を含めて、現在まであいまいなままになっていると思われる。 そして私には、労働運動の可能性への確信と科学の発展への確信は、同じ土俵の上の問題と考えられる。

 いま、労働運動の可能性をと問われたら明るい回答はできないし、原発の被害は目を覆いたくなるものがある。しかし目の前にある課題に対してそれぞれの確信するところで模索を続けなかったら、その先に展望も開けない。
「そこに山があるから」登る行為と同じ挑戦である。右島君はそれに挑戦している最中に逝ってしまった。
 私たちは、今後もそれぞれの確信する地平で課題に挑戦していくが、それは挑戦者同士の勝ち負けを競うものではない。今後もよきライバルとして、近くにいて見ていて下さい。

【S.T】


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