第1研究会第2期・中間まとめ@【第3回世界大会テーゼの検証】に関する報告

《国際的内乱を通じた世界革命の時代》
パブロが提示した時代認識と、戦後第四インターナショナル

2001年8月:文責:きうちたかし


●は じ め に

 現在のわれわれは、戦後第4インターナショナル第3回世界大会テーゼ(いわゆるパブロ主義)が、戦後資本主義の強力な経済的発展という現実によって破産を宣告されたことを知っている。
 しかし研究会の主要な関心は、その破産を確認するだけにとどまってきた戦後第四インターナショナルの現実をこえて、第3回世界大会テーゼの体系それ自身の内に破産の原因を見いだすことにあった。なぜなら、パブロ主義の破産が誰の目にも明らかであるにもかかわらず、このテーゼに対する体系的で批判的な総括はキャノン・パブロ論争という組織的分裂を伴う激しい論争の過程でも、さらには1964年に第四インターナショナルが再統一された際にも現れることはなかったからである。
 こうした、いわば過去の負債と言うべき主体的破産についての無責任な対応は、その後の第四インターナショナルに様々な主体的弊害をもたらしたと思われる。その最大のものは、第3回大会テーゼに貫かれている「戦後資本主義の全般的危機論」を無自覚のうちにも感覚的には継承し、結果として戦後資本主義のマルクス主義的な経済分析による《現代資本主義論》の再構築を無意識のうちにではあれ排斥し、マンデルの「後期資本主義論」が提起されてなお、戦後資本主義論をめぐる真剣な論争が第四インターナショナル内で組織されることはなかったことである。
 代わりにパブロ主義の破産を確認して以降の第四インターナショナルは、目前の社会状況に戦術的に対応する、いわば状況追随の組織建設に終始したと思われる。植民地革命の攻勢があればそれに追随し、フェミニズムの台頭があればこれに迎合し、エコロジー運動の高揚には「環境社会主義」を標榜して接近する等々である。だがそれは、戦後の第四インターナショナルが資本主義中枢の諸国でもスターリニスト党を超える多数派とはなりえず、分裂や支部組織の崩壊に繰り返し直面し、大衆的インターナショナルとしてはついに確立されなかったという無慈悲な事実によって、革命的前衛の組織建設の方法としては有効ではないことを明らかにしたとは言えないだろうか。
 第3回大会テーゼという理論体系が現実によって「裏切られた」ことが明らかな以上、生きた現実を把握できなかった理論を体系的に再検証し、その体系のもつ欠陥や誤謬を自覚するところから再出発しなければ、現にはじまりつつあると思われる後期資本主義の危機の局面で、その危機の構造を予見する戦後資本主義論を再構築し、階級闘争の勝利的前進に貢献することはできないだろう。
 そうした意味で研究会の戦後第四インターナショナルの歴史的総括の作業は、単なる過去の批判的回顧ではなく、現代革命論を追求する礎であると考えている。

 1951年の第3回世界大会で提起されたテーゼは、資本主義の歴史的終焉の局面という時代認識、あらゆる戦争は革命と反革命の衝突となって国際的内乱に転化するという革命の展望、したがって戦後の第四インターナショナルは大衆が押し上げる各種労働者党に長期に加入してこの大衆との結合を目指すとする組織戦術を提起したが、以下は、その再検証をめぐる研究会討議の報告である。

●戦後世界の一般的政治的展望(時代認識と戦略的展望)

 1951年8月の第3回世界大会テーゼが提起した世界大戦後の時代認識は、要約すれば以下のようなものであった。

 中国革命の勝利に象徴される植民地・半植民地の解放闘争によって、資本主義の経済的発展に不可欠である植民地の「予備地域」は、決定的に失われた。それは第二次大戦の結果にほかならない。さらに東欧に「非資本主義国」が成立したことでヨーロッパ資本主義の市場は一段と狭まり、労働者国家・ソ連に対する反革命包囲網も決定的に破壊された。資本主義は、膨張しつづける市場という発展の余地を完全に失い、文字通り歴史的な終焉の局面に入った。

 そのうえで第3回大会テーゼは、戦後世界革命の展望を以下のように提起した。

 2つの世界大戦を通じて巨大な生産力を集積したアメリカは、ヨーロッパに代わって資本主義の覇権を握った。しかしそれは「資本主義制度全体を救出するのにはすでに遅すぎる時期」なのである。アメリカ資本主義はただちに「市場の狭隘化」に直面することになるし、戦争経済と外国援助という「人工的市場」に依存する以外になくなる。そして戦争経済は他の経済部門を不断に圧迫し、現に激化しているインフレとともに大衆の購買力を低下させるだろう。
 こうしたメトロポリタン資本主義諸国の矛盾の激化に、中国革命や朝鮮戦争で示された「社会主義革命に不可逆的に発展する可能性をもつ様々な形態の革命」が衝撃を与えるならば、盟主であるアメリカは多少持ちこたえることができたとしても、資本主義ヨーロッパとアジア(日本)はひとたまりもなく危機に陥るであろう。
 だから帝国主義は、この存亡の危機を回避するために戦争に訴えるしかない。こうして今後の戦争はすべて革命と反革命の戦争へと発展するのであり、国家対国家という戦争の「死んだ図式」には当てはまらない。たしかに革命の側は生産力で劣ってはいるが、大衆の革命的エネルギーを利用できることでその劣勢を凌駕できるし、戦争そのものが国際的内乱へと急速に転化するであろう、と。

 今日から振り返って見れば、この時代認識(テーゼの「一般的政治的展望」)と世界革命の展望は、第3回世界大会と同じ1951年にスターリンの名で発表された『ソ同盟における経済的諸問題』と相通ずる、戦後資本主義の全般的危機論と呼ぶべき傾向に強く彩られている。事実こうした展望はその後、日欧資本主義の復興から60年代の強力な経済的発展と、資本主義中枢諸国における労働攻勢の相次ぐ敗北という現実によって破綻するが、それはただの結果にすぎない。
 むしろ第3回大会テーゼの核心的性格は、ボルシェヴィキ・レーニン主義の伝統的な時代認識(もしくは資本主義論)を直接的に継承しつつ、それを2つの世界大戦のバランスシートの上に発展的に適用しようとする大胆な試みにこそあった。
 パブロ自身が、このテーゼを「各国における大衆的革命党建設のための現実の大衆運動におけるわが活動の戦術全体を完成し」、「わが運動の過去の獲得物の一切を復習し、…それらをより発展したより完全な戦術概念全体のなかに−一見してたがいに調和しない要素を−融合した」【国際革命文庫8巻:以下=(K-G:P94】ものであると表明したように、それは1917年のロシア革命と、それにつづくヨーロッパの革命的激動が実証した「社会主義の前夜としての帝国主義の時代」という、レーニンが『帝国主義論』で定式化し、トロツキーもまた過渡的綱領の前文に「資本主義の死の苦悶」の時代と書き込むことで継承した「現代資本主義論」の発展と位置づけられたのである。

 『彼(パブロ)は言った。われわれが直面する「新しい現実」は、「一言にすれば、レーニン、トロツキーが分析したような帝国主義の時代、衰退しつつある資本主義の時代、戦争と革命の時代の一切の矛盾、一切の特徴の最も暴力的、最も激烈な表現である」』湯浅赳男著『トロツキズムの史的展開』69年10月:三一書房=以下(U):P198】。

 戦後世界は没落する資本主義と革命の激突の時代、しかも資本主義が歴史的終焉の局面にあるとすることでテーゼは、革命の側の絶対的に優位な力関係の時代として描きだし、来るべき革命の攻勢に第四インターナショナルが間にあって準備する必要を強調したのである。

 たしかに、戦後の混乱がなお世界各地の政情不安として残り、朝鮮戦争によって東西冷戦がその姿を現した1951年という局面を考えれば、このテーゼがリアリティーある展望として革命的共産主義者に受け入れられたとしても驚くべきことではない。なかでもヨーロッパ帝国主義諸国の危機は、戦勝国でさえ、外では旧植民地諸国における反帝国主義解放闘争の攻勢に追い詰められ、内では戦後の労働攻勢に直面するという深刻なものであり、たとえそれが、今日から見れば客観的には「前期帝国主義」から「後期帝国主義」への再編の過渡期の混乱であったとしても、革命の攻勢局面という提起が説得力あるもだったことも想像に難くない。
 こうして第3回世界大会は、このテーゼを圧倒的に支持して戦後第四インターナショナルの再結集を画するのだが、反面そこには、戦後第四インターナショナルの、客観的には戦後資本主義論をめぐる内部論争の混迷が影を落としていたのである。
 その混迷の最大の要因は、スターリニスト指導部の下で勝利したユーゴと中国の革命をいかに評価するかを焦点にしながら、より本質的には資本主義経済の圧力との関係を含めたスターリニズムの評価と理解にかかわる論争であったが、それは後述する。

●第3回大会テーゼと戦後資本主義の現実

 第3回世界大会テーゼが、戦後、アメリカによって「救出された」資本主義を分析し、その相対的安定や新たな発展の可能性を捉えることに完全に失敗したことは、今ではまったく明らかである。それはなによりも、テーゼが「決定的に失われた」と断じた「膨張しつづける市場という(資本主義の)発展の余地」が、植民地や半植民地とは全く違った形態で、つまり大量生産・大量消費・大量廃棄の大衆消費社会という形態として現れたことに端的に示された。
 高付加価値(高利潤率)商品である耐久消費財、つまり自動車や家電を労働者階級自身が大量に消費する大衆消費社会は、1950年代に「アメリカン・ライフスタイル」として全世界に輸出され(あるいは押しつけられ)て、ヨーロッパ資本主義にとっては必要にして不可欠であった植民地や半植民地に代わる「膨張しつづける市場」として、戦後資本主義の発展の基盤を形成した。「オートメーション」つまり分業の徹底とベルトコンベアーによるその結合が実現した極めて高い労働生産性は、量産効果ともあいまって耐久消費財の生産コストを大幅に引き下げ、同時にこの生産性の向上が実現した高利潤率によって可能となった高賃金が労働者大衆の購買力を高めるという、大衆消費社会の経済的好循環が現れたのである。さらには数十年先の富を先食いする信用膨張(ローン)をテコにして、大衆消費社会は急速に全世界を被うことになった。
 こうした大衆消費社会の下では、テーゼが指摘した「戦争経済」は、むしろ軍事的必要によって開発された技術が民需に、つまり大衆消費財の生産部門に積極的に転用・移植され、「他の経済部門を圧迫」する代わりに技術革新を促進する投資の役割をはたすことになった。最新の化学的成果が毒ガスという最悪の兵器に結合するしかなかった前期帝国主義の時代とは違って、最新の科学的成果が労働生産性の向上に結合されはじめたのである。そして「外国援助」もまた、アメリカン・ライフスタイルを世界に輸出し、「膨張しつづける市場」を次々と「開発」する投資の役割を果たすことになった。しかもこの「開発投資」は、旧植民地諸国の民族国家としての独立を、親ソ連派政権か親米派政権かという冷戦下の抗争をはらみつつも促進し、「民族自決」が帝国主義ブルジョアジーによっても容認される旗印へと変わりはじめたのである。
 もちろんこうしたアメリカ的資本主義様式は、1926年にトロツキーによって「アメリカのような豊かな国にだけ許される例外」であり、この豊かな経済を土台に築かれたアメリカ民主主義もまた、ヨーロッパ資本主義の堕落の帰結であるファシズムに飲み込まれるだろうと予見されたものだった。しかし同時にトロツキーは、アメリカで発展しつつあったベルトコンベアー方式による高い労働生産性に注目し、若く活力溢れる資本主義・アメリカが、疲弊し閉塞状況に陥った資本主義・ヨーロッパを凌駕するであろうことも予見していたのである(トロツキー講演録『ヨーロッパとアメリカ』92年10月:柘植書房を参照)。
 「……第3回世界大会の路線が戦後資本主義の経済学的再吟味ぬきに行われ、その後の構造的変化を予見しえぬまでも適時に発見する用意を整えたものでなかったために、新しい現実がたちまち彼らを第3回世界大会以前に押し戻してしまったことの結果だった」【(U):P239】と言う湯浅の評は、1953年のイギリスとアメリカにおけるキャノン派の分裂を評してのものだが、ここで言及された「新しい現実」とは、同年2月のスターリンの死と平和共存の流れの台頭、6月の東ドイツの反官僚反乱とソ連軍による武力弾圧、そして8月のフランスにおけるゼネストの敗北とヨーロッパの戦後危機の終焉である。

【☆補足:03年12月】アフガンとイラクに対するアメリカの「反テロ戦争」の推進派として注目を浴びるネオ・コーンサバティブ(ネオコン)の源流がトロツキストだったと言われるのは、この53年のキャノン派の分裂から派生し、ついには生産力においても自由と民主主義の保証においても「最も進歩的なアメリカ」を範とする「世界革命」を構想するに至った最右翼グループのことである。
 ネオコンの源流となった彼らはもちろんトロツキストとは無縁になったが、こうした右翼グループの発生の中にも、パブロ主義の破綻の深刻さとその批判的総括を怠ってきた戦後第四インターナショナルの主体的弊害が現れていると思う。

 第3回大会テーゼが提起した資本主義の全般的危機、革命の圧倒的攻勢とスターリニストの必然的分解という展望は大会から2年余りで崩れ始め、戦後資本主義経済の再検討の必要が、客観的には第四インターナショナルに突きつけられたのである。
 つまり第3回大会テーゼは、前述した『ヨーロッパとアメリカ』に示されたトロツキーの予見の半分を「戦後資本主義の経済的再吟味抜きに」継承した反面で、「若く活力溢れる資本主義・アメリカ」という予見にはらまれていた現代資本主義のマルクス主義的経済分析を無視もしくは軽視することで、結果として若き資本主義・アメリカの可能性をあらかじめ全面的に否定してしまい、創造的破壊をともなう資本主義の自己変革という可能性を歴史的にも排除する硬直した体系に帰結したと言うべきであろう。

●戦後資本主義論争とスターリニズム評価

 ところで大戦直後の第四インターナショナル内部の論争、主要にアメリカ支部(SWP)を舞台に行われた論争には、資本主義の変容をめぐる論争、とくにアメリカ資本主義のヨーロッパ資本主義との相違に関する論争が、「アメリカ労働者大衆の政治意識と党建設の関係」という歪んだ形でだが現れ、それは組織分裂という深刻な対立へと発展していた。
 大戦の中を唯一生き残った国際書記局メンバーであるパブロにとって、この第四インターナショナルの理論的、組織的混迷の打開が最も緊急の課題だったのは当然としても、この混迷に終止符を打とうしたテーゼが「硬直した体系」でありながら、レーニン・トロツキーの帝国主義論の直接的継承の上に構成されていたことが、論争をさらなる袋小路に追い込むことになったと思われる。

 1969年に刊行された『トロツキズムの史的展開』で湯浅は、大戦直後の第四インターナショナルが直面していた困難を以下のように要約している。

 『第二次大戦以後の第四インターナショナル内部の論争は、いずれもスターリニスト官僚の強化発展の現象とトロツキスト運動の停滞という現実に立って、トロツキズムのレゾン・デートルをいかなる点に求めるかをめぐって行われてきた。トロツキーのシェーマに従えば、1924年以降の世界革命の退潮はエピソード的なものに過ぎない筈のものであった。資本主義の死の苦悶の産物である世界戦争は必ずや大衆の革命的決起を促すに違いない。しかし、革命的高揚のなかで巨姿を現す筈の第四インターナショナルは、第二次世界戦争の翌日なお一握りのセクトの域を脱しえなかったのである。もし戦後に革命的高揚がなかったとするなら、スターリニズムの発展はそれによって理解しうるかもしれない。だが、そうだとすれば資本主義の最後の段階という現代のレーニン主義的把握が問いなおされねばなるまい。あるいは革命が高揚に転じているとするなら、何故に大衆はトロツキスト運動ではなくスターリニスト官僚にひきつけられてゆくのか。第四インターナショナルの創立自体が誤謬であったのか。それともその路線に決定的な欠陥が存在するのではないか。これが戦後、トロツキストの心を押さえつけてきた疑惑であり、不安であった。』【(U):P197-198】

 研究会での討議は、下線部分の観点から第3回大会テーゼの検証に切り込んできたのだが、パブロはそれとは違った方法論でこれに立ち向かった。
 つまりパブロは、前述のように戦後の「新しい現実」は「レーニン、トロツキーが分析したような帝国主義の時代、衰退しつつある資本主義の時代、戦争と革命の時代の一切の矛盾、一切の特徴の最も暴力的、最も激烈な表現」(=(U):P198)であるとの時代認識を帝国主義論の継承として提起し、その上で革命の高揚期にスターリニスト党の発展や社会民主主義勢力の再生が生じるという矛盾に、以下のような大胆な説明を試みたのである。

 資本主義が歴史的終焉を迎えている時代には、ユーゴ革命や中国革命の経験が明らかにしたように、指導部の性格や綱領のいかんにかかわらない「様々な形態のもとでの革命」が、大衆闘争の圧力によって「社会主義革命に発展する不可抗力的傾向をも」って官僚支配を弱体化させ、スターリニスト党の内部に左翼中間主義を生み出すことになるのだ、と。

 戦後第四インターナショナルの画期となった第3回大会テーゼが「パブロ主義」と呼ばれたのはこの独創性、つまり資本主義の歴史的衰退と革命的高揚の局面でスターリニスト党が強化されるという現実を、反帝国主義的大衆闘争が「とりあえず利用できる既成の党」に流入しこれを押し上げた結果であり、この現実を例外ではなく「唯一の正しいコース」として受け入れることで戦後第四インターナショナルの闘いが始まるという時代認識にもとづいて、第四インターナショナル建設の大衆的基盤は、この大衆が流入するスターリニスト党を含む既成の党の分解の中から生まれるであろうという、党建設論の大胆な転換を提起したが故であった。
 だがこうした展望にもとづく党建設論の転換には、解党主義の芽が紛れ込むことにもなった。というのも、反帝国主義的な大衆運動が不可抗力的に社会主義革命に発展するのであれば、第四インターナショナルはこの大衆運動とともに歩むだけで、あるいは権力奪取の決定的瞬間にトロツキズム運動の「過去の獲得物の一切」を引っ提げて登場するだけで歴史的任務を達成できるだろう。おそらく、トロツキーの予言どおりに戦後革命の高揚が到来しつつあると考えられた状況下で、第四インターナショナルの主体的力が余りにも小さいというギャップを埋めようと考えられたパブロの展望は、その内部に、大衆運動を過大評価して党と階級形成を軽視するする体系をはらんだのである。
 つまり第3回大会テーゼは、民族主義的であれ改良主義的であれ、大衆的基盤をもつ様々な形態の革命が「不可抗力的」に社会主義革命に発展する「資本主義の歴史的終焉の時代」を提起することで、自然発生的な大衆闘争への拝跪を積極的に正当化する道を掃き清めることになった。それは他方では、資本主義の最後の段階という現代のレーニン主義的把握を問い直す道を拒絶して、結果的にはレーニンの帝国主義論を、だからまたトロツキーの「資本主義の死の苦悶」の時代を、現実とは乖離したドグマとして第四インターナショナルの中に定着させることにもなった。

 (研究会の第1期プログラム=帝国主義論の再検証は、戦後の構造改革論争などを手掛かりにレーニンの国主義論を「ひとつの時代論」として対象化しようする試みであり、この報告の前提でもある。もっとも戦後左翼の大多数がソ連邦崩壊まで、いわば戦後資本主義の全般的危機論に立脚し、資本主義の歴史的終焉という危機アジリで党建設を試み破産した現実を考えれば、第3回大会テーゼによるレーニン、トロツキーの帝国主義論のドグマ化は、戦後トロツキスト運動もそうした誤謬から自由ではなかったことの確認に過ぎないかもしれない。)

 その後の深刻な国際論争は、本質的にはこの「党建設論の転換」をめぐる対立に起因するものであったが、現実の第四インターナショナルの歴史では、そうした論争としては発展しなかった。
 つまりレーニンとトロツキーの革命的前衛党の理論に従えば、歴史的任務を自覚したプロレタリアートの隊列なしに社会主義革命が達成されることはないハズであり、だからまたこの革命的プロレタリアートの隊列を階級形成として準備する綱領を体現する前衛党の建設は、社会主義革命の達成にとって欠くことのできない必要条件であり、「パブロはこれを修正しようとしている」という批判が繰り返されただけで、今は革命的攻勢の局面なのか否か、攻勢局面でないとすればそれは何故かなど、情勢と切り結ぶ批判は、少なくともキャノン派からは提起されなかったからである。
 しかし、第3回大会テーゼが全般的危機論に立脚したための問題は、これだけではなかった。それは大会テーゼが全般的危機論に立って、世界革命という複雑で錯綜した過程を「資本主義の歴史的危機→大衆の革命的決起→権力奪取に押しやられるスターリニスト官僚」という極度に単純化・一般化されたロジックを構成することで、スターリニズムの政治性格と堕落した労働者国家に関するトロツキーの分析方法を後景に追いやることにもなったからである。
 トロツキーは、堕落した労働者国家とその官僚独裁を論じる場合、常に当時の先進資本主義諸国の生産力(生産性)との緊張した対抗関係を考慮に入れ、10月革命の獲得物ではあってもなお脆弱で効率的とは言えない国有計画経済が、スターリニストの官僚的で非効率的な運営によって危機に陥る危険性に警鐘を打ちならしてきた。
 そしてその根底には、「歴史とはもとをただせば労働時間の節約の追求以外のなにものでもない。社会主義は搾取の廃止ということだけでは正当化されえないであろう。社会主義は資本主義に比べて時間のより高度の節約を社会に保障しなければならない」(岩波文庫『裏切られた革命』P108)という社会主義への深い洞察があった。だからトロツキーは、プロレタリアートの民主主義的イニシアチブすなわちソヴィエトの復権と、このイニシアチブによる生産効率の刷新なしには、国有計画経済は官僚的浪費によって内部から侵食されるであろうとの見通しに立って、ブルジョア的反動による労働者国家の転覆の可能性に言及することを躊躇しなかったのである。
 だが第3回大会テーゼは、前述したような一般化と革命の圧倒的攻勢という時代論を前提にした結果として、「ソ連の国有計画経済の構造から、この国における資本主義の勝利はもはや不可能である」【(K-G:P68】と断定し、革命の圧倒的優位の論拠にさえしたのである。そこでは、資本主義諸国と労働者国家・ソ連の経済的緊張関係はほとんど無視され、だからまた資本主義と計画経済の生産効率をめぐる緊張に満ちた競争も、堕落した労働者国家がその経済的効率性の低さの故に若き資本主義・アメリカに凌駕される可能性もあらかじめ排除されてしまったのである。
 かくして、トロツキーの堕落した労働者国家論は矮小化されて継承され、スターリニズムの諸問題がその時代の資本主義論、この場合は戦後資本主義の経済的諸問題とは切り離されて、観念的なひとつのカテゴリーとして扱われ論争される事態の要因にもなったと思われる。
 事実その後、スターリニスト党への長期加入戦術の実践をめぐって、とりわけ中国革命の指導部である中国共産党への加入戦術や、戦後のマッカーシズム=赤狩りに直面していたアメリカ共産党への加入戦術をめぐる国際論争(パブロ・キャノン論争)と分裂は、客観的に要請されていた戦後の革命的情勢の有無と、その論争の土台となるべき戦後資本主義論をめぐる論争としては発展させられることのないまま、スターリニズムの性格やこれに対する「原則的対応」をめぐる不毛な論争に終始することになったのである。

 (パブロ・キャノン論争の総括は、3回大会と4−5回大会の総括討論の次のテーマとして研究会の第2期プログラムに入っている。キャノン派が、パブロの戦後資本主義論と戦略的展望に対して、生きた情勢とは切り離されたトロツキーの原則を対置するにとどまったという限界の解明を含めて、このテーマの討論は、第3回大会テーゼの総括と対をなす戦後第四インターナショナル総括の核心部分になると考えている。)

●3大会テーゼと過渡的綱領

 冒頭で述べた「パブロ主義の総括の不在」を克服しようとする以上のような第3回大会テーゼの批判的検証は、今日の第四インターナショナルの「大衆運動主義的傾向」を説明するだろうし、このテーゼを継承してベトナム革命を世界革命の前衛にまで押し上げた日本支部の第4回大会テーゼ(極東解放革命論)と、70年代同盟の陥った解党主義の関連を説明するだろう。
 しかし同時にそれは、レーニンとトロツキーの時代の資本主義論=レーニンの帝国主義論に代わる現代資本主義論の再構築という課題とともに、過渡的綱領の方法論から何を積極的に継承すべきかをわれわれに鋭く問うことになる。
 こうした課題への全般的回答は、研究会第3期のテーマ=マンデルの後期資本主義論の検証までをワンセットにした研究会の課題に他ならないのだが、とりあえずの方向性は、ひとつは『ヨーロッパとアメリカ』について前述したように、資本主義の自己変革能力に関するマルクス主義的な分析法の継承=マルクス主義経済理論の復権と、ローザの『改良か革命か』などを含む第2インターナショナルの初期に繰り広げられたような資本主義論争の再生であり、いまひとつは、過渡的綱領にはらまれた「陣地戦」的方法論の再把握ということができると思う。
 いうまでもなく「陣地戦」は、グラムシの「機動戦と陣地戦」に由来する呼称だが、それは資本主義中枢諸国における権力構造がより広範な大衆的基盤に立脚していることから、圧倒的少数者の権力が強力な暴力装置に依拠して成立している国家(例えば当時のロシア帝政権力)における権力奪取を想定した「機動戦」とは相対的に区別された、階級形成のための方法論が必要であろうとの認識から提唱されたものと言っていいと思う。
 したがって過渡的綱領が「資本主義の死の苦悶」の時代を前提としつつも、フランスという当時の資本主義的中枢の国家で、迫り来る戦争の危機に抗する行動綱領として、階級形成を促進する「陣地戦」とファシズムに対抗する労働者権力の樹立という「機動戦」の結合を意図して提起されたものだとすれば、そこには「陣地戦」と呼ばれる階級形成の方法論が体系的に含まれていると考えるのはそれほど的外れなことではないだろう。
 戦後資本主義が、大衆消費社会の形成を通じてグラムシが分析した当時のイタリア以上により広範な大衆的基盤に立脚していることが明であるとすれば、しかもその後期資本主義が過剰生産という典型的な資本主義的危機に直面し、グローバリゼーションにその活路を求めて国際的な大再編期に突入しているとするなら、過渡的綱領に含まれているであろう陣地戦的な階級形成の方法論の再把握と継承は、むしろ最も今日的な課題となっているとは言えないだろうか。


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