【国労第71回定期大会】

自壊に進む国労本部と再生めざす運動の胎動

(インターナショナル第139号:2003年10月号掲載)


 9月13−14の両日、国労は第71回定期全国大会を開催し「組合書記の強制配転」と「闘争資金の取り崩し」を含む本部方針を賛成多数(75対22、棄権・白票5)で採択、さらに鉄建公団訴訟原告と最高裁第三者参加申し立て者22人を「3年間の権利停止」にする査問委員会報告を、賛成64、反対13、棄権(採決不参加)18、白票7で承認した。
 恒例化した警視庁機動隊の警備の下で行われた大会は、冒頭から激しい応酬がつづけられた。国労本部は4党合意が破綻した責任のすべてを「一部闘争団とそれに同調するJRの国労組合員の行動」(寺内書記長集約発言)に転嫁し、財政危機を口実に事実上の書記の首切りとスト資金の流用を強行しようとしたのに対して、これを批判する代議員や傍聴者は、4党合意が破棄されたの鉄建公団訴訟を国労の闘いにすべきだし、建交労の坂田委員長が提起したILO勧告に基づく解決にむけた「大同団結」を追求すべきだと訴え、何よりも「一切の統制処分を認めない」として大会の正副議長選出から対立候補を立てて闘ったからである。

▼「国労の自壊」を決めた大会

 今回の大会は、総評労働運動の中軸を担ってきた国労の変質と自壊を決定づけた大会として記憶されるだろう。
 それは第1に、争議の方針をめぐって生じた対立を統制処分によって「決着」させたからである。しかもこの処分は4党合意が破棄された後に、つまり「解決のためには国労の意志統一が必要だ」といった口実さえ失われているのに、その争議当事者に対して発動されたのである。
 71回大会は、大会自らが決定し組合員に指示して闘ってきた争議を一方的かつ無責任に放棄し、それに異を唱える者を行政的に、つまり対話や説得ではなく強制的手段で排除することで、自ら労働者の人権や生活を擁護する大衆的労働組合であることを止めると宣言したに等しいのである。
 そして第2は、争議当事者に対する統制処分の一方で、闘争に使われるべきスト資金の流用を決定をしたことである。
 それは争議継続の意志を表明する組合員を無視して否むしろ「居ないことにして」、組織的闘争を支える資金的裏付けを解体し、事実上の闘争(争議)放棄を宣言したに等しいからである。実際には首切りを意味する書記の広域強制配転も、本人同意の必要さえ認めない対応もさることながら、スト資金の流用先をブラックボックス化するために、争議継続に共鳴する書記たちをあらかじめ排除したのではないかとの疑いさえ抱かせる、実に不当な決定である。
 所属組合による採用差別という明白な不当労働行為の撤回を求める争議の当事者を統制処分で切り捨て、大衆的労働組合であることを止めると宣言し、さらには争議権すら放棄することになった国労に、はたして形骸化した組織以外の何が残るだろうか。
 しかもこの大会決定は何らかの運動方針に基づいたものではなく、ただただJR連合との組織合併を追い求めた結果であることも明らかである。JR連合と合併してJR総連を追い落とし、企業内労組主流派の座に復帰したとして、その先いったいどんな運動の展望があり得るのか。
 しかも本来、こうした選択を望む者は自ら国労を脱退してJR連合に加入すべきであろう。だが国労本部と大会多数派はそうした問題に全く答えず、本音を隠して組合員全員にこれを強制する決定を行い、他方で闘争団と共に闘う組合員の意志を組織的に体現しないことを鮮明にしたのである。

▼自己決定に基づく争議の再生

 国労本部と大会多数派が「不団結の克服」を語りながら、異論を排斥する統制処分によって現実の国労が「呉越同舟」であることを自ら認め、さらにその沈没(自壊)を早めることになる書記の「解雇」と闘争資金の簒奪を決定した以上、闘いを継続する意志を持つ国労組合員は、今後の行動を自己決定しなければならなくなった。
 それは単に思想・信条の自由という基本的人権にもとづいた正当な選択と言うだけではなく、組合員個々人の自主的な選択を基礎にして、労働者の大衆自治に根差す労働組合と運動の回復をめざす闘いの始まりを意味するだろう。その意味でこの自己決定は、「国労に人権と民主主義を取り戻す」運動の文字通りの第一歩である。

 組合員の自己決定と、大衆自治によって運営される労働組合の再生は、国鉄の分割民営化を重要な契機としてひろがった、リストラと呼ばれる人員削減や安全軽視の「合理化」が蔓延しているこの時期であればこそ、一層必要とされている。
 9月28日に東京の中央線工事に伴って発生したトラブルでも暴かれたように、民営化されたJRでは外注化という工事や作業の丸投げと、命令と監督はしても検査や点検もしない無責任体制が蔓延している。
 これは現場協議制に代表される国鉄労働運動の基盤を解体しようと、労働組合が受け継いできた教育・訓練機能を破壊し、労働組織の自発的な対応能力を根こそぎにした反面、国鉄管理機構の無責任体制が温存された結果である。むしろ国労などの労働組合に運営や工事を丸投げしていた国鉄当時は、労働組合の統制下にある自治的な労働組織が無責任体制から生じるミスに自発的に即応し、事故を最小限に止めてきたとさえ言える。
 つまり労働者による自治を回復し、次の世代に教育と訓練を施し、鉄道運営や工事を効率的に再編することは《社会的要請》にさえなり始めているのである。ただ大きく違っている条件は、民営化以降の正規職員の大幅な削減の結果として、丸投げされる工事や運営を担っているのが下請けや非正規雇用の労働者だということである。
 国鉄労働運動の再生にむけて、企業内の正規職員で構成される労働組合の枠組みをどう克服するかが重要な課題となるのは、こうした違いがあるからなのである。
 今日の国労本部と大会多数派は、結局こうした課題に背を向け、企業内正社員組合に固執して国労の自壊に突き進むことを強制しようとしているのだ。

(K・S)


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