国労が4党合意承認を決定
第67回定期全国大会


●機動隊に庇護された大会

 1月27日、国鉄労働組合は昨年10月に休会となっていた第67回定期全国大会の続開大会を開き、4党合意の承認を含む運動方針を可決、新執行部に高島委員長(盛岡地本)、寺内書記長(北海道)らを選出して閉会した。
 公式発表では800人という機動隊が、会場の社会文化会館前の公道を封鎖して周辺を包囲するバリケードを築き、国労大会にもかかわらず当の国労組合員は吹雪の中に強制的に排除され、逆に機動隊は会場の中にまで配置されて強行された大会は、「JRに法的責任がないことを認める」4党合意を強要してきた国労右派が、国家的不当労働行為と闘いつづけようとする闘争団を切り捨て、国家権力に身を委ねたことを象徴していた。
 4党合意が明になって以降の8カ月におよんだ攻防戦は、4党合意に反対する国労左派と支援戦線の敗北によって幕を閉じた。だがここから新たな闘いが始まった。

●20闘争団支援の戦線を

 4党合意反対を貫こうとする全国20の闘争団は1月16日、国労本部に対して4党合意承認の採決を中止するよう要請し、22日の回答期限が過ぎた24日には、大会決定がどうであれ、20闘争団は争議当該としてJRの法的責任を追及して闘いづづけるとの声明を発表して記者会見をおこなった。
 国家権力の庇護の下で、国家的不当労働行為との闘いを終息させようとする大会決定など、もちろんいかなる意味でも無効である。そして20闘争団は、この国労右派の裏切りを乗り越えて、困難な闘いの継続の決意を明らかにしたのだ。
 だから今度は、闘争団とともに4党合意に反対してきた国労組合員と支援が、闘争団の決意に応える番である。国労の地本、支部、分会大会で闘争団支援継続の決議を追求し、20闘争団にカンパを集中する支援戦線を形成し、国労右派の支援カンパ打ち切りに抗することが当面する最重要課題である。

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●国労闘争団を支援して

主役を無視した民主主義から自立し連帯する統一と団結へ

藩主たちと農民の運命

 手話で茨城県を表現するとき蓑を着ているしぐさをする。諸説があるが、1860年の江戸城桜田門外の変、雪の中で彦根藩の井伊直弼大老を待ち伏せした水戸藩と薩摩藩の浪人の姿に由来しているという。
 攘夷、開国、佐幕、尊王と幕藩体制内部での論議がつづくなか、日米修好通商条約を強引に調印、意見をちがえるものを安政の大獄などで抹殺して政権を維持しようとした大老は、結局幕藩体制の崩壊を加速させた。最後まで幕蕃体制に固執したのが会津、伊達、南部藩など。しかしこれらの藩にしても確固たる藩体制が維持されていたわけではない。
 1853年、南部藩三閉伊(さんへい)でおきた農民一揆はいまも小説や芝居で語り継がれている。8000人の百姓は南部藩領を出て仙台藩へ越領、強訴をおこなった。先頭には「小○」(こまる=困る)と大書きされた筵旗が掲げられていた。百姓への制裁はなかったが、藩主が要求をうけいれたわけでもない。
 幕藩体制維持の主張を掲げ函館五稜郭にたてこもった榎本武揚はその後新政府の要人となっていった。北海道は内地からの侵略がすすみ、アイヌの人びとは生活の場を追われていった。伊達原発の伊達町は伊達藩の侍が集団で住み着いてつくった。会津藩の侍はその後ハワイへの移民となった。そのほうが潔かったのかもしれない。
 歴史の流れのなかで為政者は器用に泳げても、民衆は置いてきぼりをくらう。南部藩は他の藩に先駆けて藩籍奉還をおこなった。そして士族には金禄公債が交付された。一方維新後賊軍となった旧南部藩の農民は藩主のせいで着せられた汚名を振り払うのに苦労した。明治政府への忠誠を証明するため、日清戦争では徴兵されなくても志願して軍属として参加した農民がたくさん出た。陸軍の軍港があった広島の比治山にある軍人墓地に集められた墓石の数は東北地方出身が他と比べてかなり多い。軍人にまじり軍役人夫、軍輸送関係夫などだ。
 後世、社会主義にシンパシーを持つ旧南部藩渋民村出身の石川たく木は日露戦争の頃までやはり愛国の民だった。しかし足尾銅山鉱毒事件を知り「夕川に葦は枯れたり 血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」とうたい、義援金を集めて送った。そして東京市電値上げ反対デモに関心を示し、社会主義に近づいていく。20世紀初頭のことである。三閉伊一揆からは50年が過ぎていた。
 士族となった蕃主と農民の運命はかくもちがった。明治は、司馬遼太郎が書いているような明るい時代では決してない。

 それから100年の月日が過ぎた桜田門から少し離れた社会文化会館。雪のなかで叫ぶ九州・北海道の国労闘争団、水戸地本、千葉地本、高崎地本などの組合員の声は、東京地本、近畿地本出身の役員、そして新役員を出した盛岡地本、北海道本部には届かなかった。「変」は起きず、「1047人の大獄」だけが決まった。両者のあいだには、機動隊のバリケードが築かれていた。
 この後歴史はどう繰り返されるのか。悲劇としてか、喜劇としてか、過ちは繰り返えさないとしてか。

不思議な組織の仲間たち

 国労は不可思議な組織である。
 分割民営化まえ、人活センターに入れられた国労組合員への激励行動の後、八重洲口にあった国労会館にいった。委員長は組合員でない私たちに、「ここは皆さんの事務所です。いつでも来て自由に使って下さい」と挨拶した。大国労が変わりつつあると思ったし、変わることを期待した。それ以前は中小民間労働者「ごとき」が大国労の本部へなど近づけるとは思ってもいなかった。
 闘争団を中心に労働者の交流の機会が多くなった。組合間の垣根は低くなった。国家との不当労働行為と闘う「闘う国労」に期待することも大きかったし、受ける支援も大きかった。闘い続ける闘争団の存在そのものが勇気を与えてくれた。これまで何度か国労内部で「屈服路線」は出されても、そのつど修正されてきた。外部からは不安をいだきながらも底力を感じさせた。そのぶん国労に「意見をいう」ものは多くはなかった。
 しかし地殻変動は着実に進んでいた。

 昨年の5月、「4党合意」が暴露された直後の東京・神田パンセでの集会には会場に入り切れないくらい人が集まった。しかし本部役員にたいするヤジは数人からしか上がらなかった。闘争団はなにを考えているのだろうかと思ったが、その思いは10月の定期大会までつづいていた。
 8月の続開大会まえ、連日執行部と闘争団、共闘との話し合いがおこなわれたが、大会前日深夜の共闘抜きの「幕引き」は共闘にとってはまったく納得できない。先日までわざわざ共闘のために発言時間をつくった闘争団が、共闘に相談もなく「幕引き」をした。共闘は利用されるだけの団体なのか。
 このときの状況について、郵政4・28反処分を闘う名古屋さんが郵政全労協九州の機関紙『未来』に寄稿している。「幕引き」の事態になってしまったことに、国労組合員から共闘に、それぞれ時間と場所はちがうが「申し訳ない」という発言がされた。「幕引き」に反対した闘争団員、「幕引き」に反対だった地本の役員、そして「幕引き」に賛成した闘争団員から。名古屋さんは「申し訳ない」の発言を「スマイル、スマイル」と受け入れたが、そこには闘争団と同じように辛酸をなめてきた労働者のやさしさがあった。
 この3つの場面に居合わせたが、彼らとは共闘や支援というより「仲間」という意識を共有でき、いっしょに闘いのやり直しがきくと実感できた。

「日の丸」の「統一と団結」

 しかし10月の定期大会をまえにして、国労の行く末に不安を抱かせたのが協会派の機関紙「まなぶ」10月号だった。「闘いの現場から」の報告に、国労盛岡地本と留萌闘争団の報告が同時に載っていた。「4党合意」について大きく対立する2つの組合機関と闘争団をこのように扱っていることに、協会派の現場労働者は何を学び、どう対応したのだろうか。「統一と団結」だけが声高に、金科玉条にさけばれている。
 部外者からみると、とにかく協会派の分裂はしてくれるなという組織維持のための懇願にしか思えない。闘争方針をだせない「指導部」に対しても、協会派の現場労働者は自由でない。混迷のなかで、現に収入が保証されている多数派と収入がない少数派では、力関係はおのずときまる。現在の協会派の混迷を突破する方針があるとしたら「書を捨てて野に出よう」であり、協会派生徒たちの「不登校」であろう。
 いま社会問題となっている学校の荒廃は、児童・生徒だけが悪いわけではない。今年は全国で荒れた成人式が問題になったが、知事や首長のつまらない祝辞に新成人が耐える必要はない。携帯電話で騒ぐのは消極的抵抗だが、壇上占拠は積極的抵抗である。ただしその内容は幼稚で、ペナルティーを予測しないからできたという要素もあるのが問題ではある。しかしやっと成人式のありかたが論議の俎上にのぼった。
 同じ様に本当の主役を無視した卒業式・入学式での「日の丸」「君が代」の強制に反対と行動を起こすには、ペナルティーを予測しなければならない。成人式のありかたを論議する地平で卒業式・入学式の論議もしてみる必要があるのではないだろうか。
 「日の丸」「君が代」は、国家による上からの「統一と団結」の強制である。文部省と国労本部はやりかたが似てないだろうか。抽象論での上位下達とどう喝など。「統一と団結」の強制に従順な模範生ばかりが通う閉鎖的な「学校」は、戦時中の国民学校とどこが違うのだろうか。
 いま街なかでたむろしている学校嫌いの若者も、けっこう社会に鋭いし、まじに生きている。「日の丸」「君が代」問題で論議してきた埼玉・所沢高校の生徒会は、国家主義の強制でも平和教育の押しつけでもない「個」を尊重したところからの論議を提起している。いま必要なのはそこからの論議である。個を否定する平和などありはしない。
 国労の学校政治の生徒たちも、みんなが登校するなか、一度校門前で立ち止まり、不登校を考えてみてはどうだろうか。「4党合意」の本部発言に「当該のオレは合意しない」と即ヤジをとばす、「まなぶ」を読んで「まなぶものはない」と自分で判断する力が必要ではないか。

三池労組の自己決定権

 向坂校長はマルクス、レーニン主義を標ぼうした。この学校は多くの優秀な教授をかかえて派遣した。三井三池闘争の最中にも、労働者は「資本論」をはじめ沢山の本を「まなんだ」という。しかしその教材のなかにマルクスの『民族問題によせて』やレーニンの『民族自決権問題』は入っていなかったようだ。そしてその主義の根底にある思考方法も取得させなかったようだ。「マルクス読みのマルクスしらず」の教育だった。
 三井三池闘争終結後の1963年に起きたガス爆発での大量の死者・中毒者の発生にたいして、当時の三池労組は職場の安全政策と労災補償の充実の闘いを組んだが、殺された労働者、働けなくなった労働者の会社追及の声を聞き入れようとはしなかった。三池労組は生き残って働ける労働者だけのための組織だった。生活に苦しむ労組員の家族が独自に損害賠償訴訟を提訴したあとで、ようやく労組も訴訟を起こした。
 「やがて来る日に」のための長期抵抗路線の労働運動、「労働者の大義」が、家族を失ったり家族を1日中看病しなければならないものたちの生活に優先したのである。
 いま同じ学校の同窓生である国労指導部は40年前の過ちを繰り返そうとしている。おかれた状況がちがう少数者にたいして多数とおなじ民主主義を適用させることはできない。少数者が独自の発言権、行動をもつことは権利として補償されなければならない。
 独自の要求を掲げ、その問題の根本的解決を実現させる闘いのなかから少数者、多数者双方の真の民主主義が追求できる。
 闘争団は闘争団として自己決定権をもつべきである。6月20日付けの「国労新聞」のみだし「決めるのは闘争団」が国労の方針でなければならない。
 しかし、国労の執行委員会に闘争団員の執行委員の枠が設けられたということもなかったし、大会で闘争団員に特別枠の代議員が割り振られたということもきかない。そして他の労働争議と国労の争議が大きく違うのは、JR、運輸省、関係政党との交渉に当該が参加しないということである。当該にとって相手が見えないのである。交渉がどう進展しているかは報告をうけるだけである。これでは組合内部であろうが代行主義である。闘争団が要求しなかったということもあるだろうが、そもそもそのような発想がおきる土壌はなかったのだろうか。

 「ガンバレ闘争団」のホームページ11月6日の「声・こえ・VOICE」に、「地方組織を馬鹿にするな!」と題する若手バス社員組合員の意見が載った。団結まつりで、闘争団家族会の代表が「国労もなんとなくもった」と発言したという報告を読んで、地方組織、分会で地道に自分たちの職場環境を守ろうと奮闘しているものにとっては許しがたい発言だといい、(1)国労は闘争団支援だけの目的で存続したのか、(2)闘争団は解雇問題の解決のみを考えこれからのJR職場の問題は無視するのか、答えはどちらもNOであることを期待しています、と結んでいる。
 団結まつりの報告は誤解をまねく点があったとあとで補足があったが、これにたいしての闘争団の答えはどちらもNOであろう。しかし闘争団から直接の回答がなかったことを含め、投稿者と同じような考えを持つ者と闘争団の意思の疎通ができていない現実がある。双方は対立しているのではなく、情報公開を含めて対立させられている。解雇を許さない闘いが、職場環境の改善も勝ち取ることができる。再底辺の底上げが全体の向上になるという認識での共同の闘いこそが必要なのであり、それこそが真の「統一と団結」である。
 大会会場を取り巻いた機動隊のバリケードの外で、大会をみまもってシュプレヒコールを繰り返しながら、こんなことがつぎつぎと思い浮かんできた。

国鉄労働組合歌

 予想はしていたが、採決の結果を聞いたとき、妙に納得したことがあった。ああこれでかろうじて21世紀まで残った最後の戦闘的民同も最終的に敗北したと。
 しかしこれをすべて国労指導部のせいにすることはできない。なぜなら、あの新しい地平を切り開いた修善寺大会をへた国労にたいし、国労本部を自由に使ってくださいといわれた私たちは、脱皮、飛躍を共有することができず、国労を後戻りさせてしまったからである。そのことが闘争団とその他の組合員の対立を派生させてしまった。大きな負債をかかえての21世紀のスタートとなった。
 しかし採決の結果を聞いても、外にいた闘争団の表情は暗くなかった。そこには吹っ切れた姿があった。採択させなかったが10月の大会では表情は暗かった。
 この闘争団とともに民同とはちがう闘争をこの後どう模索していくのか、「敵より1日でも長く闘う」という勝つ気のない路線ではなく、1日でも早く勝利を手にする闘いを早急に構築しなければならない。

 大会修了後、場所を移して報告集会がもたれた。反対派は挙手しても指名されなかったという報告などがあり、最後にお金がない独自の集会なのでカンパをと呼びかけられた。その呼びかけのとき、「集まったカンパは途中で消えることはありません」とつけ加えられた。
 会場からは笑いが起きたが、東京地本委員長らが、本部方針に反対する支援からのカンパを自分の懐にいれ飲み食いをし、懐柔していたという「噂」を連想させたからである。しかしそれは、笑って済ませることができるようなことではない。
 10月の大会では、闘争団は「国鉄労働組合歌」を歌った。みんなにとって久ぶりの歌だ。しかし「4党合意」賛成派は歌えなかった。組合歌を歌えるものと歌えないもの。この差は大義がどちらにあるのかを証明している。だからこそ私たちは今後も歌いつづけよう、その歌詞をかみしめながら。

  私たちは 俺たちは 喜びをもっている

  明るく住みよい 世の中を

  働くものの 幸せのため

  国鉄労働組合の 盛り上がる意気で

  がっちりつくり 働くものだ

  国鉄労働者

 手話から始まった話しはやはり手話で締めくくることにしよう。
 人、人間を表現するときどうするか。人差し指で自分の方から読めるように「人」と空書きする。人はどんなことにも例えられない人でしかない。そこでは手話を母語とする人たちの尊厳が守られつづけている。
 1923年、部落差別にたいする融和主義や懐柔策をはねのけて独自の組織・水平社を結成した青年たちによる「水平社宣言」は、「人の世に熱あれ 人間に光りあれ」と結ばれている。人間は仏教では「じんかん」と読むのだという。熱い血潮が流れている人びとに、同じ様に光が差し込む社会をつくるため、闘争団もJR職場で差別されている労働者も、支援の仲間とともに闘いつづけよう。

 (いしだ・けい)


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