国労大会「補強提案」の意味と背景
問われる地裁判決での敗北の総括

(インターナショナルbX2 98年9月号掲載)


 国鉄労働組合(国労)の第63回定期全国大会は、8月21〜22日の両日、社民党本部のある東京の社会文化会館で開催された。今回の定期大会は去る5月28日、中労委命令を取り消した東京地裁民事11部と19部の不当判決【本紙90号で既報】を踏まえ、この敗北の総括のうえに立って新たな闘争方針を確立しなければならない大会として、客観的には位置づけられるものであった。
 しかし大会前日に開催された全国代表者会議(各エリア本部と各地本代表で構成)で、宮坂本部書記長が大会に「補強提案」をすることを明かにしたことから、大会討論は「路線転換」をめぐる激しい応酬の場となった。なぜなら宮坂書記長の「補強提案」は、
1:国鉄改革法の承認の表明、
2:JR移行後の係争事件はエリア本部ごとに解決する、
3:「産別組合の組織化を展望して」国労の名称変更を検討、
4:JR連合に共同行動を呼びかけ、JR東日本の異常な労使関係(JR総連・革マル派との癒着のことだが)を変えるために全力を挙げる、
5:自民党を含む全政党に働きかけて政府に解決の決断を迫る
という、5・28判決直後に自民党が示し、中央闘争委員会(中闘)が拒否を決めた「和解交渉斡旋の条件」を、さらに具体的にした内容だったからである。当然のことながら大会では、強引に提出されたこの「補強提案」に対して、厳しい批判と反対意見が相次ぐことになった。
 結局「補強提案」は、大会議案との一括採択という宮坂書記長の要求を、大会開催中に開かれた中闘が退けたことで採決からははずされ、継続討論ということでケリがついたのだが、それはかなりきわどい「勝利」、事実上これまでの国鉄闘争の清算をすすめるような路線転換をかろうじて阻止したと言える事態であった。
 宮坂書記長に対して、政府・自民党による国鉄分割民営化の強行以降の国鉄闘争を、事実上完全に清算するような「路線転換」を実現するように要求しているのは、村山政権当時に自・社・さの与党三党でつくった国鉄対策「三人委員会」(まだ残っていたのだ)である。その三人委員会は、旧国鉄の長期債務処理問題、国労差別事件、東日本のJR総連・革マル派問題の「ワンセット」解決という認識を前提に、JR総連・革マル派問題がこうした解決交渉のための「最後の障害」になっており、これを打開するためには国労とJR連合が、東日本会社に労働組合の受け皿をつくる必要があるとの見解を示して宮坂書記長に迫っているという。この一見もっともらしい三人委員会の見解は、言い換えれば「労使共同宣言を拒否して企業内組合の枠を踏み越えてしまった国労が、改革法を承認してその枠内に戻るのであれば、JR各社は、JR総連に代わる労働者パートナーとして受け入れますよ」ということである。しかも三人委員会の巧妙さは、こうした見解に共感する企業内労組意識が、国労の内部になお多く残っていることを見抜いている点であり、しかもそれはJRに採用されなかった国労組合員は、JR企業内労組の組合員にはなり得ないことの確認、つまり闘争団の切り捨てと「ワンセット」である。

5・28判決の隠れた本質

 大会に提出された「補強提案」のこうした〃きわどさ〃は、5・28判決以降、そこに勝利的展望を絞り込んできた左派路線が挫折し、これに代わる新たな展望と方針が提起されていないことに起因している。しかしだからこそ東京地裁での敗北の総括が不可欠になってもいる。だがこの敗北は、国鉄闘争を取り巻く情勢の大きな変化の中に位置づけなおしてみれば、事態は以外と明確でもある。
 中労委命令を取り消した二つの判決は、共に労働者救済機関としての労働委員会制度を否定もしくは矮小化するものであったが、ここにこそ5・28判決の核心的な意味が隠されている。なぜなら、労基法と派遣法の改悪策動に象徴されるように、「新日本的経営」を実現するための戦後労働法制の全面的な清算と再編は日本資本主義にとって焦眉の課題となりはじめており、中でも労働組合法の改悪と労働委員会制度の見直しは、その最大の焦点にほかならないからである。つまり5・28判決とは、ひとり国鉄闘争に向けられた判決というよりも、労働委員会制度の見直しを含む戦後労働法制の清算と再編の流れに棹さす判決だったのであり、「労組法改悪の先取り」と言われたゆえんでもある。
 だとすれば、「(たかだか)地方裁判所のレベルで、(国の制度である)労働委員会制度を否定する判決は不可能だ」という、これまでなら常識的で妥当でもあった弁護団をはじめとする〃われわれ〃の判断は、労基法の改悪策動として現に始まっていたこうした情勢の変化を、全く不十分にしか認識していなかった結果と言わなければならない。そして今大会で提起された路線転換は、この情勢の大きな変化に目を閉じ、「これまでなら常識的で妥当でもあった」旧来的な判断を前提に、一労組の力では国家との闘いにはやはり勝てないであろうとの「常識的で妥当でもある」結論を導きだしたものと言える。

企業内労組の衰退と産別組織

 ところがである。実は情勢の大きな変化は、この旧来的な常識があらゆるところで、つまり敵の側でも通用しなくなりつつあることを明らかにしはじめている。
 企業内労働組合の権化である民間大手労組、つまり連合の大黒柱であったJC派労組の労働者支配は、日本的な能力主義的労務支配の貫徹によって逆に衰えはじめている。理由は極めて単純である。能力主義的な労働者個々の評価が、各々の労働条件を決定する度合いが大きくなれば大きくなるほど、労働組合として団結し、労働条件の向上を要求する理由は希薄になる一方であろう。こうして労働組合の存在意義が薄れれば、高額の組合費という保険料は無駄というものである。連合の組織率の低下は当然の帰結である。
 つまり三人委員会やJR連合がさかんに国労に薦める企業内労組への回帰とは、いまJC派が転げ落ちはじめている労働組合としての衰退を、ほぼ15年遅れで追走しようという、あまりありがたくない誘いなのである。
 しかし他方には、連合、全労連そして全労協を貫いて、不安定雇用や低賃金あるいは倒産やリストラによる解雇といった切実な問題に直面し、役に立たない企業内労組ではない地域や産別の労働組合に結集する労働者は、高い失業率のもとで増加の一途をたどっており、JR内に目を転じれば臨時雇用やパート、派遣といった同様境遇の労働者が増え続けてもいる。こうした労働者の運動を象徴したのが、昨年秋以降の「労基法改悪NO!」の闘いにほかならなかった。
 そして5・28判決が示唆した労働委員会制度の見直しが、こうした労働者から闘いの手段をまたひとつ奪うことを意味するものである以上、これらの労働者たちこそは、5・28判決を打ち破るという点で、国労の利害と完全に一致できる仲間たりうるのである。

(きうち・たかし)


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