ILOが高裁判決についての提訴を受理
国鉄闘争の新たな可能性の基盤は
時代に強制された国家再編の推進

雇用形態・業種をこえて団結する労働組合へ

2001年12月(123号)掲載


高裁判決は何を確認したか

 JRの採用差別事件に関する昨年11月8日(本州関係)と12月14日(北海道、九州関係)の東京高裁による不当判決について、全統一労組など164組合・団体(11月8日現在)が、連名でILO(国際労働機構)条約89号、98号条約違反の申し立てをおこなったのに対して、11月2日づけでこれを正式に受理する通知が、国際労働基準部長名で届いた。
 昨年のJR採用差別事件に関する東京高裁判決は、98年5月にJRの不当労働行為責任を認めずに中労委命令を取り消した東京地裁判決を支持しただけでなく、とくに北海道、九州関係の民事7部判決は、採用時に反労組的雇用契約を提示しても、それを締結しなければ労組法上の「使用者」にはならないから不当労働行為の責任も生まれないと読み取れる、実に驚くべき論法でJRの不当労働行為責任を免罪するものだった。
 国鉄闘争を支援してきた労働者と労働組合にとって、それは見すごすことのできない不当な判決であった。
 なぜなら、97年以降の労基法や派遣法改悪に反対してきた労働者と労働組合は、こうした労働法制の相次ぐ改悪は、最終的には団結権や争議権という労働者の最も基本的な権利を破壊する労組法改悪をねらう資本攻勢の一環ととらえてきたからである。したがってもしこの高裁判決がまかり通るなら、労働組合と締結した協約を資本が一方的に破棄するために、国鉄をJRに改組した前例にならって旧会社を清算して新会社を設立し、反組合的差別条項のある労働契約に応ずる労働者だけを新会社に雇用するといった、極めて悪質な労働組合つぶしが事実上合法化されることになると考えたからである。
 つまり高裁の不当判決はひとり国労にかかわるものではなく、世界中の労働者と労働組合が、長い歴史的闘いをつうじて獲得した基本権の破壊に道をひらくものと言って過言ではない。その意味で昨年末の東京高裁判決とは、国労に対する国家的不当労働行為が、戦後になって日本にも定着した労働者の基本的諸権利を破壊する突破口という性格をもつ攻撃という、国鉄闘争の本質を改めて確認する判決でもあった。

なぜ新しい提訴だったのか

 国家的不当労働行為と対決する国労を支援してきた多くの労働者と労働組合にとって、こうした国鉄闘争の本質は自明の理だった。いや少なくとも国労が、中労委命令を取り消した98年5月の東京地裁判決に抗して控訴審を闘い、同時にILOの結社と自由委員会に98号条約違反を申し立てて闘っている間は、自明の理のはずであった。
 それが突然そうでなくなったのは、いうまでもなく昨年6月に公表された4党合意に飛びついた国労本部が、180度の路線を転換をしたからである。これを契機に、国労はいまだにつづく組織的混乱に陥るが、それがILO勧告を暗転させた。政府・旧運輸省を窮地に追い込んだ中間勧告(99年11月)は、日本政府が改ざんした情報に翻弄され、4党合意を支持する無残な勧告に一変した。
 だから4党合意に反対し、闘争の継続を決意した「闘う国労闘争団」を支援して共闘会議(準)を結成した労働者と労働組合が、独自にILO条約違反の申し立てを行ったのは、昨年11月の不当なILO勧告の是正を求めようともせず、上告の取り下げさえ強行しようとする国労本部の現在の路線と国鉄闘争の本質にてらして、まったく当然の対応にほかならなかったのである。
 もちろんそれは、国鉄闘争の本質に目をふさぎ、争議当事者の自決権をも踏みにじってJR企業内の主流派労組への回帰を幻想した国労右派にとっては誤算である。
 座れるはずだった企業内主流派労組の席が、革マル派の内部抗争さえともなったJR総連の屈服によって幻となった以上、「正常な企業内労使関係」に回帰する切り札として清算したはずの国家的不当労働行為と対決する闘争が、ILOという国際的舞台で継続されることは、国労右派の展望ばかりかその切り札をも無効化し、機動隊を導入してまで決めた4党合意の受け入れを完全に水泡に帰すことになるからである。
 だがILOへの新しい申し立ては正式に受理され、国家的不当労働行為と対決する国鉄闘争が国際的舞台で継続されることは、否定しようのない現実となった。4党合意による解決に固執する国労本部は、自覚的か否かにかかわらず、まさに進退きわまる事態に追い込まれることになる。
 理由は簡単である。政府・国交省とJRにとって必要な行動は、ILOが出すことになる勧告に全力で介入し、戦後日本の労働法制の清算に障害となる「外圧」となることを回避することであり、そこで何の役割も果たせない国労本部を籠絡する必要もなければ、その期待に応える理由もないからである。JR内労資関係も、屈服したJR総連が相手であれば当面はどうにでもなる。
 こうして国労本部の高島・寺内執行部は出る当てのない「解決案」を待ちつづけ、その間に国労組織は壊疽(えそ)に犯されるように立ち枯れが進行することになる。
 もっとも、10月大会で再選された高島・寺内執行部が、だからまた革同右派とチャレンジグループが現状を正確に認識しているとは思えない。ここに、視野狭窄に陥った国労本部と右派の悲劇がある。

国労はなぜ孤立し疲弊したか

 だが同時に階級的労働者にとって重要なことは、高裁判決をめぐるILOを舞台にした闘争がもつ今日的可能性と展望を明確にすることで、現実感覚すら喪失しつつある国労本部に代わる、国鉄闘争の新たなイニシアチブを再構築することである。

 労働法制の相次ぐ改悪、構造改革と称する首切り・リストラの進展、そして長期不況と大量失業の時代の到来。国労に対する国家的不当労働行為は、こうした一連の資本攻勢を先取りした攻撃であり、だからこそ国鉄闘争は大衆的支持を獲得し、日本労働運動の主体的再生を切り開く可能性をもつ。
 これは、闘う闘争団を支持して国鉄闘争の勝利をめざすあらゆる人々が訴えてきたことであり、われわれもまたそう主張してきた。だが他方で、この先取りされた攻撃と対決した国労は15年におよぶ長期の、そして孤立した苦闘の過程で疲弊し、その多数派はついに修善寺大会を清算して企業内労組に回帰するという先祖返りを完成させた。
 それではなぜ、国労はこれほど長く孤立したのか。国労への攻撃が「先取り」だったとすれば、なぜ全面的資本攻勢は今ごろになって本格化しているのか。全面的な資本の攻勢と、これに対する労働者の大衆的反発が現れれば、国労はこれほど長期に孤立はしなかったのではないのか。
 ということは、国労への攻撃が「先取り」だという理解は間違っていたのか。だとすれば、国鉄闘争がもつ現在の可能性という見通しも誤っているのではないのか。
 こうした、漠然とだがモヤモヤした疑問にケリをつけることは、疲弊した主体が新たな確信で再武装するために不可欠である。そしてこの疑問には、「国鉄闘争の本質的理解は正しかったが、現実的予測は外れた」と答えるべきだと思う。

 中曽根自民党政権が、戦後政治の総決算を標榜して国労つぶしにのり出したとき、そこに込められた意図はサッチャリズムやレーガノミックスを模範にした行財政(構造)改革であり、それにともなう労働法制の再編であったことは明らかである。その意味で国労に対する攻撃が、全面的な資本攻勢の「先取り」だったことは疑う余地がない。
 だが中曽根の行革攻撃は、実際には国鉄の分割・民営化をなしえただけで、それ以上に進むことはできなかった。国労の戦闘力を解体して総評を解散に追い込むことから始められた中曽根行革は、世界の工場にのし上がることで繁栄を謳歌した「金ピカの80年代」につづくバブル景気で後景に退けられ、「ばらまき政治」の復権という、今日につづく自民党竹下派支配の成立によって中途挫折することになったのである。
 「国鉄改革」と平行してはじまった自治労バッシング、日教組に対する文部省の強圧的対応、医労連を敵視した厚生省の国立病院統廃合などの攻撃は、臨調当時の危機意識の後退とともにしだいに先送りと曖昧な妥協におおわれ、国労だけが突出して国家的不当労働行為との対決に臨むことになった。
 つまり国労を疲弊させた長期におよぶ孤立は、日本資本主義の80年代後半以降の好況と中曽根行革の中途挫折によってもたらされたのであり、「先取り」である国労への攻撃は直ちに労働者全体に向かうだろうという先進的活動家たちの予見は、この現実によって裏切られたのである。

新しい情勢 労働組合の堕落

 だが、バブル景気に踊って行革を先延ばしにしてきたツケが、世界的な不況の波とともに日本資本主義を襲い、構造改革と呼ばれる国家社会再編が文字通りの意味で待ったなしの情勢がはじまった。
 記録的な長期不況とデフレスパイラルの進展、倒産件数と失業者の急増、増えつづける不良債権とばらまき政治の軋轢、金融システム危機と日本発世界恐慌の不安。そして小泉政権の劇的な登場が、「構造改革」という国家的リストラを促進しはじめた。
 グローバリゼーションの圧力に押された日本資本主義の国家社会再編は、後景に退けられていた中曽根行革当時の危機感の復活をともなって、先延ばしされてきた資本攻勢を本格化させることになった。国労への攻撃につづく労働者全体に対する攻撃が、10年余の時間差をもって再開されたのである。
 今日の国鉄闘争が獲得しつつある新たな可能性は、こうした情勢の変化に基盤をもつのであり、それは国鉄闘争の本質が「裏切られた現実」を越えて継承されるなら、再開された資本の攻勢という新たな現実と結びつくことができるという、具体的で現実的な可能性なのである。
 しかしこの可能性も、国鉄闘争の孤立を自動的に解消するわけではない。そこには、連合・JC派イニシアチブの10余年が日本労働運動全体にもたらした労働組合の堕落と腐敗という、中曽根行革の当時はまだそれほどでもなかった主体的問題が横たわっている。国労を孤立させ疲弊もさせたバブル景気と中曽根行革の挫折の結果でもあるこの主体的な弊害の克服が、国鉄闘争の今後の課題として提起されているのである。

 後藤元委員長らの起訴という事態にまで発展した自治労本部の脱税疑惑は、右翼労戦再編とその後に蔓延した曖昧な妥協が、労働組合をいかに堕落させたかを象徴する事件である。と同時にそれは、小泉改革が標的にする特殊法人改革とこれに連動する行政合理化の攻撃に対して、自治労の少なくとも主流派は、これと有効に対決できないだろうことを暴き出した。
 なぜなら、企業内の正規雇用労働者だけを組織的基盤にした自治労などの組合は、争議も組織化もしなかったことでだぶつくほどの資金を蓄えたのだが、それはまた非正規雇用と正規雇用の間にある格差や差別をなし崩し的に容認し、正規雇用を特権化することで可能でもあった。ところがいま本格化しはじめた行財政改革は、すでに公務員の職場にも広範に導入されている非正規雇用によって既成事実化された劣悪な労働条件に合わせて、正規雇用の労働条件を切り下げ、あるいは出向などを強要する攻撃だからである。
 雇用形態による労働者間の差別と格差を容認し、労働組合の外側に大量の非正規雇用労働者と劣悪な労働条件を放置しつづけ、その結果として蓄えた組合資金を不正に運用し、その不正が露見しても組合員に釈明さえしよとしない労働組合が、本格的な行財政合理化に対抗する大衆的基盤を再組織するのは、当然ながら絶望的である。

正規雇用と不安定雇用

 だがこうして、企業社会から自立した15年にもおよぶ闘争を強制され、疲弊して企業内労組に回帰しようとする右翼的多数派の堕落にも抗して、国家的不当労働行為との対決を継続しようと決意した闘う国労闘争団と共闘会議の存在が、ますます大きな意義をもつことになるのである。
 もちろん国鉄闘争が、非正規雇用労働者や不安定雇用労働者の組織化を積極的に推進してきたとは言い難い。それはむしろ先進的少数派によって担われる闘いであり、国労や闘争団の多数派は、国労が色濃く継承した企業内労組の伝統的組織化の枠内にとどまり、それがまた企業内労組に先祖返りした多数派の基盤にもなった。
 しかし明らかなことは、JRが推進しようとしている更なるリストラは、いま以上にJR職場で働く非正規雇用労働者を増加させずにはおかないし、他方で少数派となった国労の闘争継続派にとっては、こうした労働者との連帯を強化し、闘争主体の拡大のためにもその組織化をすすめなければ、新たな情勢がつくり出しつつある可能性を切り開くことができないということである。
 JRで働く労働者であれば、その雇用形態や業種がどうあれ、平等な権利と義務を共有する仲間として団結する労働組合は、増加しつづける非正規雇用労働者という職場の実態に合致するだけではない。それは労働者間の格差と差別を容認しないことで最も広範な労働者の結集を可能にし、本格化する資本の攻勢に対抗する大衆的反撃のために必要とされる組合なのである。
 そしていうまでもなくJRですすめられようとしているリストラは、今日ではJRに特有の問題ではない。それは各省庁と全国の自治体で、あるいはNTTやJC派の牙城である電機や自動車の職場でも始まっている。「企業内労組の弊害」を連合さえ口にしはじめたのはこうした情勢の反映なのであり、国鉄闘争が獲得しつつある可能性の証拠でもある。

(きうち・たかし)


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