●新安保法制成立後の課題

海外派兵阻止に必要な共同は可能か

― 野党に統一候補の擁立を求める運動団体 ―

(インターナショナル223号掲載:2015年12月号)


▼ 法案阻止闘争の敗北から安保法廃止運動へ

 集団的自衛権の行使を容認する新たな安保法制を定めた安保関連法案が、9月19日未明の参院本会議で可決され成立した。法案成立の阻止をめざした国会包囲の大衆的抗議行動は、実に半世紀ぶりと言われる大きな盛り上がりを見せて多くの人々を結集したが、法案成立阻止という目的を果たすことはできなかった。
 こうした大衆的抗議行動の大きな成果と、だが他方では安保関連法案の成立を阻止できなかったという結果は、「新た安保法制」を容認しない運動の継続と発展を諦めない限り、反対運動に関わった人々に次の課題の設定と、その課題を実現するための新しい運動の構築を求めることになった。
 その「次の課題」の焦点は、安倍政権による集団的自衛権の行使と海外派兵の阻止をめざし、その政権基盤たる自公連立与党の「絶対多数状態」を掘り崩して歯止めとなり得る政治勢力を結集することであろう。具体的には来年夏に迫った参議院選挙で自公連立与党を過半数割れに追い込み、数の力で「反対意見」を押し切って立憲主義と民主主義を踏みにじる安倍政権の政治手法を封じることであろう。
 したがって安保法案に反対して国会包囲をつづけてきた市民運動の側から、法案に反対した野党各党が、きたる参院選挙で「安保法制に反対する統一候補」を擁立する選挙協力を推進し、少なくとも32の「一人区」で自公候補に統一して対立候補を擁立することを期待する声が上がったのは、まったく当然のことであった。
 こうした大衆運動の圧力を受けて10月16日、民主党の枝野幹事長が安保法制に反対した野党5党(大阪維新と決別した維新の党を含む)と市民団体に呼びかけ、今後の安保法制反対運動の継続について話し合う会合が開かれた。
 当日、呼びかけに応じて出席した市民団体は「戦争させない・9条壊すな!総がかり実行委員会(以下:総がかり実行委)」「立憲デモクラシーの会」「安保関連法に反対するママの会(以下:ママの会)」「自由と民主主義のための学生緊急行動(以下:SEALDs)」、「安全保障関連法案に反対する学者の会(以下:学者の会)」の5団体で、これに「日本弁護士連合会(以下:日弁連)」が加わった。安保法制成立後はじめて一堂に会した市民団体と政党は、安保法の廃止を目指す闘いの継続を改めて確認したのである。具体的な運動としては、すでに市民団体が取り組みはじめていた「戦争法の廃止を求める2000万人統一署名」を来年5月3日の憲法記念日までに達成することが確認されたが、この2000万人という数字と来年5月という署名集約日が夏の参院選を意識したものであることは、当事者にとっては当然のことであった。
 というのは10月16日の会合でも、市民団体の側からは参院選での野党間の選挙協力への期待の声があいつぎ、枝野幹事長も「・・・来年の参院選で安保法制に反対する国民の声を(選挙)結果に反映させるために、ここに集まっている野党が最大限の共闘をしなければならないということは、まったく同感だ」と応じたように、来年夏の参議院選挙が安保法制の廃止運動にとって重要な意味を持っていることは、反対勢力にとってはあまりにも明白だからである。
 ちなみに統一署名運動が掲げる「2000万人」という数も、安倍自民党の大勝に終わった2013年7月の参院選と、昨年12月の総選挙で自民党が獲得した得票数に匹敵する数であることを「自覚したもの」である。
                                                        

 ところで、前述した枝野幹事長の発言は「野党第一党である民主党の責任は非常に大きいと自覚している」と締めくくられている。たしかにその通りではあるのだが、問題なのはその民主党内に安保法制に必ずしも反対ではない「非主流派」が無視できない勢力として存在し、それが野党第一党の民主党をして、安保法制反対の野党共闘で強いイニシアチブを発揮できない原因となっていることなのである。

▼大衆運動の圧力は民主党の混迷を克服する

 言うまでもなく安倍政権による安保法制の強引な制定は、民主党を始めとする野党勢力の脆弱さにも助けられてのことであり、それはまた民主党が政権の座に押し上げられながら民衆の期待に応えられず、結果として以降の選挙では大敗を繰り返し、自民党の一強体制を許すことになったからに他ならない。
 本来なら政権を失った政党は、自らの未熟さや政策的錯誤を批判的に総括し、自らの再生と新たな政治展望を示すことで次期選挙での勝利を目指すのが当然であろう。だが民主党は、今日の「非主流派」に連なる野田党首が無謀な衆院解散・総選挙に打って出て惨敗したにもかかわらず、その敗因を明らかにする党内論争すら行わず、あろうことか民主党政権の功労者の一人でもある小沢元幹事長に対する「献金疑惑バッシング」に便乗してその粛清に血道をあげる始末であった。しかも、小沢が無罪判決を受けたことを自民党政権に対する反撃の契機にすることもできない体たらくでは、政党としての信用をさらに失って当然であろう。2013年参院選と昨年末の総選挙での大敗で自民党一強体制を招いた民主党の責任は、きわめて重いと言わねばならない。
 つまり枝野が言う「野党第一党としての責任」を民主党が果たすためには、解散総選挙での大敗の責任には口を拭い、自己保身のために「献金疑惑バッシング」に便乗して党内の混乱を助長し、今また「野党再編」を標榜して野党共闘を撹乱する「非主流派」の無責任と身勝手を押さえ込み、党内の混乱をいかに克服するかが最大の課題なのだ。ところが――ここからが核心問題なのだが――岡田・枝野の現執行部は、「非主流派」を押さえ込むには議員集団としての力量においても、そして後に述べるが「理論的」にも、きわめて非力だということである。これは「私個人の民主党批判」などではなく、党内の有意の議員たちがじくじたる思いで自覚している民主党の現実である。
 ところが今、つまり安保法制に反対する大衆的抗議運動の高揚が次期参院選での野党共闘を求める強力な圧力として登場し、民主党の現執行部にとってはその非力を補う「追い風」となり得る状況が生まれつつあるのだ。
 民主党にとって「風」は、選挙を戦う上で重要な要素である。なぜなら諸勢力の思惑が絡んだ合従連衡で誕生した新興政党たる民主党は、自民党や公明党あるいは共産党のような「確固たる支持基盤」と呼べるような社会的基盤をほとんど持っていないからである。それは政権党だった4年足らずの短期間では克服されず、結果として民主党議員はその時々の「追い風」に乗ることで無党派層の票をかき集め、旧い地域的人脈やら巨大教団の基礎票を固める保守系候補者に対抗する以外になかったからだ。
 もちろん安保法制に反対する大衆運動の高揚が、来年夏の参院選でどの程度の「追い風」になり得るかは定かではない。しかしそれでもこうした大衆運動の圧力が無ければ、維新の党との合流を目論む「非主流派」の野党再編論に攪乱され、市民団体と野党との合同会合を呼びかける事すら出来なかったかもしれないし、もっと言えば安保関連法案反対の態度さえ曖昧にならざるを得なかったのが民主党の現実なのだ。
 こうした「脆弱な野党第一党」の現状を考慮すれば、安保法制に反対してきた大衆運動の側からこの党に圧力をかけつづけ、参院選での統一候補擁立のためのイニシアチブとして機能させることは「最も効果的な」闘い方であるだけでなく、安保法廃止運動の今後を占うことにもなると思うのだ。

▼立憲主義に背く「格差」の放置と「再分配制度」の再構築

 大衆運動の圧力を強めること、具体的には「2000万人署名」運動の広範な展開を通じて参院選の「一人区」で野党統一候補を擁立する・させる闘いはそれ自身として有意義であり、安保法廃止運動の次の可能性もまたその成果に応じて切り開かれるに違いない。だがそうだとしても、私たちは「安保法制の制定は、立憲主義と民主主義とを踏みにじる蛮行だ」と訴えるだけでは、来年夏の参院選で自公連立与党を過半数割れに追い込むことはできないと思うのだ。
 いま今一度、野党・市民団体の合同会合での枝野幹事長の発言を引用しよう。
 「安倍自民党の支持率が(安保法制の強行採決以降も)下がっていないのは、立憲主義や民主主義とは違う基準で支持政党を決める人が一定数いるということ。その客観的な現実は見据えなければならない。そうした問題を含めていろいろな努力をしなければならないと思っている」。枝野はこう述べて、安保法制以外の問題への対応も必要だとの認識を示したのである。そしてもちろん市民団体の側からも、経済政策や福祉政策などで野党が「大枠の方向性」で一致して欲しいとか、女性や若者が抱える問題に応える政策を打ち出してほしい等の要望が出された。
 実はここには「立憲主義と民主主義の擁護」という、安保法制制定の過程で焦点化した安倍政治との対決軸に孕まれたもうひとつの可能性、言い換えればより広範な人々と共に安倍政権を退陣へと追い込む運動の「新たな枠組み」が示されている。それは、グローバリズムと新自由主義の名で進められた経済政策が生み出した「社会の歪(ひずみ)」つまり社会的・経済的格差を是正するための「再分配制度の再構築」という枠組みである。
 では何故これが、「立憲主義と民主主義の擁護」に結びつくのか。
 改めて確認するまでもなく、戦後日本の憲法は第9条に象徴される「平和主義」のみならず「国民主権」と「基本的人権の保障」を重要な支柱として構成されており、なかでも「人々が生きていくことを保障する」生存権の保障は、この国の安全保障と並ぶ最も重要な「国民の権利」として位置づけられた「戦後憲法の肝(きも)」である。したがって社会的格差を是正する再分配政策は、「生存権の保障」を「健康で文化的な生活をおくる権利」と具体的に規定した憲法第25条に基づいて政府が行うべき「憲法上の義務」なのであって、これをないがしろにして社会的格差の拡大を放置することは、立憲主義への明白な違背に他ならないからである。
 そして事実、憲法の平和主義を踏みにじって安保法制の制定を強行した安倍政権は、他方では新自由主義的な金融政策と経済・労働政策を組み合わせた「アベノミクス」によって非正規雇用の拡大や残業代ゼロ制度の導入を推進し、あるいは労働基準法を平然と踏みにじる「ブラック企業」の蔓延を許す等々、「格差是正」に逆行する諸政策で景気を回復するとうそぶいてきたのも周知の事実であろう。
 ここで言う再分配政策は、円安の進行で業績が好転した企業にこれ見よがしに賃上げを求めたり、制度的な担保なしに「子育て支援」や「女性の活躍」を騙ることとは無縁である。その核心は「平等」と「公正」を重視する政治的価値観に基づいた経済・福祉政策なのであって、それはまた「民主主義の礎」である「自由な政治選択」を担保することでもある。つまり経済的利害によって政治選択が左右されないために、「健康で文化的な最低限の生活」を国が保障しなければならないという実にシンプルな民主主義の前提もまた、「公正な再分配」によって担保されなければならないはずなのだ。

▼「福祉国家」批判に迎合した「リベラル」の過誤

 こうした「平等」と「公正」を保障しようとする社会的再分配政策は、少なくとも第二次大戦以降は、「リベラルな政策」として世界中で認知されてきた。だから戦後の日本では「自由主義」と翻訳されてきた「リベラリズム」は、いわゆる「福祉国家」をめざす社会・経済政策を志向する勢力の代名詞とされ、その基本的政策は1930年代の世界恐慌下でアメリカが採用した「ニューディール政策」をモデルにしていた。
 「ニューディール政策」は一般に、国家による財政出動=社会投資による有効需要の拡大を通じて雇用の拡大=失業を減らし、併せて富裕層に対する強度の累進課税などを財源に再分配制度を整備して社会的格差を是正し、格差の拡大がもたらす社会的混乱=労働争議の頻発や社会不安の増大などを克服しようとするものであった。
 たしかにそれ以前には、「リベラリズム=自由主義」が「自由主義的市場主義」と「夜警国家論」に代表される「小さな政府」を意味する時代があったし、今日の「ネオ・リベラリズム=新自由主義」が「市場至上主義」と緊縮財政を旨とする「小さな政府」を掲げるのも、こうした「リベラリズム」の歴史があったからである。
 だがいまや市場至上主義や小さな政府を掲げる新自由主義は「リバタリアニズム」(日本では「自由至上主義」などと訳されるが)と呼ばれ、すでに欧米では保守はリバタリアン、リベラルは福祉国家擁護と見なされ始めている。
 もちろん日本でも、「リベラル」は社会的公正や平等を重視する政治理念を意味してきた。ところが戦後日本の「リベラル」は、第二次大戦でこの国を破滅に追い込んだ「強権的国家」への強い反感ゆえに、「国家が主導する福祉政策」に疑惑の目を向ける「行財政改革」論に幻惑され、財政支出の多くを無駄遣いと決めつける「新自由主義的な福祉国家批判」に対する批判的検証を怠るという間違いを犯したのだ。結果として日本のリベラルは、「行財政改革」と称する大企業主導の「構造改革」キャンペーンの旗振り役へと自ら転じ、「福祉国家」つまり社会保障制度を掘り崩す緊縮財政政策に迎合し、結果としてセーフティーネットの弱体化に手を貸すことになったと言わなければならない。
 民主党の「非主流派」がいまだ大阪維新の橋本イズム」に惹かれつづけるのは、彼らがなお「行財政改革論」の呪縛に囚われ、「構造改革を『自民党以上に』強力に推進できる勢力である」と自認しているからに他ならない。だがひとつはっきりしておきたいが、小泉政権以来の緊縮政策を引き継いだ民主党政権に取って代わった安倍政権は、「機動的財政出動」の名の下に財政赤字に目をつぶって財政支出の増加へと経済政策を転換し、一時的ではあろうとも景気回復を演出して「高い内閣支持率」を実現して見せたとことである。しかもこの財政政策は「災害対策」を口実にした「旧態依然の土建偏重」にもかかわらず、景気回復を歓迎する人々の気分に困惑する「リベラル」勢力は、これを批判的に検証することすら出来なくなっているのだ。
 断言するが、現実の自民党はすでに「福祉国家」を擁護する政党ではない。現に安倍政権は「国家主導の福祉国家」を「戦後日本の精神的堕落の要因」と見なし、だからこそ「戦後レジームの転換」を掲げて安保法制の大転換を強力に進めてきたのではなかったか。
 こうした日本の「リベラル」の過誤と思考停止を象徴するのが、戦後日本のリベラルを代表してきたと自認する「朝日新聞」であり、民主党の「非主流派」であり、緊縮財政政策の失敗を総括として打ち出せない民主党の現執行部なのである。先に述べた民主党の岡田・枝野執行部の「理論的な非力さ」は、こうした政策的誤謬の検証を踏まえた新機軸を打ち出せないからなのだ。

▼「リベラル」の再定義と民主党の「再生」

 安保法廃止をめざす市民団体と運動体が、野党統一候補に「経済政策や福祉政策などで野党が『大枠の方向性』で一致」を求めることは、「行財政改革」と称する大企業主導の「福祉国家」批判に迎合してしまった「リベラル」勢力の誤謬に対して、社会保障制度の充実へと転換することを要求することに他ならない。
 従ってそれは一朝一夕で実現できる事柄ではないし、なお雑多な政治勢力の連合でしかない民主党のような政党に最後通牒的に迫っても、実現できるような事柄でもない。こうした冷静な自覚のもとで野党統一候補に求める「経済政策や福祉政策での大枠での一致」は、理論的には「なし崩し」の批判があるとしても、現実的で実践的な「政策パッケージ」の形をとる以外にはないだろう。
 こうした「政策パッケージ」の基本的な考え方が、前述した「政府の憲法上の責務」という立憲主義を土台にした社会保障システムの再構築であろう。この国の人々の「健康で文化的な生活を送る権利」を擁護する最低限の社会保障システムの構築は、文字通りの意味で立憲主義と民主主義の擁護と不可分である。
 この基本的方向性の上で、「平等で公正な社会」に向けた当面する諸要求が練り上げられなければならないが、その焦点となるのが格差を助長する不平等を禁止する法的規制、例えば正規雇用と非正規雇用、あるいは男性と女性の間に横たわる「不平等待遇」を禁じる「同一労働・同一賃金」原則の保証であり、教育の機会均等を保証する奨学金制度の充実であり、育児を支援する税制の優遇など、総じて民主党政権が掲げた「コンクリートから人へ」の政策に「現実に即した修正」を加えた諸政策を踏襲するのが現実的だと思われる。
 そして最も重要なことは、この「政策パッケージ」を支える政治理念としての「リベラル」を再定義すること、これも例えば井上達夫・東大教授が「リベラリズムの基本的な価値は自由ではなく正義である」というような、リベラルの旧いイメージを転換するような「共通のキーワード」を見出すことだと思うのだ。
 この「リベラル」の再定義と新たな「共通のキーワード」を見出すことが、旧い自民党の旧い政治手法を批判して政権に就いたという「成功体験」を払拭できず、「脆弱な野党第一党」に止まることで人々の期待を裏切りつづけてきた民主党の「再生」は、こうした大衆運動の新たな展開の過程を経てはじめて道筋を見出すことが出来るだろう。

【12月22日:きうち・たかし】


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