●8・30国会包囲デモの歴史的背景


「新しいイニシアチブ」はどう準備されたのか

―「ボランティアからデモへ」の回帰を生んだ3つの契機―

(インターナショナル222号:2015年10月号掲載)


▼ 立憲主義と民主主義の危機

 警視庁の発表でも3万2千人を超える人々が国会正門前を埋め尽くし、正門前からあふれて周辺で抗議する人々も含めれば少なくとも5万〜6万人もの人々が国会を包囲したのは実に半世紀ぶり、そう!あの60年安保闘争以来のことではないだろうか。
 その前哨戦は2012年6月、大飯原発の再稼働に反対する国会前抗議行動に数万人(主催者発表は15万人、警視庁発表は1万7千人)が集まったことであろう。それは「脱原発」を掲げてきた民主党政権が、野田首相のもとでこれをなし崩しにするという「裏切り」に対する危機感をバネにして、脱原発を訴えてきた社会的運動が対政府抗議行動という「政治的闘争」へと飛躍したことを印象づけたからである。
 かくして8・30の国会周辺には、安保法制に反対するという明確な「政治的意思」をもつ数万人の「政治的デモ」が出現したのである。それは安倍首相とそのブレーンたちにとっては、国際的に注目されていた「戦後70年談話」問題を巧みにすり抜け、内閣支持率の低下に歯止めがかかりはじめたまさにそのとき、公明党・創価学会の支持者まで巻き込んだ数万人の抗議行動が国会を包囲したことで、中国と韓国による安倍政権批判をかわして安保法制反対の声の沈静化をも期待していた思惑に反する、「大きな」ではなくとも誤算だったには違いないからだ。
 実際にその後の新聞各紙の世論調査では、安倍の「応援団」たる産経新聞の調査も含めて、安保法制の「今国会での成立に反対」は6割に達したのである。それは違憲と指摘されながら10本もの改正法案を1本分として審議する乱暴さや衆院での強行採決が、安保法制を必要と考える人々の中にさえ「政府は説明責任を果していないのではないのか?」との疑念を抱かせたからでもある。
 はたして安倍政権は、法案成立に向けた国会対策の転換を余儀無くされた。来年の選挙を控えた参院・公明党の安保法制への「反発」に配慮して周到に準備してきた参院審議未了による衆院での再可決の道を放棄し、逆に参院公明党に「踏み絵」を迫る強行採決によって安保法案の成立を図る道への転換である。この転換の背景には、参院公明党の「隠然たる不支持」の放置が法案成立に不可欠な公明党の支持を動揺させ、不測の事態が生じかねないという危機感があった。
 こうして戦後日本の安全保障政策の根本的転換を目論む安保法制は、9月17日の参院特別委員会での強行採決につづき、18日の与野党の攻防をへて19日未明、参院本会議の採決にもちこまれて可決された。

▼ 自民党の変質と長老たちの危機感

 一連の安保関連法案の可決・成立によって、集団的自衛権の行使が可能な法的環境が整備されたことになる。と同時にそれは、この法案の成立に全力で反対してきた私たちにとっては、「アメリカの戦争」に自衛隊が参戦するのを阻止する闘いが新しい課題になったということでもある。そうであればこの新しい課題に立ち向かうために、半世紀ぶりに国会を包囲した数万人の人々の、これまでの左翼的運動とは明らかに違う「新しい主張」がはらむ可能性について考えてみなければならないと思うのだ。
 ただその前に、ひとつだけ確認しておきたいことがある。それは、戦後日本の保守政治を担ってきた自由民主党という政党の「変質」についてである。
 まず何よりも、閣議決定による強引な憲法解釈の変更に始まる一連の安倍政権の動向に対して、党や政府の要職を経験してきた幾人もの元自民党幹部たちが異口同音に批判したのは、それ自身まったく異例のことであった。
 しかもこの自民党長老たちの危惧は、安保法案が抱える危うさに対する警鐘もさることながら、一片の閣議決定で憲法解釈を変更し、あるいは憲法学者の「違憲」の指摘を「憲法学」を平然と否定する言動によって切り捨て、国会審議でも紋切り型答弁に終始して事実上論争を封じる安倍政権の姿勢にこそ向けられていた。それはこの長老たちが、自らの政治家としての矜持でもある「憲政の王道」から大きく逸脱する、言い換えれば戦後日本の保守政治の拠り所でもある「立憲主義」をないがしろにする安部政権と自民党の現状に、強い危機感を抱いたことを示すものであろう。
 ところが当の自民党内からは執行部を批判する声がほとんど上がらないばかりか、この法案に反対する論調や運動に「脅しと札束」で対処しようとする暴言が飛び出すなど、言論弾圧すら辞さない執行部擁護がまかり通る始末であった。自民党長老たちの危機感は単なる思い過しではなく、憂慮すべき現実であることが明らかになった。
 タカ派とハト派を自認する派閥間の抗争と党内の疑似政権交代で戦後日本の保守政治を体現してきた自民党は、国際的には「極右」と見なされる安倍とその取り巻きによる執行部の占拠によって、いまや「極右政党」の様相を呈しているのだ。

    

 ところで、「憲政の王道からの逸脱」といった法治主義や民主主義にかかわる問題は、「戦後日本の自由と民主主義」が、あるいは「立憲主義」が安倍自民党によって蹂躙されているという危機感が安保法制反対運動の広がりを作り出したことを考えるなら、今後の運動の可能性を探るうえで重要な要素になると思われる。
 こうした考察を進めるために、この国の安全保障政策をめぐる攻防の歴史を少しばかり振り返っておきたい。

▼東西冷戦と左翼主導の日米安保反対闘争

 戦後日本の安全保障政策をめぐる攻防は、1950年の朝鮮戦争を転機とする「東西冷戦」の下で展開されてきたが、この歴史的条件は、この国の安保政策をめぐる攻防が常に東西の思想的影響を受けずにはおかない状況を作り出してもきた。そしてこの状況が、「安保政策をめぐる攻防」を「社会主義と資本主義の対立」という「固定された枠組み」に閉じ込め、現実的で柔軟な安保・外交論争の展開を妨げてもきたと言える。
 戦後日本の安保政策をめぐる攻防が広範な人々を巻き込んで展開された1960年の日米安保条約改定反対闘争は、岸内閣による強権的な強行採決に対する「国民的反発」を背景に「民主主義を守れ」のスローガンを掲げながらも、反帝国主義を意味する「反米」の色彩を次第に強めることで左翼イニシアチブを強化することになった。なぜならそこには、中国やソ連など当時の「東側諸国」を含む「全面講和」を求め、西側諸国だけとの講和であるサンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安保条約に反対して「アメリカ帝国主義の戦争と一線を画す」ことを要求する、大衆運動の歴史的連続性があったからである。だが他方ではこの左翼イニシアチブの台頭が、第二次大戦後に改めて世界各国で重視されるようになった立憲主義や法治主義の擁護という、「資本主義と社会主義の対立」とは位相の違う問題を後景に追いやることにもなった。
 こうして保守政党・自民党がすすめる戦後日本の安保政策に反対する言動は「反米・反帝国主義的左翼の言動」というレッテルを貼られ、それとともに「大衆的な安保論争」も次第に姿を消すことになった。そしてあえて大胆に言えば、「護憲」と「平和主義」という戦後日本の反戦平和運動を象徴する理念は、「閉じられた安保論争」の形成過程で後景に追いやられた立憲主義や法治主義の「代替品」として、保守リベラルとも共有できる「国民的スローガン」に押し上げられたと見ることができる。
 ところが実際の安保政策をめぐる「国家レベル」の攻防は、政府つまり国家官僚機構と政権党・自民党内の「タカ派」と「保守リベラル」の攻防へとその舞台を移しただけだったのだ。日米安保の「軍事同盟化」を目指す「タカ派」と、良好な日米関係を重視しつつもアジアとくに中国との良好な関係とのバランスを重視する「ハト派」つまり「保守リベラル」の権力機構内部での攻防は、例えば外務省では「アメリカンスクール」と「チャイナスクール」の派閥抗争へと姿を変えて展開されるのである。
 しかし1990年を前後する東欧諸国社会主義政権の崩壊とソ連邦の解体が、東西冷戦という歴史的条件を消滅させ、それがこの国の安全保障政策をめぐる攻防に大きな変化をもたらした。冷戦終焉直後に現れた「平和の配当」という期待が幻想となる一時期をへて、この国の安全保障をめぐる攻防が「対米従属」と呼ばれる従来方針の継続か、それとも新たな国際関係の再構築、とりわけ「アジアの一員としての日本」の追求かをめぐる攻防へと、本質的には変化したのである。

▼ 新たなイニシアチブを準備した「2つの契機」

 今日の安保法制反対運動でも明らかになった共産党を含む左翼イニシアチブの混迷は、冷戦の終焉という歴史的条件の変化に、この国の「戦後左翼」が十分に対応できなかったことの結果に他ならない。
 したがって護憲ではなく「立憲主義の尊重」が、あるいは反帝国主義や反資本主義を必ずしも意味しない「法治と民主主義の擁護」等々の主張が、国会を包囲する数万人の抗議行動を実現するのに重要な意味を持ちはじめた現実は、「ポスト冷戦」という、もう少し正確に言えば冷戦という対立構造に代わる「新たな国際紛争の時代」に対応する「新たなイニシアチブ」を展望するうえで重要な意味をもつだろう。
 ところがその「新しさ」について「『私』を主語にする個人主義」や「ITを駆使したコミュニケーション」などを強調し、それを「新しいイニシアチブの特徴」であるとする多くの論評には、どうしても違和感を抱かざるを得ない。
 たしかに戦後日本の社会変革をめざす運動の多くは「統一と団結」を唱え、「利己主義を超える連帯」を建前にした「集団行動」を重視し、規律違反や協調性の欠如を厳しく戒めることで「新たな社会的規範」を示そうとしてきたのかもしれない。だが反面ではそこに、この国の近代化の過程で「国家に奉仕する国民」を育成した「滅私奉公」の価値観が密かに受け継がれ、それが「自立的個人」を基礎にした欧米型社会の形成を妨げ、旧態依然の、協調性を強要する「日本的集団主義」を払拭できない原因となっているとの批判が根強くあるのも事実であろう。
 だが「自立的個人」の前提たる欧米的個人主義は、それ自身として公正で民主的な社会をめざす「新しいイニシアチブ」の性格を持ち得るわけではない。それは冷戦後に台頭した「新自由主義」が、富裕層の「個人的自由」を最大限擁護することで経済的格差を全世界で一挙に拡大し、多くの国際紛争の種を撒き散らしたことですでに十分に証明されたとは言えないだろうか。同様に「ITを多用するコミュニケーション」は、その時代に存在する最も効果的なコミュニケーション・ツールを自在に操る世代の台頭、要するに「未来の可能性を体現する若い世代」の台頭を意味するとしても、新たなイニシアチブの内容や性格の特徴とは言えないからだ。
 むしろ「新たなイニシアチブ」の可能性をさぐるために必要なことは、そこに集う人々が掲げる理念や、それを達成するための手段=運動に対する考え方などがどのように準備されてきたのかを検証することだと思うのだ。

 本誌の読者のみなさんは、8・30の大結集が「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行員会」(以下「総がかり実行委」)という、久々に実現した超党派イニシアチブの形成に負うところが大きいことをご存知だろうし、このイニシアチブ装置の連絡先が「戦争をさせない1000人委員会」と「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」、そして「戦争をする国づくりストップ!憲法を守り・いかす共同センター」の3団体になっていることもご承知だろう。しかもこの3団体は社民党系と共産党系という戦後革新勢力と、これとは相対的に自立的な「市民派」の流れを汲んでいることもご存知だろう。
 つまり今「新たなイニシアチブ」として注目される学生団体「SEALDs」(=Students Emergency Action of Liberal Democracy:自由と民主主義のための学生緊急行動)なども、「混迷する左翼イニシアチブ」とは全く無縁な新生事物として現れたのではなく、戦後日本の反戦・平和運動の歴史的伝統をそれなりに継承しつつ、しかし同時に「閉じられた安保論争」の枠組みや「日本的集団主義」とは位相の異なる理念と行動様式を持つことで新たな人々の共感を、とくに若い世代の共感を獲得しつつあると考えるのがより実状に近いと思うのだ。
 ではその「実状」、つまりこの国の戦後反戦・平和運動の伝統を継承しつつ「左翼イニシアチブ」とは位相を異にする理念や行動様式は、いったい何時、どのように生まれたのだろうか? わたしはソ連邦の解体以降、つまり東西冷戦終焉後の「2つの契機」に注目してこの問題を考えてみたいと思う。
 ひとつの契機は、1995年1月の阪神淡路大震災の復興支援活動を通じて全国的に定着することになった「ボランティア」という社会参加の広がりである。「ボランティア」という「社会運動への参加」の新スタイルは、保守政権つまり「西側陣営」の安保政策に「常に反対する」という「左翼イニシアチブ」の下で常態化していた社会・政治運動とは違って、自分たちで何かを成し遂げる、何かを自ら作り上げるという志向性を強くもつ、いわゆる「対案型」社会運動と見なせるからである。
 そしてふたつ目の契機は、ソ連邦の崩壊によって「唯一の覇権国家」となったアメリカが始めた大義なきイラク戦争に反対する運動の中に現れた、左翼イニシアチブの時代には見られなかった「新しい運動スタイル」の登場である。
 まずは「新しい運動スタイル」について振り返ってみたい。

▼ ボランティアからデモへ ― ワールドピースナウのイラク反戦運動

 アメリカによるイラク侵攻が不可避となった02年秋、「総がかり実行委」の一角を占める「市民派」の団体=「許すな!憲法改悪・市民連絡会」と、民主党の衆院議員・辻元清美が初代の代表を務めた社会運動「ピース・ボート」を担う若い世代を中心とした、いわば安保闘争未経験世代で構成される平和運動団体「CHANCE!」が、「ワールドピースナウ」(以下「WPN」)という新たなネットワークを設立した。
 WPNは翌03年4月、代々木公園でイラク戦争に反対する大規模なデモを開催するが、このデモは「戦争反対」ではなく「戦争はいらない」という新フレーズの宣伝用ワッペンを大量に作り、デモではなく「パレード」と自称し、先導車のスピーカーからはシュプレヒコールの代わりにポップ調の音楽とラップが流れる、それまでのデモとは全く違ったスタイルで注目を集めた。ピースボートの共同代表の吉岡達也さんは、「セクト(左翼党派)と市民活動家が集まった古くさいものではなく、もっとかっこいいのをやろう」という発想だったと当時を振り返る(「週刊東洋経済」10/17号)。代々木公園には1万人以上の人々が参加したが、万単位の反戦デモは戦後左翼とりわけ新左翼運動が衰退をはじめた70年代後半以降では久々の「大衆的デモ」だった。
 と同時に同じ03年にニューヨークのウォール街に出現した「オキュパイ・ウォールストリート」という街頭占拠もまた、「新しいデモスタイル」として世界の注目を浴びるのである。国内外の新たなデモスタイルの登場は、アフガンからイラクへと拡大された戦争に反対しようとする若い世代に強い刺激を与えたに違いない。
 8・30に国会を包囲した抗議行動でも「ラップ調のコール」が若い世代の参加者の間ではごく普通に行われていたが、そのスタイルはこの時から始まったと言っていいだろう。そして後述するように、「対決型」の政治運動に背を向けた社会運動での模索から「政治とデモ」へと回帰する動きが、この時から始まったと考えられる。
 「なんか感じ悪いよネ!自民党」など、安保法制反対の国会包囲行動ではあたりまえになったラップ調のコールは、この国の戦後反戦・平和運動の「世代交代」を強く印象づけるだけでなく、内ゲバの応酬で自ら大衆的共感を失った新左翼諸党派の武闘的イニシアチブが、決定的に過去のものとなったことも明らかにしたのである。

 この新しいデモ・スタイルとあわせて注目すべきなのが、8・30デモの参加者と、前述した「ボランティア」との間にある「共通項」である。メディア研究が専門の成蹊大学教授・伊藤昌亮氏は、「ボランティアに参加していた学生たちと今のデモ参加者である学生の雰囲気はまったく同じ」だと指摘し、「見過ごされているが、95〜97年の間に若者の間で新しい社会運動の形が芽生えていたのではないか」と分析しているという(前掲「週刊東洋経済」)。これはいったい、どういうことなのか?

▼「国家の変革」から「社会の救済」へ

 1995年は東西冷戦の終焉後の「平和の配当」への期待が失われ、それに代わる新たな激変と不安を予感させる年になった。
 前年の94年6月には、自民党政治からの脱却を期待された「反自民連立政権」が羽田内閣の総辞職で最終的に崩壊し、代わって自民・社会連立の村山内閣が成立した。しかも9月には社会党が「自衛隊合憲論」を打ち出し、10月には首相となった社会党の村山富市が自衛隊を観閲し、護憲運動の中軸が大きく揺らぎ始めていた。
 明けて95年1月、未曾有の大震災が阪神淡路地方を襲い、3月には地下鉄サリン事件がこの国を震撼させた。2つ事件の衝撃は、微かに残っていたバブル景気再来への期待を完全に吹き飛ばしてしまったのである。
 不安と苛立ちが広がる中で、阪神淡路大震災の復興支援に全国から駆けつけた大量の若いボランティアが「新たな希望」として注目されるのだが、当の若い世代にとっては、「平和の配当」を実現できなかった古い世代と既存の政治に左右を問わぬ幻滅を感じる一方で、現状に不安と反感を抱く同じような若い世代が凄惨なテロと殺人に手を染めて破滅するのを目の当たりにして、「対決型」の社会変革や反政府運動の限界を見せ付けられた思いではなかっただろうか。つまり震災被災地に集まった若いボランティアたちは、自身の人生と生活の意味を自ら見出し、あるいはそれを自らつくり出すために、「まったく新しい」社会運動を模索する以外にない状況に追いやられたのではなかったか。
 実際に2年後つまり97年に、島根県沖でロシア船籍タンカー「ナホトカ号」の重油流出事故が起きると、海岸に打ち寄せる大量の重油を回収する若いボランティアが全国から集まり、以降は、大きな災害が起きるたびに若者たちがボランティアとして集まるようになるのである。ボランティアという社会参加が、「新たな」社会運動を模索する「若い世代の共通の手段」として定着しはじめたのである。そしてこれが、前述した成蹊大の伊藤教授が「95〜97年の間に若者の間で新しい社会運動の形が芽生えていた」と指摘したことであろう。しかしもちろん、ここで若い世代の模索が終わった訳ではない。というよりもこの先が、問題の核心である。
 中でも重要なことは、「被災地を支援するボランティア」という社会参加のスタイルが若い世代の意識を変化させたことであろう。それは単に「対決型」から「対案型」への移行にとどまらず、むしろ「危機に瀕する〃国家〃の解体的再編=革命」ではなく、「危機に瀕する〃社会〃の救済」を志向するように変化しはじめたと思われる。「対峙する国家の変革」ではなく「〃自らが生きる社会〃の救済」への変化と言い換えてもいい。
 さらに、戦後の反戦平和運動を牽引してきた全国イニシアチブ「総評・社会党ブロック」が解体されて久しい当時の若者たちにとって、運動への参加は「個人の判断」に基づく以外にはなかったし、若者を幻滅させた「古い世代」による新しい試みの数々を「信頼に足る新機軸」と見なすことは、当然ながら難しかったに違いない。
 そして「デモ」から身を遠ざけて「ボランティア」という社会参加による模索をつづける状況に転機が訪れたのが、前述したイラク反戦運動であった。

▼ 決定的な契機 ― 3・11大震災と最悪の原発事故

 「ボランティアからデモへの回帰」のメルクマールとなったイラク反戦運動は、前述のとおりである。だがイラク反戦運動から8・30の国会包囲へとデモが新しい広がりを獲得するためには、「もうひとつの転機」が必要だった。そしてこの3つ目の転機となったのが「3・11」の大震災と大津波、そして史上最悪の原発事故であった。
 新しい転機はまたしても巨大災害だったが、「3・11」は巨大な自然災害を超えて、この国全体を破滅に追い込みかねない原発事故が起きたことで、阪神淡路大震災とは明らかに違う「政治的性格」をもつ災害に、つまり「原発推進政策の転換を政府に求める」対政府闘争への飛躍を不可避的に迫る「歴史を画する災害」になったのである。
 「原発を止めろ!」「原発推進を転換せよ!」という全国に満ちあふれる人々の声は、「危機に瀕した社会を救済」しようとする志向性を強めてきた「ボランティア」の若者たちを、改めて国会や首相官邸前の「対政府抗議運動」へと駆り立てることになる。12年6月に大飯原発再稼働に反対して数万の人々が国会前に結集したことを「8・30の前哨戦だった」という冒頭の指摘はこれを意味しているのであり、成蹊大の伊藤教授が「ボランティアに参加していた学生たちと今のデモ参加者である学生の雰囲気はまったく同じ」だと指摘したのも、こうした一連の経緯を考えれば納得がいくだろう。
 03年にイラク反戦運動から始まった「ボランティアからデモへの回帰」は、原発政策の抜本的転換を求めて「政府と対峙する」首相官邸前の大衆行動をへて、8・30国会包囲へとつながる大衆的デモへの流れを決定的にしたのだ。

 最後に、以上のような歴史的経緯を踏まえたうえで、この論考最大のテーマである「新しいイニシアチブ」の可能性について考えてみたい。
 わたしがこの論考で明らかにしたかったのは、「SEALDs」などに象徴される「新たなイニシアチブ」が「ボランティアからデモへの回帰」として準備されてきたという経緯以上に、ボランティアという、90年代後半以降に全国的に定着した社会参加のスタイルが若い世代の「政治・社会意識」を変化させ、その変化こそが「立憲主義の擁護」等々の新たな政治理念の基礎になっていることである。
 わたしはそれを『「対峙する国家の変革」ではなく「自らが生きる社会の救済」への変化』と表現したのだが、それは「SEALDs」などの若い世代が自らを「革新」や「左翼」ではなく「保守」と自認する理由をも明らかにする。つまり彼らが保守を自認することで一線を画そうとする戦後革新と左翼が、本音では「守るべき何物も持たないプロレタリアート」なる理念を堅持しているのとは対照的に、被災地支援ボランティアとして目撃してきたことの多くが、被災した人々が失った家族や地域社会の大切さや切実な思いであった事実と無関係ではない。
 こうしたボランティアとしての経験は、この国の現実がどれほどの差別や格差に覆われていようと、懸命に生きる個々の人々にとっては「守るべき何か」が、どんなに小さくともあるのだという確信となって受け継がれたとしても不思議ではない。むしろそれは極めて健全で真っ当な「社会的政治的意識」と言うべきだろう。
 「個人の判断」に頼る以外になく、だからまた個人を尊重するという、95年以降のボランティア活動を担った若い世代ならではの視点で原発事故を見れば、その被害の深刻さと原発産業で得られる経済的利益は比べようもないのは明らかだし、アメリカの戦争が個々人の「守るべき何か」を無残に破壊することは、すでに十分に明らかである。だとすれば安倍政権の目指す「アメリカの戦争に参戦するための法制」は、彼らがボランティア活動に関わることで目指した「自らが生きる社会の救済」を真っ向から否定し、人々の「守るべき何か」を破壊する「極右勢力」の攻撃以外の何ものでもない。
 その意味では「極右勢力」の攻撃に対抗し、人々の「守るべき何か」を無数に持っている社会つまりは「自らが生きる社会を保守する」理念として立憲主義や民主主義の擁護を旗印にすることは、あまりにも当然なことではないだろうか。
 しかもこうした「保守リベラル」と呼ばれる政治理念は、内村鑑三や田中正造の例を挙げるまでもなく、大正デモクラシーの時代から、共産主義者とも手をたずさえて近代天皇制下の強権的政治と闘いつづけた多くの民主主義者の伝統として、この国にも息づいているのだから。

【2015年10月25日:きうち・たかし】


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