●「軍事的常識」への無知を露呈する安保法制論争

「軍事力」を政治と外交の駒にしたい外務、防衛、内閣府高級官僚たちの蠢動

(インターナショナル第221号:2015年7月号掲載)


▼はぐらかし、あいまい答弁、そして居直り

 自民・公明両与党の強行採決で7月16日に衆議院を通過した「安全保障関連11法案」は、戦後日本の安全保障体制の一大転換を意図したものだが、6月5日の憲法調査会で見解を述べた3人の憲法学者が口をそろえて「憲法違反」と指摘したように、立憲主義という近代民主主義の根幹を脅かす「戦後最悪の法案」と言って過言ではない。
 ところがこの安保法制をめぐる国会論戦のマスコミ報道は、法案に盛り込まれた「安保体制の大転換」と「立憲主義の否定」といった問題を浮き彫りにするでもなく、日米同盟の更なる強化の是非とか中国の軍事的膨張などアジア情勢の変化など、主に政府側答弁に焦点を当ててこれを解説する内容が多く、民主党をはじめとする野党側の論陣もこうした政府答弁に引きずられ、瑣末な問題に捉われがちの観がある。
 もちろんこうした状況を生み出している最大の要因は、「討論拒否」とも言える「はぐらかし」や「曖昧答弁」に終始する安倍政権の対応にあるのは明らかだ。だがそうだとしても、憲法学者の違憲の指摘に「政治家の責任」論を振りまわして反論する閣僚たちの居直りに対して、1935年の「天皇機関説事件」を思い起こさせるくらいの知恵と見識を見せない野党の対応には、やはり愕然とせざるを得ない。
 当時の憲法学の権威であり東京帝国大学の名誉教授だった美濃部達吉が唱える「天皇機関説」を声高に非難する右翼勢力に迎合し、美濃部教授を議員辞職に追い込んだのは、憲法学説の論理的整合性を軽んじた政治家たちだったという史実を指摘することは、自己保身に汲々とする与党議員たちの体たらくを暴き、少なくとも「あいまい答弁」や「はぐらかし」に終始する安倍政権への批判を強める作用はあろう。
 そうした報道と不毛な論戦の典型が「集団的自衛権行使」が容認されるとする各種の想定をめぐる問答だが、それは後に述べることにして、まずは「そもそも何故、いま、安保法制なのか」という問題からはじめたい。

▼「ごった煮」法案提出の背景

 すでにご承知の方もあるだろうが、いま国会で審議されている安保法制は、今年4月の日米外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)で防衛協力のための指針(=ガイドライン)が18年ぶりに改定されたことを受け、これに明示された米軍と自衛隊の協力を可能にするための国内的な法的整備を意図したものである。
 国内法では何の裏づけも規定もない内容にまで踏み込んで他国との軍事協力に合意し、後になってから新法を作り既存の国内法もこれに併せて改正するという手法は、それ自身かなり乱暴な政府の独断専行であろう。しかもたかだか閣僚レベルの合意を「自国民の合意」以上に重視する外交姿勢は、戦後日本のアメリカ追随外交そのものである。しかし同時にこうした手法は安倍政権の「国会軽視」、より正確には説明責任も国会答弁もすべてを形式的な審議時間の消費のために費やし、討論を通じた合意形成などまったく考慮さえしない、国家主義的な政治権力至上主義の本音が示されている。
 この安倍の「政治権力至上主義」は、これに追従して言論統制を平然と公言するような自民党若手議員の台頭も含めて重要な問題ではある。しかしそれを論じるのは別の機会に譲り、ここでは立憲主義や民主主義といった問題に焦点をあててみたい。
 まず何よりも「新ガイドライン」は、これまでとは明らかに次元の異なる、言い換えれば戦後日本の安保政策を「飛躍させる」内容を含んでいることである。
 ひとつは日米安保条約第6条=米軍は「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する」を根拠にして、かなりの拡大解釈をしても「アジア太平洋地域」(97年ガイドライン)までといった限定つきだった地域が、新ガイドラインでは「アジア太平洋地域とこれを越えた地域の安定に寄与」とされ、「極東・アジア太平洋地域」は一挙に「世界中のあらゆる地域」へと無制限に広げられたことである。
 そしてもうひとつの「飛躍」が「日本以外の国に対する武力攻撃への対応」つまり「日本が集団的自衛権を行使する事例」として、
※日本への弾道ミサイル攻撃を警戒する両国艦船を互いに防護、
※機雷掃海を含めシーレーン防衛で協力、
※必要に応じて互いに後方支援を提供、などが合意されたことである。
 つまり18年ぶりに改訂されたガイドラインでは、日米軍事協力の「地域的制約」が無くなり、自己防御(セルフディフェンス)と称する戦闘機や艦艇を含む日米の武器の「相互防護」に加えて、「後方支援の提供」つまり武器・弾薬など戦闘行為に必要な物資の供給も合意されたのである。それは「97年ガイドライン」合意の際にも指摘された「条約改定なき安保条約の内容変更」が、ついには現行憲法の法的枠組みすら無視して大幅に変更されたことを意味している。
 と同時に、これほどの「飛躍的変更」を「関連11法案」とひと括りにして審議・採決をしようとする手法も、「議会多数派の力で全てを押し切る」という安部政権の強い決意の表れであろう。それは裁決後とは言え、特別委員会の浜田委員長さえも「もう少しわかり易くするためにも、法律を10本も束ねたのはいかがなものか」と苦言を呈するほどの拙劣さであった。だがこうした法案提出と採決の強引さは、外務官僚や防衛官僚が安保政策の飛躍的転換を促す新ガイドラインの合意に便乗し、これまでは様々な制約のために「外交の道具」としても「軍事的実績の道具」としても、彼ら官僚が不十分だと考える現行の「国連PKO協力法」や「周辺事態法」などの制約を取り払い、「省益の極大化」を図る新たな法制を作りたいとの思惑で、安倍の後押しをした結果でもある。
 かつて、中国や北朝鮮の軍事的台頭に対応して「周辺事態法」制定を推進し、あるいはイラク戦争に際して、中野広務ら自民党内の強い反対を押し切ってインド洋での給油活動の護衛としてイージス艦派遣を実行したりと、安全保障問題のエキスパートを自認する山崎拓・元自民党政調会長も6月8日に行われた岡田克也・民主党代表との対談で、今回の安保法制を批判して以下のように指摘している。
 「・・・法案の事実上の提出者は外務、防衛、内閣の官僚ですから、あれもこれもと『ごった煮』のメニューを作ってポンと出してきたと思うんです。・・・中心は外務省ですよ。外交のツールとして彼らは自衛隊を使いたい。『長年の悲願だから、この際行こう』ということでしょう」。(http://www.huffingtonpost.jp/)
 まさにこうした「ごった煮」法案であるが故に、国会審議での政府答弁は「はぐらかし」と「あいまい」に終始し、答弁に立つ閣僚自身が11本もの法案の相互関連性を認識できていないのではなにかとさえ思えてくる。しかし法律の規定が曖昧であればあるほど、それは「時の政権が何でも出来る」、つまり時の権力に「安全保障上の自由裁量権を広く認める」ことになるのだ。その意味で「安全保障関連11法案」は、法律と言うよりも「戦争を始めるフリーハンド」を政府に与える法制なのである。

▼「兵站」を「後方支援」とよぶ危うさ

 もちろん今国会で「安保法制」を成立させることに反対する人々は、報道機関や媒体が行ったあらゆる世論調査でも過半数を占め、成立を積極的に支持するのは3割程度にとどまりつづけ、安保法制特別委員会での採決が迫った7月上旬には、8割近い人々が今国会での成立に反対を表明する事態になった。
 その意味では、安保法制に対する「危うさ」や安倍政権の「強引さ」、そして立憲主義と民主主義に関する危機感が人々の中に広まり、それが国会周辺で抗議行動に参加する人々の数を増やし続けてはいる。
 とはいえ安全保障問題の議論で注意しなければならないのは、軍事的側面つまり「軍事という特殊な技術」に関する正確な知識や認識がないことに付け込んだ危機感や恐怖感が煽動され、それが安易な軍事的対抗措置の容認へとつながる危険なのである。
 実際にいま審議中の安保法制でも、軍事に関する人々の無知を利用して「後方支援」やら「人質救出作戦」、「機雷掃海」などの「具体例」が次々と並べられ、それは法律を変えれば直ぐにでも実施できるかのように語られ、あるいは報じられていることに強い違和感と危機感を持たざるを得ない。
 例えば「機雷掃海」はれっきとした戦闘行為である。と言うのも、敵艦船の自由な航行を妨げる目的で敷設した機雷が除去されれば、敵艦船の航行妨害という軍事目的が達成できなくなる以上、掃海作業は明らかな敵対的戦闘行為なのである。そうである以上、掃海作戦中の掃海艇や自衛官は敵の攻撃を受ける可能性があり、その危険度つまり「攻撃を受けるリスクの確率」は、敵の攻撃能力次第となる。敵のミサイルや戦闘機、小型艦艇など、自衛隊の掃海艇を攻撃できる装備が攻撃可能な行動圏内に配置されていれば「敵の攻撃に対する備え」つまり「直ちに反撃できる防御体制」は必要不可欠となり、それは実際には「戦闘」と一体である。
 安倍政権が具体的に想定しているのは、機雷掃海作戦をイージス艦によって護衛するといったことだろうが、高性能レーダーで空海の敵の接近をいち早く探知し、電子制御された集中砲火を浴びせて「敵の攻撃を事前に排除」しようとするイージス艦による「反撃」は、敵の攻撃以前に反撃するという意味でも、戦闘行為である掃海作業を自衛隊の側から始めたという意味でも絶対に「専守防衛」ではあり得ないし、正当防衛として許容されるといわれる自衛隊の「反撃」の範疇も大きく超えるのは明らかである。そして他方では「攻撃を事前に排除」する以外の方法では、イージス艦が掃海艇を護衛する任務は達成しようもない。
 これが「軍事的常識」なのだが、それが正確に認識された議論は、あるいはそこで現実となる自衛隊の「先制攻撃」と言った問題は、国会ではまったく行われていないのだ。
 あるいは「後方支援」も、「戦闘地域である前線」とは区別された「後方」のイメージを強調する答弁や報道があふれている。しかし「後方支援」とは軍事的には兵站(へいたん)以外の何ものでもないし、その主要な任務が補給つまり前線への弾薬や食料の供給である以上、敵にとっては重要な攻撃対象にほかならない。実際にイラク戦争では米軍の兵站を担うトラックの車列は繰り返し攻撃され、遠隔操作で爆発する道端の爆弾攻撃などによって多くの人的損害が生じたのは周知の事実である。
 しかもこの議論では、現行のPKO法やイラク復興支援法にもとづく「復興支援」つまり「非戦闘地域での戦災復興支援」活動と、前線への補給を担う兵站である「後方支援」を意図的に混同するかのような質問や答弁がまかり通り、「後方」があたかも「非戦闘地域」であるかのような印象操作も行われている。それは前述の「機雷掃海」が、戦闘行為ではないような印象操作にもあい通じている。
 軍事という特殊な技術に関するこうした「危うい議論」は、実を言えば安保法制の議論以前に、例のイスラム国による日本人人質事件のときにすでに現れていた。自衛隊による人質救出作戦の可能性を問われた安倍政権は、まるでそれは可能であるかのように答え、それを実施できるように検討するそぶりさえ見せたのだ。
 これに強く反発したのは、自衛隊の「準機関紙」でもある防衛専門紙『朝雲』であった。2月12日付けの同紙「朝雲寸言」は、「国会質問を聞いていると、陸上自衛隊の能力を強化し、現行を改正すれば、人質救出作戦は可能であるかのような内容だ。国民に誤解を与える無責任な質問と言っていい」と国会論議を強く批判、その理由として人質救出に失敗した米軍の例をあげ、「米軍はイスラム国の通信を傍受し、ハッキングもしていたに違いない。さらに地元の協力者を確保し、方言を含めて中東の言語を自在に操れる工作員も潜入させていたはずだ。もちろん人質を救出するためであれば、米軍の武力行使に制限はない。それでも失敗した」と指摘したのである。
 2004年4月のイラクでの邦人人質事件の際、アメリカ政府から「邦人誘拐の危険がある」との情報提供を受け、警視庁、公安調査庁、内閣情報調査室の三者による合同対策チーム設置が検討されながら「アラビア語に堪能な人材が居ない」との理由で立ち消えとなり、結局は事件に不意を打たれた苦い教訓さえ活かせない日本政府のインテリジェンス活動では、人質救出に向かう自衛官は、文字通りの意味で敵の待ち伏せ攻撃を覚悟しなければならないことになる。『朝雲』紙の不信は、まさにそこに向けられている。

▼「制服を着た労働者」=自衛官にツケを回すな

 要するに、この程度の軍事に関する知識や認識しかない輩が、「中東からの石油運搬の停滞は国家存立の危機だ」と叫び、あるいは他国の部隊を援護する集団的自衛権行使は合憲だと声高に主張し、まったく論理的整合性を持たない論議でこの国の安全保障体制を根本的に転換させようと大声を張り上げる事態は、無謀とか暴走というよりも、「無知を頼りの目隠し突撃」とでも行った方が的を得ている。
 実際に「中東の石油」がこの国の「存立基盤」を脅かす戦略物資だと言うなら、ロシアに多くのエネルギーを依存するEU諸国が、その依存度を低下させて自前のエネルギー源を確保しようと、風力や太陽光など「再生可能エネルギー」への転換を懸命に推進している事実を少しは見習うべきではないのか?
 あるいは東南アジア周辺海域での中国の軍事的台頭が、この国にとって本当に「重要影響事態」だとするなら、高価で数も少ないイージス艦をアメリカの要求どおり中東など遠隔地に派遣する余裕などあるのだろうか? それともこの借金漬けの中でも、高価で金食い虫の防衛装備の増強だけは「聖域化」されるのだろうか? だがそれは防衛省の高級軍事官僚が差配する権益を肥大化するだけではないだろうか?
 だがそれでも最大の問題は、「目隠し突撃」を強いられるは声高に軍事的対応力の強化を叫ぶ軍事に無知な自民党や公明党の国会議員ではなく、現役の若き自衛官たち、つまり普通に親や兄弟のある、あるいは結婚して子どもの成長を楽しみにする、制服を着てはいるが月々の給与を生活の糧とする「労働者」だと言うことだ。
 防衛省の高級官僚は、外務官僚とグルになって「省益の極大化」に利益を見出し、退職後の天下り先となる軍需産業と誼(よしみ)を通じることができるだろう。だが戦場という現場で身の危険を冒して任務を遂行しようとする自衛官は、こうした蓄財や社交界とは無縁であるだけでなく常に「戦死」の危険と隣り合わせになる。
 そしてここが「軍事的常識」の最も肝心な点なのだが、ひとたび始まってしまった戦闘は、双方に必ず人的損害を生み出さずにはおかないということだ。どちらか一方だけが人的損害を被るなどということは絶対にあり得ない。
 「一将功なりて万骨枯る」というこの国に古くから伝わる諺(ことわざ)が、惨憺たる敗戦の経験を引き継いだ「戦後70年」という平和な時代を経て、虚栄を追い求める高級官僚たちの野望によって蘇ろうとしている。

  (2015年7月20日:きうち・たかし)


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