微力な活動の集合が軍拡政策への「抑止力」
(インターナショナル第219号:2014年10月号掲載)
8月6日、広島平和記念式典をテレビで観た。
雨の中の式典は43年ぶりだという。
43年前の1971年の平和記念式典を覚えている。初めて日本国首相が式典に出席した。首相は佐藤栄作。ベトナム戦争が激化していく中で日米安保体制が強化されている。沖縄は「復帰」直前。
首相の挨拶の番になると、会場にいた被爆2世の青年たちが抗議のために駆け寄ろうとして逮捕された。その団体ではないが会場にいた友人も思わず同調して駆け出して逮捕されてしまった。
詩人の栗原貞子さんは「広島の人々にとって平和と言う言葉は、ひりひり痛みをともなった感覚的な言葉である。」と語っている。
首相の言動は、多くの広島市民の思いとはかけ離れている。
栗原さんは翌年に『ヒロシマというとき』を発表する。
〈ヒロシマ〉 というとき
〈ああ ヒロシマ〉 と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉 といえば 〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉 といえば 〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉 といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉 といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉 といえば
〈ああ ヒロシマ〉 とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉 といえば
〈ああヒロシマ〉 と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉 といえば
〈ああヒロシマ〉 と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない
今年の安倍首相の言動も多くの広島市民の思いとはかけ離れている。
市長の「平和宣言」、子どもたちの「平和の誓い」、被爆者たちとの交流での要請をどんな思いで聞いていたのか。スケジュール消化でしかないようだ。
8月6日に広島市長が読み上げる「平和宣言」は、市長が学者らの意見を聞いて書き上げる。そのなかに被爆者から募集した「被爆体験談や平和への思い」を盛り込む。
「建物疎開作業で被爆し亡くなった少年少女は約6,000人。当時12歳の中学生は、『今も戦争、原爆の傷跡は私の心と体に残っています。同級生のほとんどが即死。生きたくても生きられなかった同級生を思い、自分だけが生き残った申し訳なさで張り裂けそうになります。』と語ります。辛うじて生き延びた被爆者も、今なお深刻な心身の傷に苦しんでいます。
『水を下さい。』瀕死の声が脳裏から消えないという当時15歳の中学生。建物疎開作業で被爆し、顔は焼けただれ、大きく腫れ上がり、眉毛(まゆげ)や睫毛(まつげ)は焼け、制服は熱線でぼろぼろとなった下級生の懇願に、『重傷者に水をやると死ぬぞ。』と止められ、『耳をふさぐ思いで水を飲ませなかったのです。死ぬと分かっていれば存分に飲ませてあげられたのに。』と悔やみ続けています。」
これらが被爆者の想い。
そして「平和宣言」は続く。
「今年4月、NPDI(軍縮・不拡散イニシアティブ)広島外相会合は『広島宣言』で世界の為政者に広島・長崎訪問を呼び掛けました。その声に応え、オバマ大統領をはじめ核保有国の為政者の皆さんは、早期に被爆地を訪れ、自ら被爆の実相を確かめてください。そうすれば、必ず、核兵器は決して存在してはならない「絶対悪」であると確信できます。その『絶対悪』による非人道的な脅しで国を守ることを止め、信頼と対話による新たな安全保障の仕組みづくりに全力で取り組んでください。」
しかし安倍首相が出席し、各国の代表も参列している中で、ふたたび「過ちを繰り返そうとする」集団的自衛権の行使容認についは触れなかった。
広島市長に続いてこども代表2人によって「平和への誓い」が読み上げられた。
「平和への誓い」は、毎年、広島市教育委員会が主催する作文コンクールに入選した20人が話し合って作成し、代表2人が代読する。
「わたしたちは、信(しん)じることができませんでした。
69年前の8月6日、この広島(ひろしま)に原子爆弾(ばくだん)が落(お)とされ、多くの尊(とうと)い命(いのち)が奪(うば)われたことを。……
広島に育(そだ)つわたしたちは、広島の被害(ひがい)、悲(かな)しみ、そして、強さを学びました。
爆風により、多くの建物(たてもの)がくずれました。家や家族(かぞく)を失(うしな)い、ふつうの生活がなくなりました。
その中で、水道は1日も止まることなく、市内電車は、3日後には再(ふたた)び走りはじめました。
広島は人々の努力(どりょく)によって、町も心も復興(ふっこう)したのです。
悲しみや苦(くる)しみの中で、生きることへの希望(きぼう)を見つけ、生き抜(ぬ) いた人々に感謝(かんしゃ)します。
当たり前であることが、平和(へいわ)なのだと気がつきました。……
Welcome to Hiroshima.
みなさんをここ広島で待(ま)っています。
平和について、これからについて共(とも)に語り合い、話し合いましょう。
たくさんの違(ちが)う考えが平和への大きな力となることを信じて。」
被爆体験を聞き、勉強するなかから強さを学んだという。
「ふつうの生活がなくなりました。その中で、水道は1日も止まることなく、市内電車は、3日後には再び走りはじめました。」と語る。
広島の水道は1人の技手(ぎて)の奮闘で浄水場から給水が止まることはなかった。負傷しながらも使命感と職人の技能発揮があった。
その後も水道管の破裂、漏水などへの対応など悪戦苦闘は続き、復興は思うように進まなかった。しかし水道課職員は「水がのうては市民は生活ができん。食料をはじめ諸物資が不足している折から、……。せめて水だけでも充分市民に飲んでもらおうじゃないか。」という思いを共有して作業を続けた。
広島電鉄の当時の在籍従業員数は1.241人、当日の出勤者は約950人。このうち死亡者は221人、負傷者は289人におよんだ。123車両を保有し、8時15分は70両が走っていた。しかし原爆で22両が全焼したのをはじめ108車両が被害を受け、完全に動けたのは3台だけだった。原爆で一瞬のうちに広島市街の中心部は、いたるところに鉄骨だけになった電車の残骸が横たわってた。
しかし会社は6日のうちに電車を走らすという決定を行う。社会の治安を維持し、都市の復興を促進するためには、先ず交通運輸の再建を急がなければならないという信念のもとでだった。
そして9日、己斐と西天満間で単線1.4キロの折り返し運転が開始される。窓ガラスが吹き飛んだ車輌からの出発の合図「チンチン」という鐘の音は曠野に響き、がれきを片付ける人たちが振り向いた。走る姿は市民に勇気を与えたと今も語り継がれている。お金のない人から電車賃はもらわなかった。
水道、市内電車だけでなく、鉄道、通信、病院、報道、市役所などでの労働者の奮闘が復興を速めた。
その奮闘を子どもたちは知り、感謝している。そして同じことを繰り返さないと誓っている。
8月9日に長崎市長が読み上げる「平和宣言」は、市長を委員長に学識経験者や平和運動の代表、被爆者ら14人が参加する「平和宣言文起草委員会」が練り上げる。だから市民の意見が反映されている。
「……今も世界には1万6千発以上の核弾頭が存在します。核兵器の恐ろしさを身をもって知る被爆者は、核兵器は二度と使われてはならない、と必死で警鐘を鳴らし続けてきました。広島、長崎の原爆以降、戦争で核兵器が使われなかったのは、被爆者の存在とその声があったからです。……
核兵器の恐怖は決して過去の広島、長崎だけのものではありません。まさに世界がかかえる“今と未来の問題”なのです。
こうした核兵器の非人道性に着目する国々の間で、核兵器禁止条約などの検討に向けた動きが始まっています。……
いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、『平和国家』としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。
長崎は『ノーモア・ナガサキ』とともに、『ノーモア・ウォー』と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた『戦争をしない』という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。」
続いて被爆者代表が「平和への誓い」を読み上げた。昨年12月に遺族会メンバーから依頼されたという。
全文を紹介する。
「1945年6月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
8月9日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
『空襲警報よ!』『今日は山までいかんば!』緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。
爆心地から2.4キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。
しかし敵機は来ず、『空襲警報解除!』の声で多くの市民や子どもたちは『今のうちー』と防空壕を飛び出しました。
そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが『みやちゃーん、あそぼー』と外から呼びました。
その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。
外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。
原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。
今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。
被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。
しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。
今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。
日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。
いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。
日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。」
「日本国憲法を踏みにじる暴挙」のくだりは、事前に書いた原稿では「武力で国民の平和を作ると言っていませんか」だった。来賓席に座る安倍晋三首相ら政治家たちの姿が目に入ったのがきっかけで読み上げる直前に差し替えを決意したという。「日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか」と問いかけたのは原稿にはないアドリブだったという。
長崎の式典はラジオで聞いていた。
被爆者代表が「平和への誓い」を読み上げたあと、アナウンサーは「世界各国の代表は何しにきているのでしょうか」と口走ってしまった。おそらく予定原稿では「世界各国の代表はどのような思いで聞いたでしょうか」と書いてあったのだと思われる。しかし核保有国の代表の姿を見た時、被爆者代表と同じ思いでつい本音が出てしまったのだろう。本当は「安倍首相はなにしに来たんだ」という思いがあったのだろう。
長崎の思いと実際に安倍首相や世界でおこなわれている政策には大きなかい離があり、縮まる様相はない。
一方、安倍首相のあいさつは昨年の「コピペ」だった。
あいさつを聞いたあと、ふと思い出すフレーズがあった。
「死に損ない」。
今年5月27日に「長崎の証言の会」の77歳の事務局長が、横浜市立の中学3年生を案内して爆心地近くを回っていた時に生徒から浴びせられた。
安倍首相も“迷惑な”存在の被爆者に同じ思いを抱いているようにしか受け止められない。
長崎の平和祈念式典では歌が3曲うたわれる。その中の『千羽鶴』は千葉県の高校生が作詞した歌を地元の高校生がうたう。
平和への誓い新たに
緋の色の鶴を折る
清らかな心のままに
白い鶴折りたたみ
わきあがる熱き思いを
赤色の鶴に折る
平和への祈りは深く
紫の鶴を折る
野の果てに埋もれし人に
黄色い鶴を折りたたみ
水底に沈みし人に
青色の鶴を折る
平和への願いを込めて
緑なる鶴を折る
地球より重い生命よ
藍の鶴折りたたみ
未来への希望と夢を
桃色の鶴に折る
戦争と、広島・長崎を体験して平和を希求する人たちが対峙している。残念ながら平和を希求する勢力が推されている。
しかし長崎市長が読み上げた「平和宣言」は呼びかける。
「長崎では、若い世代が、核兵器について自分たちで考え、議論し、新しい活動を始めています。大学生たちは海外にネットワークを広げ始めました。高校生たちが国連に届けた核兵器廃絶を求める署名の数は、すでに100万人を超えました。
その高校生たちの合言葉『微力だけど無力じゃない』は、1人ひとりの人々の集まりである市民社会こそがもっとも大きな力の源泉だ、ということを私たちに思い起こさせてくれます。」
微力な活動の集合がこれまでも、そしてこれからも軍事力強化政策への「抑止力」となる。
広島、長崎はそのことを改めて確信させる。
(いしだ・けい)