●朝日新聞の慰安婦記事取り消し騒動

ねらいは河野・村山両談話の無効化

― 国際社会に通用しない狭義「強制性」の有無 ―

(インターナショナル第219号:2014年10月号掲載)


▼慰安婦問題は「虚構」なのか?

 朝日新聞は8月5、6日の両日、32年も前に掲載した「従軍慰安婦」問題の記事に関する検証記事を掲げ、日本軍と日本官憲が朝鮮人女性を暴力的に徴集して慰安婦にしたという「吉田証言」について、再取材や新たな史料研究などを取材した結果虚偽と判断し、「吉田証言」に依拠した同記事の取り消しを表明した。
 この朝日の記事取り消しに対して、産経新聞と読売新聞そして日本の保守的論壇を代表する雑誌は一斉に「大誤報記事の取り消し」として朝日非難を展開し、まるで鬼の首でも取ったかのようなはしゃぎぶりである。さらにこの朝日非難に鼓舞されてか、ネット上にも「大誤報で肩身の狭い思いをした在外邦人」らによる「朝日叩き」が氾濫し、現在の日韓関係険悪化のすべての責任は「朝日の誤報」にあったがごとき論調が跋扈し、今年3月、オバマ大統領の仲介によってハーグで行われた米日韓首脳会談以降、日韓関係改善を模索してきた動きにも少なからぬ悪影響が出ることも懸念されはじめている。
 もちろん朝日新聞の記事取り消しが遅きに失したのは明らかだし、今回掲載された検証記事も、「吉田証言」を鵜呑みにして裏づけ取材をしなかった問題や、その後も再取材や検証を行ってこなかったのは何故か等々、誤報の経緯や再発防止策が十分に明らかにされているとは言えない。なによりも90年代後半には、「吉田証言」を裏付ける史料が無いことは日韓近代史の研究者たちの間では確認されていたにもかかわらず、その後も朝日新聞が自らその検証を行ってこなかった事実は、有力なマスメディアの対応としては厳しく批判されて当然だろう。
 だが一方で、「吉田証言」なる一個人の証言が虚偽だったことが明らかになったからと言って、日韓両国のいまや最大の懸案と言っても過言ではない「慰安婦」問題が、全くの虚構であるかのように世論を煽り立てることは、日本の保守論壇の見識とくに国際関係におけるそれに強い疑念を抱かせる、まさに自滅行為と言うほかはない。
 なぜなら日本軍将兵の性欲処理施設としてアジア各地に「軍当局の要請」(河野談話)によって「慰安所」が設置され、そのために多くのアジア人女性が「慰安婦」として徴集されたことも、さらにその「慰安婦」たちは、「総じて本人たちの意思に反して」(河野談話)徴集されたことも、「河野談話」で日本政府も認めざるを得なかったように否定しようのない事実だからである。
 そしてこの河野談話に明記された「慰安婦」に関わる歴史的事実は、今年6月に韓国や中国の強い抗議を押し切って強行された「河野談話の検証作業」によっても、後述のように覆されることはなかったのである。
 ところが「吉田証言」取り消しで朝日新聞を攻撃する保守論壇は、狭義の「強制連行」の文言ばかりに焦点をあて、そうすることで「慰安婦」たちがあたかも自発的な売春婦であったかごとき印象を作り出し、だから日本の政府も軍も「慰安婦問題」には責任がないという「虚構」を人々に信じ込ませようとしているのだ。
 それは結局、韓国と中国の反日感情の火に油を注ぎ、対日強硬姿勢を自らの権力基盤の強化に利用しようとする韓国・朴政権と中国・習政権に格好の「外交カード」を与え、ついにはこの国の国際的信認を著しく傷つけるに違いない。

▼狭義「強制性」の有無は瑣末な問題だ

 ますはじめに指摘しておきたいことは、いわゆる「国際社会」が「慰安婦問題」で、被害にあった韓国・朝鮮そして中国の女性たちに日本政府が謝罪すべきだとしているのは、その徴集方法が、「吉田証言」にある「暴力的な強制連行だったから」ではないということである。より正確に言えば、女性たちの徴集に際して直接的な暴力的強制があったかた否かは、文字通り瑣末な問題でしかないのだ。
 その典型は、2007年に議会で「従軍慰安婦問題で対日謝罪要求決議」(米下院121号決議)を採択したアメリカである。
 保守論壇の論客たちはこの米下院決議は、今回取り消された「吉田証言」に基づく朝日新聞の記事をよりどころにしてマイク・ホンダ議員が決議案を提出したのだから「朝日新聞の誤報の責任は重大」と非難する。だが「下院121決議」や1996年の国連「クワラスミ報告」が当時の朝日の記事に依拠していたとしても、今日のアメリカ世論は「自分の娘がそういう立場に置かれたらどう考えるか」が「慰安婦」問題を考える場合の機軸になっているのであり、「『甘言をもって』つまり『騙されて』連れてこられた人とトラックにぶち込まれた人と、【結果的には】どこが違うのかという立場に収斂している」(東郷和彦元外務省欧亜局長)からである。
 アメリカの有力紙が朝日の誤報取り消し問題をほとんど報じないのは、朝日新聞が「海外にきちんと発信していない」からなのではなく、慰安婦問題における「狭義の強制性」の有無は問題の本質とは関係がないと、多数のアメリカ人が考えているからなのだ。要するに甘言や誘惑つまり「騙して」徴集しようが暴力的に拉致しようが、本人の意思に反して売春を強要した以上、それは重大な人権侵害であり「人道に対する罪」以外のなにものでもないというのが今日のアメリカ世論なのだ。
 しかも日本軍の「直接的関与」(これも狭義の「直接性」が問題なのではない)を証明する史料がないとはいえ、軍による移送の便宜供与や建設資材の提供なしに戦闘地域の近傍に「慰安所」を開設することは現実問題として不可能である以上、「軍の関与」もまた明白であり、それは当時の政府の責任でもあると考えてもいる。そしてこれこそが、保守論客たちが耳を塞いで聴こうとしない「国際社会の常識」なのだ。
 ついでに言えば、6月の「検証作業」でも覆ることのなかった「河野談話」も、おそらく当時も自民党内にあった「軍の関与」を認めることに対する強い抵抗に配慮しつつも、旧日本軍の関与を明確に認めて以下のように明記した。
 「慰安所は、当時の軍当局の要請により、設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに官憲等が直接これに加担したことが明らかになった」云々と。
 実際に、慰安所開設に対する日本軍の関与を示す史料は数多く存在している。例えば北支那方面軍参謀長・岡部直三郎中将は、1938年6月27日付けで「成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整」えるように各部隊に指示していたし、業者の選定、徴集する女性の人数の決定、その移送、慰安所の使用規定・料金の決定、慰安所の監督・統制、建物・資材・物資の提供も日本軍が行っていたことを示す日本軍・日本政府の文書・記録も発見されていた(以上『月刊世界』9月号113頁)のである。
 これだけの「明白な証拠史料」にもかかわらず、「大東亜戦争」期間中にアジア各地に設置された「日本軍将兵を相手にした慰安所」に日本軍も日本政府も関与しておらず、慰安婦たちも「みな自発的な売春婦」であったと強弁するこの国の保守論壇を覆う論調は、韓国と中国のみならず、欧米を含む「国際社会」からも強い対日批判を呼び起こす以外にはない。それはこの国の外交や国際的影響力にとって、文字通り「百害あって一利なし」の自滅的愚行と言うべきであろう。

 ▼「日本の伝統文化」に照らして「恥知らず」な責任逃れ

 ところで、いま保守論壇が大騒ぎしている「朝日たたき」は、前節でも引用した「河野談話」見直しの画策が頓挫したことを受けた、次なる新たな右翼的攻勢の意図を感じてしまうのは私だけではないだろう。
 つまり今回の「朝日たたき」は、「河野談話」や1995年に村山政権が公表した「村山談話」を政府の公式見解としては否定し、「大東亜戦争」を「聖戦」とする歴史観を政府の公式の立場にしようとする策謀が頓挫したとは言え、安倍首相と彼の「皇国史観」復興志向を支持する右翼論客の本当の狙いがなお「河野談話」と「村山談話」の無効化にあり、「朝日たたき」を契機に、改めて「河野談話」「村山談話」を無きものにしようとする画策を始めたとも考えるべきかもしれないのだ。
 と言うのも、6月20日に「河野談話作成過程等に関する検討チーム」が「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯――河野談話作成からアジア女性基金まで」(以下「報告」と記す)と題した報告を公表したが、その内容は、河野談話を「外圧(韓国政府の圧力)で歪められた」として否定できる「証拠」を見つけることが出来ず、結果として河野談話の見直し、つまり談話を否定する口実を見つけられないことを自認する、その限りでは彼らにとって不本意な内容とならざるを得なかったと言えよう。
 しかし他方でこの「報告」は、機密解除されていない日韓の外交記録を文字通り一方的に、検討チームの都合と恣意的選択によって詳細に公開したことで外交的相互信頼を大きく傷つけて今後の日韓交渉に禍根を残し、あるいは河野談話の内容とは直接関係のない「いわゆる『強制連行』は確認できなかった」との文言を繰り返して例の「狭義の強制性」の否定を強調する、かなり問題の多い内容を含んでもいる。
 そして今、「朝日たたき」として展開される「狭義の強制性の否定」に論点を絞った右翼的言説は、彼らが「狭義の強制性」の証拠は無いとする論点を突破口にして、先に引用した河野談話にある「強圧」や「加担」などの文言削除を画策する、いわば右翼が仕掛けた前哨戦の可能性を警戒する必要はあると思うのだ。
 もちろん慰安婦問題に限らず、「先の大戦の悲惨な被害を政治的に利用すべきではない」ことは論を待たない。だが見解に相違のある二国間の懸案の解決に必要な「政治的行動」つまり加害責任を「国際社会の多数が確認できる事実に基づいて」認め、被害者に対する真摯な謝罪やそれに見合う具体的行動は取らずに、加害者側が被害者側に「政治的利用は慎むべきだ」と言うのは、悪質な居直りと見られて当然だ。
 否こうした居直りは、それこそ安倍首相や右翼論客たちが好んで称揚する「日本の伝統文化」に照らすと「恥知らず」と呼ばれる行為に他なるまい。強権を背景に、本人の意思に反して「か弱い女性」を売春婦に仕立て上げ、あげくにその責任に頬かむりを決め込んで「やつらは勝手に売春婦になったのだ」「売春宿(慰安所)は、民間業者が勝手につくったのだ」と言い張る輩は、どこからどう見ても「恥知らず」以外ではあるまい。
 現在の右翼論客たちの論理は、文字通りの意味でこうしたものなのだ。いったい日本の保守論壇はいつからこんな「恥知らず」たちの跳梁跋扈を許すまでに堕落したのか、文芸春秋社や読売新聞社は、こうした右翼的論調で損なわれるこの国の「国際的信認」をどうやって埋め合わせることができると言うのだろうか。

▼被害者との和解以外の「解決」はない

 必要なことは、先の対戦中に日本政府と日本軍とによって被害を被った人々との「禍根を断つような和解」を追求することであり、それ以外に、右翼論客たちの言う「自虐史観と謝罪外交」に終止符を打つことはできないことを確認することである。
 そう!右翼論客が非難して止まない「謝罪外交」は、歴代の日本政府が「禍根を断つような被害者との和解」を追求しなかった「不作為の違法」がもたらした歴史的ツケなのであって、安倍政権下で画策された「慰安婦問題での責任逃れ」もまた、今後に長い「謝罪外交」というツケをもたらすことになるだけなのだ。
 そうした意味では河野談話とアジア女性基金による「見舞金」の支給という慰安婦問題「解決」の試みは、「禍根を断つ和解」を目指した画期的挑戦だったのであり、だからまた右翼論客にとっては看過しがたい試みでもあったのだ。これが今回、河野談話が本当の意味で標的とされた理由でもある。
 だが河野談話とアジア女性基金の試みは、台湾や東南アジアでは一定の成果があったとは言え、肝心の韓国・朝鮮と中国の被害者との間では禍根を断ち切る和解にまでは至らなかった。これが今回の談話見直しと「朝日たたき」の背景である。なぜなら、右翼論客から見れば「行き過ぎた譲歩と妥協」でしかない河野談話とアジア女性基金をしてなお「禍根を断つ」こととができなかったのは、韓国と中国が「慰安婦問題」を「政治的に利用しているからだ」と言う彼らの主張を裏付けるからだし、保守論壇もまたそうした思いを共有しているのであろう。だがここにこそ、保守論壇が右翼論客たちの「恥知らず」な論調の跋扈を許すスキが生まれたのだ。
 もちろん韓国側の市民運動にも問題が無かったとは言わない。だが河野談話とアジア女性基金の最も大きな欠陥は、談話では日本政府の責任を認めながら基金の大半は民間の寄付に依存し、日本政府は資金の一部しか負担しなかったことにあった。本来は日本政府が認めた戦争被害に対して支払われるべき「賠償金」が、民間資金に依拠した「見舞金」に変貌したことに不信をいだく被害者の感情は、冷静に考えれば異様なものではない。
 しかし、日本国内の激しい抵抗を押し切って河野談話とアジア女性基金を実施した当事者たち(その中心にいたのが石原官房副長官なのだが)にすれば、「日本の善意が踏みにじられた」との思いがあるのも理解は出来る。だがそうした「個人的感情」を不用意に吐露して右翼論客たちに「河野談話」の見直しなる議論の口実を与えるのは、政治家としての矜持に欠ける以上に自らの仕事を落とし込めかねない不用意な言説と言う他はない。そして事実それは、日韓関係の更なる険悪化の口実として利用されたのである。
 「現実的な解決策」は、結局のところ「被害女性たちとの和解」に尽きるのだ。それ以外には、どんな言説も「慰安婦問題」を日韓・日中両国の懸案であることから解放しないだろう。しかも、被害女性たちの年齢は一刻の猶予も許さないレベルに達しつつあり、被害女性「本人」たちとの和解が達成されなければ、この問題は世代を超えた、しかも解決のより困難な懸案として存在し続けることになるだろう。

【9月25日:ふじき・れい】


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