憲法9条は「人を殺さなくていい」と謳っている

 

 

(インターナショナル第215号:2013年8月号掲載)


 

福島地裁郡山支部で元裁判員が、証拠調べで殺害現場や被害者の遺体のカラー写真を見せられて体調を崩して急性ストレス障害と診断された、その後もフラッシュバックや不眠などが続いて治療中ということで損害賠償訴訟を起こした。死刑の結論も重荷になったのかもしれないという。

裁判員は突然選ばれて隔離された場所で、誰にも相談することなく被告の生活を左右する判断、時には生死を決定する判断を迫られる。どんな判断に至ってもストレスを感じないということはない。

裁判官もそうで、死刑判決は慎重な判断が必要だからということだけで合議制になっているのではない。1人ひとりの裁判官が自分だけの判断ではないと逃げ道を作れるためでもある。地裁の裁判官は、被告に控訴してくれ、そうすると自分たちの責任が小さくなると期待するという。また、死刑判決を決定したのは国の法律や制度であり自分ではない、自分は裁判官として職務を履行しただけだと納得させる。

裁判官のストレスは、それぞれが独立して存在し、守秘義務があるといっても夜の裁判所という密室は酒場と化し、そこでお互いに思いを吐くことができる。

このようにして国家の名のもとに人が人を殺す行為の“共同共謀”に加担する。

しかし裁判員は守秘義務があり、ストレスを1人で抱える。今回の例がまさしくそうである。

 

S・L・A・マーシャルは第二次世界大戦中、太平洋戦域の米国陸軍所属の歴史学者で、彼の下に歴史学者のチームがあり、面接調査に基づく研究を行っていた。その成果を『発砲しない兵士たち』で発表した。

米国陸軍に勤務し、陸軍士官学校教授などを歴任した心理学・軍事社会学専攻のデーヴ・グロスマンは、著書『戦争における「人殺し」の心理学』(筑摩書房)のなかでマーシャルの『発砲しない兵士たち』を引用している。

「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた。そのせいで自分の生命に危険が及ぶとわかっていてもである。これはなぜだろうか。そしてまた、これがあらゆる時代に見られる現象であるとすれば、そこにははっきり気付いた人間がなぜひとりもいなかったのであろうか。」

「マーシャルはこう書いている。『平穏な防衛地区に移されると心底ほっとしたのをよく憶えている。……ここなら安全だからというより、これでしばらくは人を殺さなくてすむと思うと、じつにありがたい気持ちになるのだ』。マーシャルの表現を借りれば、第一次大戦の兵士の哲学は『見逃してやれ、こんどやっつけよう』だった。」

 

兵士のストレスが最初に取り上げられたのは、アメリカの南北戦争の帰還兵と市民に戦争という外傷体験によって心身に異常が発生するこがみられたことからだといわれている。

第一次世界大戦の塹壕戦でイギリス軍兵士に「戦争神経症」や「シェル(砲弾)・ショック」と呼ばれる症状が表れ、精神科医は対策を取った。

「1914年にはじまる第一次大戦は、それまでの戦争にはなかった膨大な数の死傷者を生み出した。『総力戦』という言葉がはじめて使われたことからもわかるように、前線兵士のみならず、一般市民にも食糧不足などの深刻な影響が及んだ。また、当初は簡単に終結すると思われていた戦闘は、長期の塹壕戦となって前線兵士に心身の消耗を強要した。銃砲や戦車、潜水艦、飛行機などの新しい兵器が次々に登場したことで、『砲弾ショック』などの新用語が生まれ、また世界初の毒ガスの使用は新たな恐怖と心理的ショックをもたらした。

4年余りに及んだ戦闘が終わったのちには、『戦争神経症』(「戦争ヒステリー」)という新しい名の後遺症が残され、その治療が精神医学の世界で大きな問題になったのである。」(小俣和一郎著『ドイツ精神病理学の戦後史』」)

 

『戦争における「人殺し」の心理学』によると、戦場で敵に遭遇した兵士の行為は、「闘争」「逃避」「威嚇」「降伏」の4つのパターンからなる。

敵に遭遇した時、最初に取る行為は「威嚇」。実害のない「威嚇」で撃退できなかった場合に「闘争」「逃避」「降伏」の選択肢になる。奇襲攻撃の作戦以外では、お互いが生き残る方法を選択する。

マーシャルの調査では、第二次世界大戦中、平均的な兵士たちは敵との遭遇戦に際して、火戦に並ぶ兵士100人のうち、平均して15人から20人しか「自分の武器を使っていなかった」。しかもその割合は、「戦闘が1日中続こうが、2日3日と続こうが」常に一定だった。

「リチャード・ゲイブリエルはこう述べている。『今世紀に入ってからアメリカ兵が戦ってきた戦争では、精神的戦闘犠牲者になる確率、つまり軍隊生活のストレスが原因で一定期間心身の衰退経験する確率は、敵の銃火によって殺される確率よりつねに高かった』。」

「イスラエルの軍事心理学者ベン・シャリットは、戦闘を経験した直後のイスラエル軍兵士を対象に、なにがいちばん恐ろしかったか質問した。予想していたのは、『死ぬこと』あるいは『負傷して戦場を離れること』という答えだった。ところが驚いたことに、身体的な苦痛や死への恐怖はさほどではなくて、『ほかの人間を死なせること』という答えの比重が高かったのである。」

ごく普通の人間は、なにを犠牲にしても人を殺すのだけは避けようとする。

 

マーシャルの報告は、アメリカでは評価されず、公表されることはなかった。しかしその事実に対する対策は進められ、「反射的な早打ちの訓練」などが行われた。その結果、ベトナム戦争での発砲率は90%から95%に昇ったという。

しかしもう1つの「結果」が生まれた。

「ベトナムで何がおきたのか。40万から150万ともいわれるベトナム帰還兵が、悲惨的な戦争のすえにPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいるのはなぜなのか。いったい、アメリカは兵士に何をしてしまったのか。」

戦闘の近代化は兵士が戦場・現場に赴くことなく、遠方の安全地帯からの機械操作で画面を見ながら行われる。しかしその安全地帯で機械を操作する兵士も体調を崩している。ベトナム戦争帰還兵から、イラク、アフガン戦争の帰還兵からもたくさんの自殺者が出ている。

米軍が米兵を殺害している。

 

裁判員制度に反対している人たちが挙げる理由の1つに、国から裁判員の呼び出しが届いたら断れない、現代の『赤紙』(召集令状)だというのがある。“人を裁く”ことを強制され、しかも死刑宣告をしなければならない場合もある。

裁判員制度の賛否はさておくとしても、継続させるならまず死刑制度を廃止すべきである。

「人が人を殺すこと」は誰にもできない。させてはならない。巻き込んではいけない。

犯行事実が刑法の構成要件に該当するかどうか、判例に照らし合わせたらどうかなどという作業に裁判員を参加させるのは裁判制度改革の目くらましでしかない。

裁判員はまさしく兵士と同じ心情に至る。「国家的暴力」を強制されたらストレスが生じるのは当たり前。だれでも『他の人間を死なせること』は嫌。

 

 

今、憲法を変えようとする為政者たちは、戦地に行くことのない階層で、軍事と軍事産業を経済成長に取り込んで栄華を謳歌しようとしている。だから侵略に備えて最低限の防衛体制が必要などと言いながら、格差社会の「負け組」に追いやられた人びとには自己責任を強制し、自殺者や餓死者が発生している状況にも積極的に対策を取ろうとしない。貧困な政策が貧困を作り出している。人の命を軽んじている。人を殺している。

戦争という行為は、敵も味方も心身を長期に破壊する。しかも今も続いている戦後補償訴訟のように、後方部隊、第三者も巻き込んで破壊する。

 

憲法9条の戦争放棄は「人を殺さなくていい」ことを謳っている。人がいちばん嫌なことをしなくていいと言っている。理想ではなく当たり前のことを確認している。

その保証があるから人びとは物事をポジティブに発想できる。変える必要はない。

(7/16 いしだ・けい)


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