●第46回総選挙の結果と展望


予想通りの民主大敗と得票を減らした自民の「圧勝」


― 日本政治の混迷が持続する本当の理由(わけ) ―

(インターナショナル211号:2012年12月号掲載)


▼2000万有権者に見放された野田民主党

 12月16日に投開票が行われた第46回総選挙は、大方の予測どおり民主党が「壊滅的」と言われる大敗を喫し、対する自民党が大勝して念願の「政権奪還」を果たした。こうした選挙結果は、2009年夏の選挙で政権交代をはたした民主党が、その寄せられた期待に比して政党としての力量がまったく不十分だった結果だと言う他はない。
 実際に政権交代後の民主党は、政策目標を実現すべく運営しなければならない国家機構に関してあまりにも無知だったし、諸政策の実行に関してはあまりに硬直的かつ拙速だったし、さらに合意形成能力の未熟さに至っては、繰り返された党の分裂と大量の離党者という現実が物語るとおりである。
 結果として今回の総選挙は、いわば「民主党バッシッグ選挙」となることはすでに誰の目にも明白だったし、だからまた2009年総選挙とは真逆の現象が、つまり自民党と公明党が大勝することもほぼ確実であった。前回との違いはただ、維新の会と未来の党に象徴される「第三極」を目指す勢力がどの程度善戦するのかという点だけだったと言っても過言ではないだろう。
 選挙総括を述べる前に、すでにご承知ではあろうが各党の獲得議席数を確認しておきたい。第1党の自民党は294議席(△176増)で議席占有率は61.02%、比較第2党の民主党は57議席(▼173減)で同11・8%、第3党の維新の会は54議席(△43増)で同11・2%、以下、公明党は31議席(△10増)で同6・45%、みんなの党は18議席(△10増)で同3・7%、未来の党が9議席(▼52減)で同1・8%、共産党が8議席(▼1減)で同1・6%、社民党は2議席(▼3減)で同0・41%、国民新党が1議席(▼1減)で同0・2%、新党大地も1議席(▼2減)で同0・2%となり、新党改革と新党日本が候補者を擁立したものの議席獲得には至らず、その他5議席が無所属候補によって占められた。
 あえて煩わしさを冒して「議席占有率」を記載したのは比較第1党つまり今回の選挙では自民党が、その得票率に比べて多くの議席を占めることができる小選挙区制ならではの問題点を、「得票率と得票数」の比較によって示したいからである。
 その「得票率と得票数」を前回、つまり民主党が圧勝して政権交代が現実になった09年総選挙と、民主党が大敗を喫した今回の選挙とで比較してみよう。
 自民党は前回の小選挙区での得票率38・68%(約2730万票)を43・0%(約2564万票)へと4・32P(=ポイント:以下同)増やし、比例区でも26・73%(約1881万票)から27・6%(約1662万票)と0・9P増加させた。他方大敗を喫した民主党は、前回の小選挙区での得票率47・43%(約3347万票)を22・8%(1359万票)へと24・6Pも減らし、比例区の得票率も42・41%(約2984万票)から15・9%(962万票)へと26・5Pも減らしている。
 得票率の20P以上の落ち込みもさることながら、民主党が小選挙区と比例区でそれぞれ2000万票づつ得票数を減らしたことが、データからは一目瞭然である。この内の半数1000万票は、いわゆる「第三極」の維新の会や未来の党、そして改選前の8議席から18議席へと躍進したみんなの党へと「流出」したと思われる。ちなみに維新と未来が小選挙区で得た得票数は993万票(維新=694万票、未来=299万票)、比例区では1568万票(維新=1226万票、未来=342万票)であり、みんなの党は小選挙区と比例区でそれぞれ前回比220万票(61・5万票⇒280万票)と224万票(300万票⇒524万票)を上積みしている。
 そして民主党が失った残り1000万票は、史上最悪を記録した低投票率によって失われた票であろう。投票日当日の有権者総数は1億395万9866人と前回比1万424人の微増だったから、投票率が小選挙区と比例区で9・96P(小選挙区が69・28%⇒59・32%、比例区が69・27%⇒59・31%)低下したということは、小選挙区、比例区共に1000万票余りが棄権に廻ったと考えて差し支えないだろう。そしてこの棄権票の大半が、前回は民主党を支持して幻滅したが、かといって自民党政権にも期待できないという無党派層の棄権票と考えて的外れではないだろう。その意味で史上最悪の低投票率は、文字通り政党不信と政治不信★n★
 こうして民主党は、いやより正確に言えば自民党政権打倒「だけ」を目標に政治理念を度外視して民主党に集った松下政経塾出身者を中心とした主流派が、当初の民主党が掲げていた「中道左派」的な政策よりも新自由主義的な市場経済と供給側(サプライサイド)優遇政策を信奉し、小泉−竹中ばりの「構造改革」を標榜して彼ら自身政権・野田内閣を成立させ、まさにその政権が消費税率引き上げと自公両党との協調を達成した結果として、2000万人の有権者に見放されたと言う他はない。
 
▼得票数を純減させた自民党の「圧勝」

 ところで賢明なる読者のみなさんはすでにお気づきだろうが、300議席に迫る「圧勝」で政権奪還を果たした自民党が、実は歴史的敗北を喫して下野せざるを得なかった前回選挙と比べてさえ、その得票数を減らしているのもまた選挙結果の大きな特徴なのである。前述の「得票率と得票数」で示した通り、自民党は小選挙区では前回比166万票、比例区では219万票も「得票数」を減らしているのだ。
 たしかに自民党得票数の純減は、「歴史的な低投票率」による減少分が含まれているし、民主党が失った2000万票に比べれば減ったのはほんの十分の一程度に過ぎない。だが歴史的大敗を喫して下野した前回選挙よりも「少ない得票数」で政権に復帰した自民党は、政権党としてどれほどの正統性を得たと言えるだろうか。
 もちろん代議制民主主義という間接民主主義のシステムの下では、得票数をより多く減らした民主党に代わって、最も多い得票を得た政党が政権を担うというルールを決めて対処をする以外にはないだろう。だがアメリカ大統領選挙の勝者が、選挙人の獲得数では優っても総得票数で対立候補に及ばなかった場合、例えば2000年の大統領選挙で僅差ながら得票数では民主党のゴア候補を下回ったブッシュ大統領が、「国民の負託が不十分な勝者」として謙虚な政権運営を求められたように、政権を失った選挙の得票よりも少ない得票で政権に返り咲いた自民党に対して、議席差ほどには有権者の支持が無い事実を指摘し、だからまた選挙での「圧勝」に奢ることなくより柔軟な政権運営を進言するような論調が、ひとつくらいは現れて当然ではないだろうか。
 しかし現実は、総選挙の「圧勝」と政権奪回に有頂天になりわが世の春の再来を謳歌するがごとき自民党が、得票数の純減に現れた「民意」など全く意に介することなく、ほとんど無謀としか言いようのない「超金融緩和策」とか、赤字国債の代わりに建設国債で政府債務を拡大するだけの「国土強靭化政策」など、何の反省もなく旧来型の景気対策を乱発し、結果として新たな、そしてより深刻な危機と動揺とを日本の政治と経済にもたらす可能性が高まりつつあると言わざるを得ない。
そしてあえて言えば、この「隠れた民意」と安倍政権とが鋭く対立する最初の焦点は、おそらく原発の再稼動をめぐる攻防―原発の安全性に関する原子力規制委員会の地質学的見解に対する不当な政治的介入との攻防―になる可能性が強い。だがそうした事態そのものが、小選挙区制の欠点について意図的に目を塞ぎ、「本当の民意」と選挙結果との乖離に思いを馳せることのできないマスメディアの現状を含めて、日本政治の劣化が招いた現実であることをすべての有権者が自覚する必要は絶対にある。

▼「第三極」めぐる驚騒曲と政治分解の予兆

 ところで、民主・自民の二大政党が政権を争った今回の選挙のもう一つの焦点は、報道では異常なまでに注目された「第三極」と呼ばれた諸勢力の、今後の行く末を含めた評価であろう。結論から言えば、「反民主・非自民」のスタンスが「民意」であると錯覚したマスメディアによる「過剰な応援」にもかかわらず、維新の会は期待されたほどの躍進を果たせず、もうひとつの「第三極」と見なされながら、維新の会とは比較にならないほど「過剰な応援」とは無縁だった未来の党は、改選前の61議席から9議席に後退する惨敗を喫し、結局「第三極驚騒曲」は空騒ぎに終わったと言って良いだろう。
 それと同時に、「反民主・非自民」イコール「第三極」とするような乱暴なマスメディア的分類は、この国の「政治的劣化」の象徴でもある。なぜなら政党政治の根幹と言っても過言ではない各党の「政治理念」や「政治哲学」を問い、まさにその点で各党の政治傾向や政策的特徴を論ずるのではなく、良く言えば「小気味よい」が主観的決め付けと論争相手をやり込める言説や、非現実的な大言壮語ばかりをこれ見よがしに取り上げる報道の氾濫は、政治を「政局」としてだけ、つまり権力をめぐる政治家たちの駆け引きや合従連衡の抗争劇という一面化した見方しかできないマスメディアの、政治報道に関する退化と幼稚化を暴いて余りあると思えてならないからである。
 例えば維新の会と未来の党の、ほとんど正反対の政治理念や政策体系を吟味することもなく、「汚れた旧い自民党」という過日の幻影と対決する「清廉なタカ派」を装う老若の雑多な勢力である維新の会と、小沢の「国民の生活が第一」が合流した「日本未来の党」を所属議員の顔ぶれと選挙公約だけで比較し、未来の党は「小沢=汚れた旧い自民党」が合流した「総選挙目当ての野合」であるかのように印象付ける一方で、維新の会代表の石原前東京都知事と代表代行である橋下大阪市長の、事あるごとに露呈する基本的見解の相違を報じながら「野合」との批判を自ら封じた報道は、ステロタイプ化された「反民主・非自民」=第三極なる構図が、「マスメディアによる創作」以外の何モノでもないことを物語ってはいないだろうか。
 しかし現実には、時期的には遅きに失した感は拭えないが、嘉田・滋賀県知事が呼びかけ、脱原発、反TPP、消費税率引き上げ反対など幾つかに絞り込んだ政策的一致を前提に発足した未来の党が、現局面では民主党とも自民党とも明確な一線を画した、もっとも第三極らしい対案を掲げた勢力ではなかっただろうか。
 そして逆に日本維新の会は、原発政策にしろTPP交渉参加問題にしろ、果ては首班指名の考え方まで石原と橋下の見解が食い違い、だからまた選挙直後から組織分裂の噂が駆け巡る有様である。だから維新の会をさんざん持て囃してきたサンケイ新聞などは、12月23日付のMSN産経ニュースに《分裂で「54」の戦略的意義を捨てるな、維新よ!》と題する論評を掲げ、内閣不信任案を提出できる「54議席の重み」を考えて軽率な分裂は回避すべきだと、助言やら説得やらに追われる羽目に陥るのだ。
 周知のように日本維新の会は、橋下の率いる「大阪維新の会」と、石原前東京都知事が平沼赳夫の率いる「たちあがれ日本」と共に結成した「太陽の党」が合流して結成されたのだが、この両者には「強いリーダーによるトップダウン政治」を標榜して「清廉なタカ派」を装うという共通項を除けば、政治理念や政策においてほとんど何の共通項も持たない、その意味では総選挙目当ての「究極の野合勢力」であることは、多少とも政治に興味を持つ人々にとっては明白だったはずなのだ。
 では何故マスメディアは、そんな「究極の野合勢力」を民主党や自民党に代わる「新しい選択肢」であるかのように喧伝したのだろうか。その理由こそが「政治を政局としてしか見ることができない」結果なのである。そしてもちろん政治を政局として、つまり権力をめぐる駆け引きや合従連衡としてしか評価・分析できないマスメディアの現実は、この国の政治が長く倦(う)んでいることと無関係ではない。

▼日本の政治はなぜ混迷を抜け出せないのか

 日本の経済的好況がつづいていれば説明できた経済や社会の様々な現象が、90年代初頭にバブル景気が破裂すると同じ論理では説明できなくなり、さらにグローバリゼーションの進展が旧来的な、つまり自民党的な政治的言説と政策体系の陳腐化を大いに促進することになった。しかもそれは自民党政治の旧態依然を露呈させただけでなく、経済や社会の混迷を克服する政策や対策を提唱・実践する政治のあり方を衰退させ、それと共に政治の要諦が「政策とそれを裏打ちする理念」とで成り立っていることや、政治的抗争の背後にある政治的信念や思想の持つ力を忘れさせ、代わって誰が政権を取るかという俗人的政局観ばかりが幅をきかす「政治の劣化」を進展させもした。
 つまり好調な経済と手を携えてきた戦後日本の政治は、まさにその経済的低迷と軌を一にして混迷の度を深め、低迷する経済の立て直しという期待に応えられないばかりか、政治の持つ可能性に対する深刻な疑惑さえ生み出したのである。言い換えれば戦後日本の政治は、長く経済的成功を担保してきた、だが今ではすっかり旧くなってしまった日本の経済構造にどっぷりと浸りきり、これを刷新もしくは再編する展望を見い出せずに奈落の淵をさまよい続けていると言えるだろう。
 では日本政治の混迷を再生産しつづける、「今ではすっかり旧くなってしまった日本の経済構造」とは何か? 簡単に言えばそれは「自動車と家電を基幹産業と位置づけた輸出立国の産業構造」に他ならない。多少乱暴な言い方をすれば、この「旧い経済構造」の維持と擁護を主眼とした基本的政策体系の抜本的転換が問われているのであり、逆に「旧い経済構造」への固執こそが日本政治の混迷を持続させていると言って過言ではない。
 現実に今、日本的基幹産業は中国などアジアの新興諸国との価格競争を強いられ、それが日本のデフレ経済を深化・持続させる大きな要因となっており、その打開策として新自由主義的政策が推進されたこともあったが、日本経済はなおデフレを克服できていない。だがグローバリゼーションの進展で同様の条件下にあるはずの欧米諸国では、日本ほどデフレ圧力が強くないという厳然たる事実があるのだ。
 この違いは、日本的基幹産業が「良いものを安価で」生産・供給する事業戦略に固執しているのに対して、アメリカでは「アイポッド」や「スマートホン」に象徴されるような「新しいものを高価で」供給する新分野の事業が景気を牽引し、欧州では新興諸国製品と差別化できるブランドを確立し、高級乗用車やファッション製品に象徴される「ユニークなものを高価で」供給する事業モデルが景気を牽引している。両者に共通するのは新興諸国との価格競争、とりわけ賃金の切り下げ競争に巻き込まれなかったことである。
 さらに長引く日本のデフレ経済は「通貨高」つまり「円高」を誘うことになる。なぜなら年1%のデフレが10年続けば、10年後の100万円の現在価値は110万円と1・1倍になるからだ。欧米で経済的混乱が拡大すると円高が加速するのは、「デフレ経済の日本に資金を避難させておけば安心」との見方が成り立つからである。しかもこの円高が日本的基幹産業の収益を圧迫し、これに対応しようと輸出産業は部品単価の引き下げや賃金を引き下げ、それがまたデフレを進行させるという、典型的なデフレスパイラルの悪循環に陥っているのが現在の日本経済なのだ。
 つまり振興諸国との「価格競争に固執して」賃下げや部品単価の引き下げを行ってデフレを助長しておきながら、他方では円高対策を政府に要求するといった日本的基幹産業の行動は、それこそ「今ではすっかり旧くなってしまった日本の経済構造」から脱却できない日系多国籍企業の「究極の甘え」、あるいは事業戦略の転換すら出来ない「三流企業のおねだり」と非難されるべき愚行と言う他はない。
 こうした現実を直視したうえで日本政治の現状を省みると、とりわけ経済政策に関して安倍自民党が現状を打開できる可能性は、残念ながらほとんどない。そして新自由主義的経済政策を信奉する勢力が主流派である限り、民主党もまたこの日本経済の現状を転換することが出来るはずもない。

 今日の日本政治に必要なことは、戦後日本の「成功体験」を対象化してこの国の大きな未来像を構想し、それに沿って旧い産業構造の転換を図ると同時に、これに伴って変化せざるを得ない経済と社会構造に対応する新たな社会的再分配システムやセーフティーネットを再構築するプランを練り上げることなのである。
 したがって「政権の行方」にとって最も重視されるべきなのは、この大きな未来像をイメージさせることのできる政策体系の提唱なのであり、その意味では「脱原発」という政策課題は「旧い産業構造」の転換を孕む選択肢たりうるし、反TPPもまた「地産地消」と言った地域経済活性化策の評価や可能性をめぐる論点たりうるであろう。未来の党が、「もっとも第三極らしい対案を掲げた勢力」と評した所以である。
 そして何よりも重要なことは、こうした論点や政治論議は政治を政局として見るのとは違って、世代を超えて継承される政治理念や政治哲学を重要な要素として含んでおり、この政治理念や政治哲学の質と水準こそが政治家の質と水準を左右し、だからまた政治全体の質と水準を決定づけることになると言うことである。
 いずれにしろこうした「政治的劣化」からの脱却は、今後数回の国政選挙を通じて徐々にしか進展はしないだろうが、今回の総選挙は、政権を置き換えるだけでは現状は好転しないのだという苦い教訓と共に、すべての政党を貫く政治分解と合従連衡を通じた本格的な政治再編の始まりを予想させるものとなったことだけは確かである。

(12月25日:きうち・たかし)


日本topへ hptopへ