●民主党の分裂と民自公3党合意の破綻

破産した「二大政党制」と「連立時代」の課題

―― 人間の生存に不可欠な「穏健で保守的な要求」のために ――

(インターナショナル第209号:2012年9月号掲載)


▼首相問責決議の「隠れた威力」

 9月8日の会期末まで10日となった8月29日夜、参議院本会議は、「新党・国民の生活が第一」(いわゆる小沢新党)など7会派が共同提出した野田首相に対する問責決議案を、自民党を含む賛成129の多数で可決した。
 「社会保障と税の一体改革」関連法案に関する民主・自民・公明3党の合意が成立した6月15日から2ヶ月半、この合意にもとづいて消費税引き上げ法案が参院本会議で可決・成立した8月10日からはわずか20日、与党・民主党内の反対や懸念を押し切ってでも野党・自民党との連携で「決められない政治からの脱却」を標榜してきた野田内閣は、その自民党が「早期解散」の一点で7会派決議に同調、これによって3党合意が事実上破綻したことで新たな混迷と危機に直面することになったのである。
 もちろん参院の問責決議は、衆院の不信任決議とは違って内閣総辞職か衆院解散を首相に義務付けるものではない。しかしそれでも政権にとって大きなダメージとなることは、同様に問責決議を付きつけられた福田首相(08年6月)と麻生首相(09年7月)が、ほどなく退陣や解散に追い込まれたことでも明らかである。
 しかし今回の問責決議には、これとは比較できない「隠れた威力」が潜んでいる。それは「衆院の不信任決議の予行演習」という性格もさることながら、小沢・元民主党代表のイニシアチブで提出された7会派の決議案に、渋々ではあれ自民党が同調せざるを得なかったこと、言い換えれば自民党にとっては究極の自己矛盾もしくは「自己否定」に他ならない「3党合意を厳しく批判する問責決議案」への賛成が、おそらくは小沢の「ヨミどおり」に実現したからである。
 小沢が民主党に見切りをつけて新党の結成に踏み切ったとき、これに同調する議員が51人に達するか否かに注目が集まったのは、内閣不信任案を提出できる条件を満たすか否かが関心を集めていたからである。7月11日に結成された小沢新党はこの条件を満たせなかったのだが、すでに民主党を離党した「新党・きずな」と統一会派をくみ、社民党と協力関係を確認した時点で、この条件はクリアされているのだ。
 その小沢が、3党合意への反発を強める参院諸会派に「問責決議案の共同提案」を持ちかけ、これを梃子に、前回総選挙での落選議員を中心とする党内の早期解散要求圧力にさらされる自民党・谷垣執行部の動揺に付け込み、結局は7会派問責決議に同調させるという「小沢の思惑」が実現されたのだとすれば、衆院での不信任決議案の可決が、急に現実味を帯びるのも当然であろう。
 しかもこうした小沢の思惑は、かつての小沢の盟友でもある民主党最高顧問・藤井裕久や、自民党側から3党合意を推進した元幹事長・伊吹文明らには充分に予測されていたことでもあった。前者は、7月下旬に野田首相に直接苦言を呈するほどの強い警戒感をいだきつつ、後者はなんとしても野田を解散へ追い込むべく、解散・総選挙の確約が取れない場合は「小沢と組むことも辞さない」覚悟を秘めて・・・・。
 だが野田自身には、そうした警戒感が希薄だった。と言う以上に3党合意が成立して以降は、「あわよくば長期政権・・・」などと夢想にふけっていた可能性がある。そうでなければ、母校・早稲田大学の講演(7月22日)で「経済再生も政治改革も、行政改革もやる」などと大見得を切るはずはない。この3つの課題を「やる」ことは、総ての懸案に取り組む長期政権でなければ不可能だからである。

▼「政権交代可能な二大政党制」の破産

 以上のような政局的分析にもとづけは、衆院の解散・総選挙の時期は、野田民主党と谷垣自民党の駆け引きに小沢新党と諸会派の思惑が加わることで、一段と不鮮明になったと言える。前原・民主党政調会長が「特例公債法案(赤字国債法案)と選挙制度改革(0増5減法案)、そして2012年度補正予算を成立させて(国民の)信を問わせていただきたい」と述べ、他方で石原・自民党幹事長が「首相の念頭にあるのは10月だと思う」と語って10月解散・11月投票に誘導しようとした民主・自民両党の思惑は、3党合意の破綻と小沢新党の思わぬ威力の誇示で、すっかり霞んでしまったのだ。
 と同時により肝心なことは、「民主党と自民党が第1党を競う」という二大政党制を前提にした選挙シナリオも、問責決議案を共同で提出した参院7会派に「大阪維新の会」を加えた「第3極勢力」が民主・自民の二大政党を脅かす可能性を含めて、にわかに不確実性を増しはじめたのである。

 ここではっきりと確認しておくべきことは、二大政党を前提にした選挙シナリオが不確実性を増し、民主党が空中分解する可能性すらある事態は、「政権交代可能な二大政党制」なるモデルに収斂された国家再編・政治再編の実験が、長い時間と莫大な費用をつぎ込んだ挙句の果てに大失敗に帰した、と言うことである。小選挙区制が導入された94年から数えれば18年、旧民主党が結成された96年から数えても16年もの時を経て、「政治改革」と称した一連の選挙制度の変更による国家・社会再編の試みは、最終的に破産したと言うべきだろう。
 かくして小選挙区制の導入で二大政党制を作り出し、その二大政党が政権獲得をめぐって政策を競い合う「活力ある議会制民主主義」といった想定は、「政治主導」や「脱官僚依存」を掲げて挫折した鳩山、菅両政権と、この両政権の挫折を反省した野田政権が、「官僚機構とのランデブー」による「政治と利権の現状維持」へと転換・退却したことで、完全に雲散霧消してしまったのである。
 そればかりか野田政権は、「効率と利便性」ばかりを追及した現代日本の社会経済システムの脆弱性が、3・11の大震災で徹底的に暴かれてなお、「家電と自動車に特化した輸出立国モデル」の見直しすら語ろうとしない。むしろ野田は財務官僚や経産官僚による「現状維持のアドバイス」のままに、諾々と原発の再稼動や輸出を推進し、あるいはTPP(環太平洋経済連携協定)への参加に固執することで、政権交代への幻滅ばかりか政治に対する大衆的不信に拍車をかけている。
 しかし同時に、この一連の「脱官僚依存」路線の挫折の過程は、政権交代だけを目的にした雑多な勢力の寄せ集めである民主党の限界を暴いただけでなく、この国の政治権力がいまなお国家官僚機構の強力な統制下にあって、選挙による政権交代だけでは、言い換えれば三権分立が建前でしかないこの国で「国権の最高機関」とされる国会の多数派を握るだけでは、旧態依然たる行政と制度を変えるような政治戦略の転換を図ることは、極めて困難である現実を明らかにしたのである。
 それは政権交代後の民主党の敗北と失敗とがひとり民主党の野合的性格や経験不足に起因するだけでなく、十重二十重に張り巡らされた国家官僚機構と巨大企業を支配する私的官僚機構のインフォーマルネットワークが、法律だ慣例だと称して既得権益を守る長大な防壁を構築し、議会多数派の上意下達ではビクともしない強固な社会的基盤の上に立っている事実を、官僚主義を批判してきた私たちもまた漠然としか認識してこなかったことに気付かされる過程でもあったのだ。
 こうして今や「政権交代可能な二大政党制」なる政治改革モデルの破産は、誰の目にも明らかとなった。より正確に言えば、選挙制度を替える「政治改革」は、「包括政党」というヌエのごとき摩訶不思議な政党(もちろん自民党のことだが)を分解させることは出来たとしても、大局的な政策的収斂を促進して対抗的政治理念を掲げる二大政党を作ることなど出来はしないしことが明らかになったのだ。
 そうであれば、「政治改革」と称する選挙制度の変更では、今日の資本主義・日本が直面する閉塞状況を打開するような、文字通り戦略的展望をめぐる政治論争を呼び起こすことなど不可能であろう。
 いま必要なことは選挙制度を云々する以上に、いわゆる「失われた10年」と呼ばれた「経済成長の終焉」の局面で解体された旧い「合意形成システム」に代わる、より民主的で透明性の高い「合意形成システム」の模索なのである。「確立された二大理念」すなわち二大政党制は模索の過程には不向きな体制であるだけでなく、むしろ多様な理念の自由な検証を妨げる可能性の方が強いのだ。
 
 ▼社会を変えた「穏健で保守的な要求」
 
 ところで政治改革が声高に語られ始めた1980年代後半は「金ピカの80年代」の絶頂期だが、このときすでに、農村と都市の中小事業者を主要な支持基盤とする自民党的な合意形成システムは、大きな試練に直面していた。
 実態経済を超える投機の横行と金融投機が醸成するバブル景気の陰で、農村の過疎化と中小事業者の事業閉鎖が、必ずしも貧困や倒産によってではなく後継者難や消費構造の急速な変化(伝統的な日用品の消滅や素材の転換など)によって増えはじめ、後に「無党派」と呼ばれる「支持政党無し」層が、都市を中心に急増し始めていたからである。たしかに「政治改革」の口実はリクルート事件や金丸事件など金権政治批判だったが、その本質的な必要は「新たな合意形成システムの再構築」だったのである。
 実際に、その後の「政治改革」の過程と軌を一にして進展したのは、総評労働運動(労組官僚機構と呼んでも良いが)に依存した合意形成システムを基盤とする社会党や、国鉄や郵政の「親方・日の丸」と呼ばれたコネと身内主義の「合意形成システム」が次々と槍玉に挙げられ、国鉄の分割・民営化を頂点とする「行財政改革」が、それまでの労資協調を超える「労資一体化」構造、より正確には資本の一元的支配構造を生み出し、ついには多様な人々の多様な抵抗や不満を無理やり「二大政党」の枠に押し込もうとする小選挙区制の導入が強行されたのである。
 だとすれば「二大政党制モデル」の破産は、「行財政改革」と連動して推進された一連の「合意形成システム」再編成過程全体の破産であり、だからまた私たちの側は、破壊された旧い、しかしなお有効性を持つと思われる地域的な「合意形成システム」の復元をも含めて、今日の閉塞状況に立ち向かう以外にはないと思うのだ。

 いずれにしても1年以内に総選挙が行われるが、その焦点は民主、自民の「二大政党」が第1党をめざして競うことではなく、むしろ民主・自民両党の混迷に乗じて、「大阪維新の会」を中心とする「第3極」勢力が善戦する可能性が高まっている。
 もちろん私は、橋下・大阪市長の「手近で矮小な〃利権〃を叩き、アトム化された人々の鬱憤晴らしを〃代行する〃」政治手法は、抑圧される側の人々の分断と敵対を助長し、結果としてより巨大で悪質な利権を温存するのを助けることになると考えているが、それでもいわゆる「第3極」勢力の善戦は、1994年に反自民8会派で細川連立政権を成立させたような、これまでは予想もできなかった「新たな連立の枠組み」を生み出すかもしれないし、民主党もしくは自民党と複数の会派が連立を組まなければ過半数さえ超えられない事態を生み出すかもしれないのだ。
 それは現在が、つまり大きな歴史的転換点をはらんで流動化する「今」という局面が、相対立する2つの理念と政策体系=つまり二大政党制よりも、多様な見解を持ち寄り、いくつかの選択肢からより良い(ベストではないがベターな)道程を真摯な協議の中から見いだす、そうした可能を秘めた連立政権を必要としている〃証し〃なのかもしれない。
 だから私たちは、むしろこの「より良い道程」を見いだそうとする真摯な協議の中で、橋下の手口に対抗する方法を見つけなければならないのだと思う。
 その方法をこの論考で詳しく展開する余裕はないが、社会変革をめざす私たちは、ひとつの歴史的事実を再確認しておきたいと思う。それは20世紀の政治と社会変革の理論に大きな影響を与えた1917年のロシア革命が、「パンと平和」という、最も穏健で保守的な、だが人間の生存に不可欠な要求の下に遂行された事実である。
 戦後日本の革新勢力と左翼勢力は、欧州的な尺度で言えば「中道派から右翼まで」抱え込んだ政権党=自民党と対峙するために、「保守」と「反動」を区別することなく攻撃し、あるいは穏健な保守的傾向を「日和見主義」として排撃することで人々に最後通牒をつきつけ、自らの未来を狭めてしまったと思うのだ。
 だからいま、毎週金曜日の夜に首相官邸前を埋め尽くす人々が、「生命と安全」という極めて穏健で保守的な、だが人間の生存にとって不可欠な要求の実現のために、「原発再稼動反対」の抗議をつづけていることを肝に銘じなければならないのだし、そうした「穏健で保守的な要求」に共感する政治勢力との協働を模索する必要があるのだと思う。

(9/3:きうち・たかし)


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