●原発事故の賠償と電力自由化

なし崩し的救済策が助長した東電の傲慢

― 多様な民間発電所を活かす送電インフラの公有を ―

(インターナショナル第207号:2012年3月号掲載)


▼再浮上した「東電の国有化」

 枝野経済産業相は2月13日に東京電力の西沢社長と会談し、原発事故の賠償資金として政府が新たに6894億円の追加支援を決めたことを踏まえ、東電の経営基盤を強化する政府出資の条件として「十分な議決権」が必要であるとの認識を示し、事実上「国有化」を実施したい意向を伝えた。
 いうまでもなく東電の「国有化」は、枝野大臣が唐突に持ち出した訳ではない。それは昨年3月、福島第一原発の事故直後に政府が策定した「東京電力の処理策」にも盛り込まれていた。その内容を報じた『アエラ』(2011年5月11日号/同23日号)によれば、第一段階として特別法を定め、政府保証で賠償資金を含む事故対策に必要な資金を手当てし、賠償額がある程度算定できた時点で、東電の100%減資や金融機関の債権放棄を実施する第二段階に移行し、将来的には発電と送電を分離(発送電分離)する「東電解体」が想定されていた。それは総額13兆7900億円(2010年12月末)の東電資産を売却することで原発事故に関わる費用の一部を調達しつつ「電力自由化」を促進し、電力の地域独占体制の解体と再編を展望しようとするものだったのである。
 これに強く反対したのが、金融機関つまり銀行団を中心とした財界である。東電社債のディフォルト(債務不履行)が債券市場崩壊の引き金になるのではないかという危機感が、その強硬な反対の理由だったが、たしかに東電株が暴落し東電社債のディフォルトが現実になれば、震災で大打撃を受けた日本経済はさらに重大な危機に直面したであろうことは疑いない。だからそれは「東電解体」に反対するもっともらしい理由ではあったのだが、「東電の一時国有化」と「債券市場の崩壊」が直結するかのような危機アジリは、直後の「電力不足キャンペーン」と二重写しになる、かなり危ういデマゴギーだったと言って過言ではあるまい。要は、金融機関が保有する大量の東電社債や株式が100%減資でタダの「紙くず」になり、あわせて融資債権を放棄せざるを得なくなって巨額の損失を被る、日本航空型破綻処理の二の舞になることを銀行自身が何よりも嫌ったのが、東電解体反対の本音であったのだろう。
 だがこうして東電のメインバンクである三井住友銀行が、賠償に関わる債務を東電本体と切り離す、後に「原子力損害賠償機構」(原賠機構)と名づけられるスキームを編み出したのであろう。と言うのも、東電には資産の拠出と毎年度の利益から6500億円だけを負担させて債務超過に陥る事態を巧みに回避し、それ以外の数兆円とも見積もられる資金は「政府保証付き融資」つまり最終的には税金で清算することになる借金と、他の電力会社からの出資や保険料の支払い(この資金も消費者が支払った電気料金の一部なのだが・・・)で賄うという法律=原子力損害賠償機構法の成立(昨年8月)は、東電の事故賠償責任を事実上免責し、それによって東電の株主も、東電に多額の融資をして儲けてきた銀行も一切の責任を取ることなく、事故に関わる費用の大半を税金と消費者に負担させるという、文字通り最悪の無責任体制を「合法化した」とすら言えるからである。
 だがこの「東電救済スキーム」でさえ、原発事故への対応策としてはまったく不十分であったことが次第に明らかになった。事故に関わる損害賠償は予想をはるかに上回って膨張し、放射能汚染地域の除染費用は莫大な額に上るとみられ、メルトダウンした原子炉の廃炉費用に至っては、未だ試算すらできない膨大な額の推測が乱れ飛んでいる。
 かくして東電の財務状況はさらに一段と悪化し、債務超過に転落する可能性が強まったことで東電の「国有化」、つまり税金を直接東電に投入する「資本注入」の必要が再浮上することになったのである。
 現に同日公表された東電の2011年4−12月期連結決算は6230億円の赤字で、12年3月期連結決算の赤字は、昨年11月時点の予測より950億円増えて6950億円となる見通しになっているのだ。この赤字額は、東電の債務超過を回避しようと設定された「東電の負担額6500億円」が、わずか1年で帳消しになった事実を示している。

▼「東電の自己保身」と「財務省の省益」の野合

 それでは東電は今後、「国有化」つまり国が経営権を握る体制の下で原発事故に関する資金調達のために「解体」され、株主や銀行も相応の責任を取らざるを得ないことになるのだろうか?いや、事態はなお予断を許さない。
 というよりも原発事故の当事者である東電は、国つまり経産省に資金援助を要請する一方で、枝野大臣が求めた「十分な議決権」には難色を示して「国有化」には抵抗しており、他方には、まるで東電の国有化への抵抗を後押しするような政府内の動きも、枝野大臣の意向にもかかわらず強まっているからである。永田町や霞ヶ関でいま飛び交っている「勝−勝ライン」なるうわさは、東電国有化反対派の構図を端的に示している。ひとりの「勝」は言うまでもなく東京電力の勝俣恒久会長であり、もうひとりの「勝」は財務省の勝栄二郎事務次官である。
 いったいなぜ財務省は、東電の国有化に反対なのか? そして「財務省が生んだ宰相」と揶揄される野田首相は、この財務省の動きをどう見ているのだろうか?
 東電の「国有化反対」はどう考えても虫が良すぎて、到底人々の支持を得られるとは考えられない。「金だけ出して、口は出すな」という東電の態度は、原発事故による極めて深刻な被害を作り出した当事者としての殊勝さの片鱗すら見えない、実に傲慢で、被災者感情を逆なでする許しがたい態度であろう。だが東電がこうした「強気」を押し通せると考える理由が、国有化に反対する財務省の態度なのである。
 財務省が東電の国有化に反対するのは、今後も増えつづけるだろう原発事故関連の莫大な費用負担を政府が背負い込むのを嫌っているからに他ならないが、と同時にこの莫大な費用負担が、金融市場において日本の国家財政への懸念を助長することを恐れているからだと言われている。日本の国家財政への懸念が高まれば国債の格付けが引き下げられるリスクが高まるし、財務省の「悲願」である消費税率引き上げによる「財政再建」の道筋が、それによって頓挫するリスクにも晒されるからである。
 さらに言えば、国(政府)が東電の経営方針を事実上左右することになれば、損害賠償や被害対策やらで経産省ばかりか、財布を握る財務省も矢面に立たされることになりかねない。官僚機構としては、これはどうしても避けたい事態だろう。
 だが一民間企業である東電の無責任な自己保身と、財務省という一省庁の主観的「省益」とが相互に見い出した「利害の一致」は、文字通りの意味で「野合」以外の何ものでもない。と同時にこの野合の構図は、1970年代以降に「公害」と呼ばれた企業犯罪が地域や民衆に与えた被害の賠償や刑事責任を免れつづけてきた「政官財を貫く官僚機構のインフォーマルな相互依存関係」が、今も厳然と生きていることを改めて暴露する。
 そして肝心の野田首相は、社会保障と税制の一体改革に傾倒しきって、つまり財務官僚の「悲願」には強い共感を示す一方で、史上最悪の原発事故による被害への対応として避けては通れない東電問題=賠償問題には、ほとんど関心が無いと言われている。つまり野田という政治家は、膨大な額に膨れ上がった事故債務に関する危機感もなければ定見も欠如しているばかりでなく、70年代以降の重要な社会問題であった「公害」問題についても、何の見識も持っていないことを自己暴露しているのだ。
 したがって株主や金融機関も応分の責任を取ることになる「東電国有化」と、多様な発電源の活用に不可欠な発送電分離という未来を見据えた電力事業の再編は、孤軍奮闘する枝野経産相の強い思いと、これに同調する経産省の「改革派官僚」の手腕にほぼ全面的に依存する、実に危うい状況にあると言うほかはない。
 こう言うと、反原発・脱原発の人々から「枝野と経産省は、電気料金値上げと原発再稼動を容認しているではないか」と、批判の声が上がるだろう。だが反原発・脱原発の大衆運動が未だ政府を突き動かすほどには強力ではなく、脱原発を掲げる諸政党も必ずしも効果的な再稼動阻止の施策を打ち出せてはいない現実を直視するなら、そして「ポスト原発」を、つまり次代のエネルギー供給システムを具体的で説得力あるものとして構想しようとするなら、現在の枝野経産相と「改革派官僚」の方策は、もちろんベストではないとしても、旧態依然たる利権の上に居座ろうとする東電や財務省の傲慢さに比べればベターであることだけは明らかではないだろうか。
 問題はわたしたち自身が、枝野や経産省改革派の動向をも活かしつつ、一日も早い全原発の停止と、独占的な電力供給の制約を打ち破り多様な発電源を活かせる「送電ネットワーク構想」を、それこそ東電や政府に突きつけるまでに練り上げることができるか否かにかかっているのではないだろうか。

▼動揺する10電力独占体制

 現実には「東電解体」と「ポスト原発」をめぐる攻防は、すでに佳境にある。というのは今月3月中には、原賠機構が東電の今後10年の見通しを示す「総合特別事業計画」(総合計画)が取りまとめられることになっており、それをめぐって年明けから、関係者の間で激しい駆け引きが繰り広げられているからである。
 先制パンチは昨年12月、枝野経産相が「東電と(原賠)機構においては、一時的な公的管理も含めてあらゆる可能性を排除せずに総合計画を検討してもらいたい」と発言したことだった。「一時的な公的管理」はもちろん「一時国有化」を意味しているが、具体的には2013年3月中に国(政府)が原賠機構を介して東電に1兆円の公的資金を投入、これと引き換えに3分の2の議決権を掌握して金融機関からも1兆円の追加融資を募るが、その前提として、規制(一般家庭用)部門での10l程度の料金値上げと、新潟県の柏崎刈羽原発の再稼動を盛り込む案が有力と見られている。
 したがって本来なら、今頃は枝野発言に沿って東電と原賠機構が二人三脚で「総合計画」の総仕上げに取り組んでいなければならないはずなのだが、東電側は原賠機構の出資比率の引き下げや、議決権のない優先株と普通株を組み合わせた出資で譲らず、民間企業としての存続に固執しているのだ。それは文字通り、料金値上げや原発再稼動、そして膨大な金額にのぼる賠償資金や被害対策費用の融資は受ける一方で、自らの莫大な資産や電力独占体制は維持ようという、醜悪な〃いいとこ取り〃に他なるまい。
 もちろん東電のこうした対応には多くの批判が向けられており、法的整理を求める声はいまも強い。しかし会社更生法の適用は、逆に東電が多額の債務から解放されて〃焼け太り〃する可能性があるし、すでに国が投じた援助資金の債権も放棄しなければなくなるなど、法的整理や国有化の環境はそれほど単純ではない。そうした様々な条件を踏まえ、国民と消費者負担を最小限に抑えるべく原賠機構がひねり出したのが、前述した「法的整理なしの国有化スキーム」だと言っていいだろう。
 しかも腹立たしいことには、原賠機構が成立した結果として、東電自身に損害賠償を全うさせるために、東電が赤字決算や債務超過に陥らないように利益を上げさせなければならないという、感情的には到底容認できないジレンマが存在していることだ。一般家庭用電気料金の値上げと柏崎刈羽原発の再稼動が公的資金投入の前提になっている「総合計画」は、まさにこの「東電に儲けさせる」ジレンマを象徴しているのである。

 それでも、東電の居直りと言える民間企業への固執に対する強い反感が、新たな東電包囲網を形成しつつある。ひとつの典型は、今年4月から自由化(法人)部門の料金を17%値上げするという東電の発表に対して、東京では世田谷区や練馬区など少なくない自治体が、電力の購入先を東電から他の電力供給業者(特定規模電気事業者=PPS)に切り換えるといった対策を講じはじめたことであろう。
 この、沖縄電力を含む10電力(会社)独占体制を掘り崩す「蟻の一穴」の可能性を秘めたPPSとは、1995年の電気事業法の改正をから始まったいわゆる「電力自由化」の流れを受けて、2000年4月以降、500kw超の電力利用者(中規模工場や中小オフィスビル、デパート・スーパーなど)が、電力を購入する事業者を、電力会社以外の地域の発電事業者などから選択できるようになった制度改革によって認可された「電力生産供給事業者=Power Producer&Supplier」のことである。
 ただし、PPSからの電力供給には電力会社が所有する送電網が使われるので、電力会社に支払われる送電線使用量が加算されるし、PPSが余剰電力を電力会社に売りたくとも購入の可否を決めるのは電力会社の裁量に任されていたり、かなりに厳しい条件をクリアしなければPPSの認可が下りないなど、「自由化」と言うには程遠いアリバイ的自由化だとの批判が根強くあるのも事実である。
 それでも、「電力を安定供給する義務」という電気事業法の規定だけを盾に、一切の競争を排斥する独占体制を維持するのが困難だからこそ制度改革は実施されたのだし、それはそのまま、戦後直後の「傾斜生産方式」による経済復興の過程では効果的だったかもしれない独占的電力供給体制が、今日の時代状況には対応できない「過去の思考にもとづく過去のシステム」であることを強く示唆する事態であろう。
 要するに日本の10電力独占体制は、旧態依然たる「国家金融」を引きずる郵便貯金や、「ナショナルフラッグ」という旧い権威に寄りかかって経営破たんした日本航空と同様の、精算されるべき「過去の遺物」と断じて良いだろう。

▼多様な電源を活かすネットワークの構築へ

 10電力独占体制という「過去の遺物」を解体・再編し、次代を見据えたエネルギー政策に転換するということは、実は「戦後」と呼ばれる経済至上主義の一時代の終焉を確認し、経済成長を前提とした高福祉社会=福祉国家の限界を超えて、新たな社会的再分配のシステムを構想することでもある。
 東電の国有化とあわせて繰り返し取り上げられる発送電分離つまり発電部門と社会的インフラでもある送電部門の分離は、この「新たな社会的再分配」という観点からも意味のある制度改革であるということができる。
 と言うのは戦後日本の「電気事業法」は、「一般電気事業者」つまり電力会社に発電と送配電そして小売の「すべての設備を自ら持ち」、同時に安定供給の義務を課しており、原則として部門ごとの会社分割を認めていないし、持ち株会社など、すべての設備を自ら持たない会社が電気事業者になることもできない仕組みになっているのだ。
 この仕組みは戦後、電気事業の全国一元化を求める日本の経済界と労働組合(そう!当時の日本電気産業労働組合協議会=電産協も、電気事業の独占を要求していたのだ)の動きに抗して、アメリカ占領軍司令部(GHQ)が、戦時下で発電事業を独占していた日本発送電を解体し、それを九つの配電会社に振り分ける形ではじまった。「過度経済力集中排除法」を作らせて財閥解体をすすめたGHQにすれば、戦後復興のために安定した電力供給が必須の条件だったとしても、電力事業の全国一元化という独占体制は問題外だったのであろう。しかしまさにこの仕組みが、結果として10電力会社による地域独占体制を作り出し、異常な原発建設ラッシュの基盤を形成したのである。
 他方のいわゆる発送電分離は、1989年にイギリスのサッチャー政権が実施した国有電力会社の私有化と自由化を皮切りに、90年代には世界で発電部門と送配電部門とを独立した民間会社に分離する自由化として進展した。しかし80年代から電力自由化を進めてきたアメリカでは、ちょうどこの頃ITを駆使した配電会社の事業モデルの矛盾が噴出し、不測の大停電を引き起こしたり巨大配電会社・エンロンが倒産するなど、電力自由化の負の側面が注目を集めることにもなった。
 その意味で日本では、左翼と革新勢力の側に「電力自由化」への反対が強く、それはまた「独占」に対する左派勢力の警戒心の低さという副作用をともなっているように思われるが、それはまた別の機会に論じることにしよう。
 しかし例えば、福島原発の事故を受けて原発の廃止を決めたドイツでは、電力自由化を云々する以前から、公営、私営、公私混合経営などさまざまな形態の電気事業者が600以上も活動し、送電網を保有する4大電力会社がその電力の80%を送電し、その仕組みの下で、広域電力供給企業41社が、4大電力会社から購入した電力や自ら発電した電力を販売するシステムが稼動しているのだ。
 すでにお解かりの方もおられるだろうが、こうした発電と送電の多様なネットワークこそが、実は多様な電源つまり小型の水力や火力、地熱、そして太陽光や風力などの多様な発電源を組み合わせて「安定した電力供給」を可能にするのであって、巨大企業が巨大なダムや原発で発電し、独占している送電線を使って独占価格で電力を販売することだけが、安定供給を確保する道ではないのだ。いま注目されはじめた「スマートグリッド」など次代を担うであろう送配電システムは、こうした発電と送配電のネットワークがあって初めて可能なのであって、その前提こそが発送電の分離、つまり配送電網を独占企業の私的所有から解放することなのである。
 では10電力会社から分離された配送電網を、誰の所有にするのか。アメリカではそれこそすべてを私企業に所有させることで、電力の安定供給が脅かされたのだが、国有か公益法人などの特殊法人の所有にするかはどうあれ、何らかの形の「公有」が最良の方法だと思われる。
 かつて国鉄の分割・民営に抗して、国労が「上下分離方式」を提唱したことがある。「下」である社会的インフラとしての全国鉄道網は国が所有し、「上」に当たる列車の運行や駅舎運営などは民間鉄道会社に行わせようとしたこの提唱は、結局、国労つぶしに固執した国鉄の「改革派」と自民党政府によって拒絶されたが、全国の送配電網という社会的インフラの保守と整備は社会的負担で行い、小さく、環境負荷のより少ない多様な発電源による電力供給事業者の自由で自発的な事業参入を保障するような「発送電分離」は、この国鉄の「上下分離方式」と、基本的には同じ発想に基づくものと言えよう。
 こうして最後に、最大の難問が待ち構える。発送電の分離を実行するには、原則としてこれを認めていない電気事業法を変えなければならないからである。
 原発推進派が、大飯原発を突破口にして原発の再稼動を虎視眈々と狙ういま、わたしたちは原発再稼動阻止の運動を推進する一方で、発送電分離を実現する電気事業法の改定を見据えた、より大きな協働の輪を準備する必要に迫られていると思うのだ。

(3/10:きうち・たかし)


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