●「国益」の分裂と野田政権支持率の急落
原発事故「収束宣言」と八ツ場ダムの復活
―「政権交代」の期待に背く、民主党主流派政権の混迷 ―
(インターナショナル第205号:2011年12月号掲載)
▼続落した野田内閣の支持率
朝日、読売、産経の三紙が、野田政権の支持率を調査した12月10日、11日の世論調査結果を報じたのは、13日の朝刊であった。それぞれの支持と不支持は、朝日が31%と43%、読売が42%と43%、産経では35%と51%と不支持が過半数を超える結果になった。しかもこの世論調査は、「原発推進派」の読売新聞の社説でさえ首をかしげた原発事故「収束宣言」と、民主党マニフェストの目玉であった八ツ場ダム建設中止の看板を投げ出し、建設再開方針を固める直前の調査である。だとすれば現在の野田政権に対する不支持率は、どの調査であれ過半数を超えるに違いない。
実は野田政権の支持率は、先月11月の報道各社による世論調査で急落していたのであり、その意味では今回の調査結果は、野田政権の支持率低下に一向に歯止めがかからない現実を印象付けるものである。
ちなみに11月中旬に報道各社が行った世論調査では、野田政権の支持率が前回10月との比較で急落しただけでなく、不支持率は軒並み10ポイント近く急増し、発足後わずか2ヶ月で支持率が過半数を割った調査結果もあった程だった。
11月の世論調査で「発足後初の支持率過半数割れ」を報じたのは共同通信社と読売新聞だが、共同通信の調査では支持率が10月比7・5ポイント減の47・1%と過半数を割り、不支持は6・5%増の34・3%であった。また読売の調査では支持率が前月比6%減の49%と同じく過半数を割り、不支持は同9ポイント増の38%であったという。支持率が最も低かったのは時事通信社の調査で、支持率は10月比6・7ポイント減の35・5%、不支持が同9・2ポイント増の36・0%で、支持と不支持とが発足後初めて逆転したと報じている。
11月末(28日)に調査を行った日経新聞とテレビ東京の合同世論調査は、「財務省の肝いり」と言われる野田政権に比較的好意的な調査結果ではあったが、それでも支持率は前月比7ポイント減の51%とかろうじて過半数を維持したものの、不支持率は前月比で10ポイントも増加した39%であった。
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ところで前月11月の世論調査のポイントは、野田政権が国会に提出した「復興増税」を含む第三次補正予算案とTPP(環太平洋パートナーシップ協定)参加問題だった。これに対する人々の意見は賛成・反対そして「どちらとも言えない」に見事に三分割されている観がある。TPP協議への参加そのものへの支持は、各社の調査で大方5割程度はあるが、それとて経産省や外務省が考えるように「協議に参加した以上は、途中下車はありえない」というほど明快な賛成ではないことも明らかだからである。
「復興増税」についても、TPPほど明確ではないとしても、つまり東日本大震災の復興資金を「みんなで負担して苦労を分かち合う」ことに対する理念的同意はあるとしても、その配分や使途については、むしろ経産省とゼネコンの旧態依然たる癒着関係や、幹部用住宅など資産の売却はせずに消費税率引き上げを目論む、財務官僚に対する根強い不信があると言うべきであろう。
かくして、「財務省が生んだ首相」は、「先行的な消費税率引き上げ」と見られる「復興増税」の提案と、旧態依然たる輸出主導型の経済成長モデルを踏襲する貿易自由化政策であるTPP(実際にはこれは貿易自由化というよりブロック経済圏形成の野望の可能性が高いが・・・)協議参加問題で、最初の蹉跌を味わうことになった。
▼官僚主導への舞い戻りと八場ダムの復活
わたしは本誌9月号(203号)の「民主党代表選挙と野田政権の発足」で、「・・・野田政権という、2年間の政権運営を通じて経験と学習を重ねてもきた『菅政権下の党内主流派』政権が、国家官僚機構とどう付き合おうとしているのかを冷静に見定める時間が、私たちにも必要だ・・・」云々と書いた。
しかもこの論考を執筆した9月下旬当時は、震災復興政策と福島原発事故への対応を焦点にして今年度末、つまり来年2〜3月ころまでの半年程度の期間がその時間的目途になるだろうと考えていた。
だが現実には、一向に出口の見えないEUの金融財政危機の進展と、これに伴う急激な円高の進行がTPP協議参加問題を焦眉の課題に押し上げ、「安全運転」を標榜する野田政権をして急発進と急加速で「自由化推進」に向かわせ、同時に国内景気対策としても巨額の復興財源の捻出が政権に突きつけられたのである。しかも前述したように、TPPや消費税率の引き上げをめぐる世論は賛成か反対かさえ定かではない分裂状態にあり、その統合を図るべき新たな政治理念や長期的展望は、鳩山・菅という二つの政権の挫折によってまったく曖昧になってしまったと言う以外にない。
そうであれば、今日のような先行きが不透明で不確実な時代には、半年間の「安全運転」など、そもそも不可能だったのかもしれない。
だがこうして野田政権は、当初の「ノーサイド」宣言に象徴された「党内融和」から一転、党内反主流派との全面対決も辞さずにTPP協議への参加を決め、地道な仕事で汗をかく「どじょうの政治」を標榜した震災復興の看板を下ろし、10兆円とも言われる復興資金をゼネコンなどの既得権益集団に供するなど、国家官僚機構と手を携えて上意下達で事をすすめる「永田町と霞ヶ関の論理」、言い換えれば「自民党政権と同じ政治手法」に舞い戻り始めたと言うべきである。
そしてこの「舞い戻り」の行き着いた先が、12月16日の福島原発事故の「収束宣言」であり、19日の八ツ場ダム建設再開方針の表明であった。
そのうえ野田政権の主流派は、かつて自民党・小泉政権が掲げた「構造改革」に共鳴したことでも明らかなように、自ら「改革派」を標榜する新自由主義的諸政策の信奉者が多数を占めている。したがってその政策体系は、いわゆるグローバリゼーションに対応できる「国際競争力のある産業や企業」の権益擁護に偏向しており、だからまたグローバリズムの伝道師でもある親米勢力への親近感も強い。それは財務官僚のみならず、経済産業省や外務省など戦後日本の基本政策に強い影響力を発揮してきた国家官僚機構にとっては、実に「好ましい政権」ということでもある。
これらの事実は、野田政権が民衆の期待からはますます遠ざかりつつあることの証拠である。というのも2009年夏の政権交代は、経済格差の拡大に不安を募らせ、国家官僚機構と結託した既得権益集団の跋扈を放任しつづける自民党政権に見切りをつけ、戦後日本の政治と経済とを根本から見直し、かつてのような好景気や収入増は望めないとしても将来への不安が少ない、それこそ「持続可能な社会」への人々の期待の表現に他ならなかったからである。
そう!2009年夏の政権交代を後押しした民衆の切なる願い≠ヘ、一挙に政治と経済とを変えるというよりは、恣意と無駄とが蔓延する官僚機構の規律を質(ただ)し、既得権益をゼロベースから再検討するような見直し≠ニいう、実に現実的な要求だったのであり、だからまた政策仕分け作業が今も強く支持されているのである。
そして野田政権の3ヶ月は、「官僚機構の規律を質し」「既得権益をゼロベースから再検討する」という期待から、一歩また一歩と遠ざかる道のりだったのである。
▼明快な対案と具体的要求をもつ民衆運動へ
こうして私たちは今、2009年夏の政権交代への期待が、文字通り風前の灯になっている現実を改めて確認する事から再出発する必要がある。
だが同時に私たちは、民衆の期待から確実に遠ざかる野田政権に対峙して、ひとつひとつの現実的な政策について明快な対案と要求を持ち、これを民主党政権が実施するように迫る、「対案型運動」の手法と形成に習熟すべく努めなければならないと思うのだ。
たしかに私たちは、政権交代に大きな可能性を感じて民主党への投票を積極的に呼びかけたが、それは民主党政権にすべてを委ねようということではないし、ましてや民主党という政党に、諸政策の策定や決定を白紙委任したことも意味しない。
つまり対案と具体的要求とを掲げ、民主党政権に対峙してその実現を迫ることは、アメリカで初めての非白人大統領の選出に大いに貢献したであろう若者たちの草の根運動が、まさに自らが選んだオバマ大統領の「煮え切らない経済政策」に業を煮やし、富裕層への増税とトービン税(イギリスでは「ロビンフット税」)の課税を含む金融取引規制とを要求してウォール街占拠運動を展開するのと同じである。
民衆の未来は、民衆自身のムーブメント=直接行動を含む社会的運動によってのみ決められるのであって、政党や政権が「民意を代行する」代議制民主主義は、「先行きが不透明で不確実な時代」には有効に機能しないだけでなく、時には人々を大いなる惨禍に導く危険をも孕んでいるのだ。
だがそれでも民主党政権は、戦後一貫して政権の座にあって今日の社会的不平等や不公正の多くに責任を負うべき自民党とは違って、それに取って代わることで日本社会を「より良く変えたい」という志を持った政党である。まさにだからこそ私たちは、民主党政権に対して自らの要求の実現をより強く求めてしかるべきなのだ。
では私たちは、野田政権に対してどんな対案を突きつけるべきだろうか。
もちろんここでは個別の問題を逐一とりあげることは出来ないので、対案のベースとなる幾つかの考え方だけ述べたいと思う。
◆沢山の「小さな公共事業」の推進
まず第一に指摘したいのは、鳩山政権の発足当初に掲げられた「コンクリートから人へ」の理念が、文字通りなし崩しで消えてしまった事実である。
そればかりか、前述のように震災復興予算の多くはゼネコンへの供物(くもつ)にされ、震災直後の復旧工事では大きな役割を果たした地元の中小土建業者は、「公正な競争」を口実にした一般入札によるゼネコンのダンピング要求の前に、下請け・孫請け仕事に預かることさえままならぬ状況に直面し始めている。
これに対する「私たちの対案」は、復興事業に関する強力なダンピング規制を要求することだと思う。地元の中小業者が、ゼネコンに代わって復興事業の元請けはできないとしても、実際にはゼネコンの権益擁護の別名と化した「一般競争入札」にダンピング規制を明記するように野田政権に要求することは、被災地に多くの資金と仕事を供給するという意味でも重要である。
そして震災復興事業をめぐるこの要求が達成される度合いに応じて、今後の日本社会には絶対に必要となるだろう老朽化した社会インフラ(市町村道の橋や土留めなど)の修理や保全工事を、地元の業者を主体にした「地産・地消」として実施できる可能性が切り開かれることになるだろう。
巨大な「箱モノ」公共事業を止め、日常生活に不可欠な社会的インフラの補修や改修や、学校など公共施設の耐震補修といった「沢山の小さい公共事業」の推進こそは、超高齢化社会に必要な事業だし地域経済の活性化にとっても有意義に違いない。
◆原発「再稼動」を阻止する地域再生運動
第二は、「脱原発」を野田政権に迫る民衆運動が持つべき対案である。
地震列島・日本で、しかも巨大地震の頻発期という学説もある今日、コスト優先で設定された甘い耐震基準で設置された原発が稼動しつづけるリスクを考えれば、「直ちに、全ての」原発の停止と廃炉の要求は、それ自身としては正しい主張である。
だがこれに抵抗する「ゲンパツ・ムラ」は、かつて鳩山の普天間基地の県外移設方針に真向から反対し、ついには鳩山首相もろとも県外移設構想を葬った「安保マフィア」に勝るとも劣らない、頑迷だが金と権力とを持つ勢力である事実を直視する必要はある。なぜならこれは、未来のために負けることのできない闘いだからである。
したがって当面する脱原発の「戦術的焦点」は、停止中もしくは停止予定の原発の「再稼動阻止」であり、中途半端とは言え、菅首相が提唱した「ストレステスト」を厳密に適用するように民主党政権に迫ることが、今後の脱原発の行く末を決める分水嶺であると思われる。何よりも「再稼動阻止」は、地元自治体首長の決断が決定的な条件となるという意味で、人々の運動が直接的に関与できる、つまり首長に直接圧力を加えられるという意味で大きな可能性を持っているとも言える。
しかし同時にこの民衆運動が「対案型」として展開されるためには、「再稼動阻止」を地域の多数派の意思にするような、90年代以降全国に広がった多様な町おこし・村おこし運動の経験や教訓を引き継ぐ、実践的で具体的な「地産・地消の地域再生構想」を民衆と共に練り上げ提唱する必要があるだろう。
それは国家資金に過度に依存しない、言い換えれば「ゲンパツ・ムラ」の構造的土台である「札束による利益誘導」を掘り崩すことで達成される、民衆自身の自発的な未来の選択に他ならないのである。
◆輸出産業こそ最大の既得権益勢力
そして最後は、日本の巨大企業(東京電力もその典型だが)のあり方を質し、格差拡大を促進するグローバリズムに抗する「戦略的対案」として、「輸出主導型貿易立国モデル」からの脱却を掲げることだと思う。
私たちはこれまでも繰り返し、右肩上がりの経済成長の再来は幻想であり、いわゆる「成長戦略」に固執する経済政策は、結局のところ「旧い産業構造」の権益を擁護し、すでに十分に拡大している経済的格差をさらに広げ、偏在する富の暴走による金融危機を繰り返し引き起こすだけだと指摘してきた。
実際に、小泉・竹中の「構造改革」が、結局のところ輸出産業を中心とした巨大企業の利益を極大化する一方で、「中流階級」の没落を促進して社会的格差を拡大したことは誰の目にも明らかである。つまり政権交代に掛けられた「本質的な期待」とは、自動車と家電の輸出ばかりを優遇し、しかも北米市場への輸出にしがみついて日本の経済成長を展望するという、この先10年もすれば「絶対的な限界」に突き当たるような成長戦略なる旧態依然の産業政策からの脱却だったはずなのだ。
だいたい、いつまで自動車と家電が「基幹産業」でありつづけられるだろうか。金融バブルの手痛い破綻に懲りて、輸出産業の再生を本格化することで経済の建て直しを進めはじめたアメリカに、「最大の輸出市場」であることを期待しつづけることができなくなることは、みずほ銀行のシンクタンク(みずほ総合研究所)さえ公然と語り始めている、まさに近未来の現実である(東洋経済新報社刊『アメリカに頼れない時代』)。
つまり今では自動車と家電を輸出する巨大企業こそが、巨額のコストで将来性の薄い通商構造を維持することで利益得る「最大にして最悪の既得権益勢力」に他ならないのであって、農協や漁協といった一次産業にたずさわる諸勢力の「既得権益」など、いわゆる輸出産業を防衛するためだけの「円高対策」費用の足元にも及ばない、実に微々たるものに過ぎないない。その巨大な既得権益企業が、さらなる利益のために一次産業を犠牲にするTPP協議に参加するよう民主党政権に圧力を加える行為は、「強欲」と呼ぶ以外になんと呼べば良いだろうか。
その意味でも、もういい加減に「モノづくり」を隠れ蓑にした(大量消費を前提にした大量生産は、いわゆる「モノづくり」とは対極の生産システムだ!)自動車・家電の輸出偏重型「成長戦略」の幻想を棄て、それこそ「コンクリートから人へ」という鳩山政権のキャッチフレーズを地域経済再生の展望の中に位置づけ直し、新しい産業構造を構想する時が来ているのである。そしてこれこそが、本当の意味で「構造改革」と呼ぶにふさわしい社会変革の展望であろう。
もちろんこうした「戦略的展望」がただちに見出せるはずもないが、何よりもその第一歩は「輸出主導型貿易立国モデル」の呪縛をふりほどき、巨大な私的官僚機構でもある既得権益企業の「強欲」を真正面から批判することである。
(12/26:きうち・たかし)