【内閣不信任案の否決と菅政権の迷走】
潜在的な戦略的分岐と市民派宰相・菅の動揺
― 政党再編を孕む来年度予算をめぐる暗闘の激化 ―
(インターナショナル第201号:2011年6月号掲載)
▼「永田町の論理」でもない無謀な権力闘争
自民・公明両党が提出した菅内閣に対する不信任決議案は6月3日、衆院の反対多数で否決さ
れたが、その後も「菅首相の退陣時期」をめぐって与党・民主党内で駆け引きがつづき、政治 の混迷はますます深刻さを増している。
菅首相が「震災への対応に一定のメドがついた時点」での退陣を表明したのは、内閣不信任案が提出される前日6月2日の民主党代議士会でのことだが、それはもちろん与党・民主党内に渦巻く首相への不満・不信をなだめ、内閣不信任案への同調を示唆する非主流派の足並みを乱して内閣の延命を図ることを計算してのことであろう。
だがそうだとしても翌3日に不信任案を自らも反対して否決した以上、非主流派は菅首相の思惑がどうあれ一旦は「菅おろし」の矛を納め、菅の言う「一定のメド」が具体的には何を
意味
するのかを見極める時間つまりインターバルを必要とすると考えるのが、政治に携わる者としては当然のように思われた。
ところが民主党内の非主流派は、まるで自らが与党つまり政権党であることをすっかり忘れたかのように退陣時期に関する思惑を声高に公言し、それによって党内の混乱に拍車をかけ、対する菅と党執行部も彼らの思惑を押し返えそうと、政策課題を羅列してこれに対抗するといった実に幼稚で拙劣なドロ仕合を繰り返すばかりで、政治的メッセージがまったく発信されない政治の空白≠ェ続いている。
菅首相は7月2日になって、3つの重要法案の成立を「一定のメド」として提示したことで民主党内の騒ぎも多少は沈静化しつつあるが、菅政権の行方とその後≠ヘ、いまもなお不透明
なままである。
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私は内閣不信任案否決直後、このウエヴの『気になった出来事』に以下のように書いた。
「民主党内の「反乱軍」は勢いを増し、菅内閣打倒後の具体案もなしに ―そうなのだ!この反乱軍は無謀にも「次期総理大臣候補」も立てずに―
倒閣に突進しようとしたのである」と。
政治権力を担う準備も無しに権力闘争に踏み込むのは、文字通りの意味で国政をもてあそぶ行為であり、政治家としての未熟さの自己暴露でさえある。こうした、権力闘争に明け暮れる
「永田町の論理」でさえ理解不能な「菅おろし」の背景について、同じ『気になった出来事』では以下のように書いた。
「だいたい「菅首相のもとでは与野党の協力は実現しない」とか「菅が辞めればみんなで一緒にやれる」などと言う理屈は、明け透けに言えば既得権益の上に胡坐をかく連中が、挙国一
致を装って「震災特需」を山分けするための方便であることくらい、なんとなくではあれ人々は見抜いていると考えるべきだろう。そう!「国難」に耳目を塞いで倒閣運動に現(うつつ)をぬかすなんて芸当は、震災特需なる政治利権ぬきには考えられない」と。
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民主党ばかりでなく自民・公明両党をも貫く「混乱した権力闘争」の背後には、ここで指摘した「震災特需」があるのは間違いない。だがもう少し中長期的な視点から、この政治抗争の
「本質的性格」を見極める必要があるようだ。
というのも『気になった出来事』に書いた「震災特需」は、2008年秋のリーマンショック以降の経済的低迷を克服するような財政的刺激となるには程遠く、その波及効果にも大きな期待
はできない半面で、新自由主義を標榜した「構造改革」で疲弊した地方経済にとっては、震災と津波の被害は甚大に過ぎるからである。これに、福島第一原発事故の長期化が追い討ちを掛ける。農水産物の出荷規制と強制的廃棄、放射能汚染の拡大による農作物の作付け禁止と沿岸漁獲の禁止、さらに諸外国の輸入規制と外国人観光客の激減等々が、地方経済へのさらなる打撃と日本経済への押し下げ圧力となる。
その意味では、10兆円超もの国家財政が投じられる「復旧」事業を中心とした「震災特需」も、「日本経済を成長軌道にもどす」という課題からすれば「焼け石に水」に過ぎず、だから
また「復旧ではなく復興を」名分にして、新たな「自由化と規制緩和」に経済成長の期待をよせる復興キャンペーンが展開されてもいるからである。
▼魔力を失った成長神話と曖昧な「脱成長」
では、民主党内の混乱に象徴される日本政治の混迷の「本質的性格」とは何か?
それは戦後の日本政治の諸政策の大前提となってきた政治理念、具体的には戦後政治の背骨であった「経済成長の追求」という戦略目標が、3・11の大震災を契機に重大な試練に直面する一方で、それに替わる「新たな政治理念」が必ずしも明確な姿を現してはいない、「政治的混沌」と呼ぶ意外にはない性格である。
次期政権の具体的構想もなしに権力闘争に踏み込むという、「永田町の論理でも理解不能な政争」の背後には、あえて大胆に言えば「成長戦略派」と「脱成長派」の抜き差しならない戦
略的分岐が潜んでいるのだが、それはなお政治的分岐として明示的でもなければ、大半の政治家にとって自覚的でもないのであり、この曖昧な状況こそが、現在の権力闘争を訳の解らないドタバタ劇にしている「本質」なのである。
前者つまり成長戦略派は、いうまでもなく戦後の日本政治を独占してきた自民党と、これにコバンザメのようにひっついて支持母体の創価学会に「仕事とカネ」を流し込んできた公明党
が最も良く体現するが、結局は小泉構造改革が一握りの多国籍企業の好況を達成はしたものの、日本全体で言えば地方経済の疲弊や格差拡大などの弊害をもたらしただけで行き詰まり、それ以降は「成長戦略」それ自身を提起できない混迷の中にある。
だがこれに対する「脱成長派」は、実を言えば戦略と呼べるような体系的な理念や政策パッケージを持ち合わせてさえいないのだ。いや正確に言えば、包括的な戦略体系を持っていると
は言い難い多様な勢力が、「部分的な脱成長」を主張しまた体現しているのが、とりあえず「脱成長派」と呼べる政治傾向の実態である。
この傾向は、少数の自覚的な「持続可能な発展(Sustainable
Development)派」あるいは「ゼロ成長派」を核にして、例えば八ツ場ダム建設中止を求める「反開発派」や、「市場至上主義
」に反対して「社会的弱者」への国家による手厚い援助を志向する「福祉充実派」もその一翼を構成する。つまり小沢派を含む民主党ばかりか自民党の一部や国民新党も、あるいは十年一日のごとく「福祉の充実」を訴えつづけている共産党と社民党も含んだ勢力とも言えるのだが、問題はこれらの勢力はまったくバラバラであるばかりか、それぞれが違った方角を見ていることなのである。
しかも「福祉充実派」の大半は、経済成長の成果を福祉に振り向けよと主張している限りにおいて「成長戦略派」でもあり、戦略的分岐が鮮明になる度合いに応じて、両極に分解せざる
を得ない最大の多数派でもある。
しかしながら現局面で最も肝心なことは、民主党政権の成立に際して「成長戦略の不在」を声高に非難してきた自民・公明両党主流派に代表される「頑なな成長戦略派」が、3・11によって
危機的事態に直面したことである。
なぜなら、「成長戦略」なるものが自然の猛威の前には極めて不確実で脆弱なシロモノであることが露になり、あらゆる社会問題
―貧困や失業ばかりか、経済的格差や貧困に対する偏見さえも―
が経済成長によって克服できるとする「成長神話」が、将来に対する人々の「漠然たる不安」を払拭する魔力を失ったからである。
この「成長戦略派の危機」を象徴するのが、福島第一原発の事故による汚染・避難地域の拡大と、故郷を追われるように避難する人々の現実である。
もちろん3・11は、「新自由主義とグローバリゼーションに対応する効率化と称して、食料や生活必需品の多くを脆弱な供給体制に委ねる、いわば「供給システムのコンビニ化」の進展が
、未曾有の自然災害後の救援活動や支援物資供給のアキレス腱となって被災地の混乱と苦難とを助長した」(199号「東日本大震災と原発事故」)現実を見せつけ、改めて自然に対する畏怖の念や経済至上主義への疑問を助長もしたが、原発事故による「故郷喪失」の恐怖は、「経済成長の守護神」であった最先端の近代技術が、実は制御不能な「無限大のリスク」を抱え込んでいるという真実を暴き出し、それによって「永遠の経済成長を可能とする技術革新」という、アメリカの覇権とともに世界経済に刷り込まれた「近代技術信仰」の虚構を崩壊させ、社会的な不安心理を決定づけたという意味で、まさに決定的な転機となった。
その意味で福島原発事故による「安全神話の崩壊」は、第二次大戦後の世界経済に埋め込まれ、特に日本では金科玉条とされてきた「技術革新」への幻想の崩壊を象徴する、だがその崩壊のほんの一部の現象に過ぎないとも言える。
かくして、菅首相の「法律に基づかない」浜岡原発の停止要請は広く人々に歓迎され、原発立地自治体首長たちが軒並み原発の再稼動に慎重な姿勢へと転じ、「新しい歴史教科書をつくる会」の分裂さえ誘発する脱原発の機運が、攻勢的気分をはらんだ「節電」意識の高まりを伴って、言いかえれば「経済成長至上主義に対する批判的気分」を助長しつつ、全国的な広がりをみせることになった。
だが客観的条件がどれほど整っていようと、それを活かす変革主体が不在であれば、状況は混沌=カオスとなる以外にはない。つまり脱原発の機運は間違いなく「脱成長」の追い風だが、例えば「6・11脱原発100万人アクション」が必ずしも大衆的なうねりを作り出すには至らなかったように、それを「人々に認知され選択肢」として鮮明にする主体的勢力が不在だという現
実が、現局面のもうひとつの特徴なのである。
そしてこの「不鮮明な戦略的分岐」と「脱成長派」の主体的弱さが、現在の菅内閣の動揺と迷走とを助長しているのである。
▼民主主義を弱める「市民派宰相」の動揺
鳩山首相の辞任後、ある意味では大きな期待を担って登場した「市民派宰相」菅直人の率いる内閣は、参院選前の消費税率引き上げ発言を契機に低迷し、3・11直前には前原外相の辞任もあって文字通り風前の灯といった危機に直面していた。
だが3・11の大震災と原発事故は、菅内閣を取り巻く瑣末な問題を押しのけて震災被害への対応を迫ることになり、前述した機運もあって内閣支持率も若干ながら回復傾向を示したのである。だからその限りでは、民主党内の「菅降ろし」や自民・公明両党による内閣不信任案の提出は、むしろ大衆的非難に直面したと言える。
だが6月初旬に内閣不信任案が否決されて以降は、逆に菅内閣の右往左往と内部混乱が一段と深まり、それと平行して菅に対する「行き当たりばったりの思いつき」とか「自己保身」とい
った避難や中傷が人々に受け入れられはじめ、内閣支持率がまた下降し始めたという事態が、菅政権の混迷ぶりを象徴している。
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ところで発足当初の菅政権は、普天間基地問題で親米派勢力を敵に回して自壊した鳩山政権の轍を踏むまいと、原発ビジネスの推進を表明し、あるいは唐突に「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)」への参加を表明するなど、明らかに親米派つまり成長戦略派への過剰な妥協もしくは同調を図ったのは明らかである。特にTPPへの参加は、野党の自民党さえ慎重な姿勢を崩していない状況下で、経団連など財界からの支持を当て込んだ「現実主義」的な対応だったのだろう。
だが3・11の大震災以降になって、この「現実主義的な過剰な妥協」が、菅首相をして身動きの取れない苦境に追い込むことになったのである。
というのも3・11の大震災は、管政権の看板でもあった原発ビジネスの推進を頓挫させ、成長戦略そのものであるTPP参加など、発足当初にかかげた政策目標の根本的再検討を迫ることになったのだが、まさに「過剰な妥協」の結果として、その再検討や転換を容易には提起できない状況を自らつくり出してしまっていたからである。
結果として菅は、浜岡原発の運転停止を超法規的に要請しながら「脱原発」のメッセージは慎重に回避し、自然エネルギーの電力買い取りを義務化する「再生可能エネルギー特別措置法案」の成立に意欲を示す一方で、経済産業省の求めるままに定期点検済み原発の再稼動をあっさり容認するなど矛盾に満ちた施策を乱発し、それがまた自己保身やリーダーシップの欠如といった非難と疑惑を増幅するという、無用な政治的混乱を再生産しつづけていると言って過言ではない。
もちろん菅の矛盾と動揺は、発足当初の政策目標をなし崩し≠ノ変更しようとする意図をはらんでおり、だからこそ自民党と経産省を中心とする原発推進派が菅を非難するキャンペー
ンを展開しているともいえるが、それにしても菅政権が発すべき政治的メッセージが少なすぎ、むしろ脱原発機運に水を差す危険性さえ現れはじめている
例えば停止中の原発の再稼動について菅は、7月になって唐突に「ストレス・テスト」を提起し、これに伴う騒動で海江田経産相が近い将来の辞任を示唆するなど、新たな混乱が広がった
が、これなどは「政治的メッセージの欠如」の典型であろう。
というのも福島原発事故以降、原発立地自治体の多くは「原発の新しい安全基準を国が示すべきだ」と主張していた以上、日本だけが「原発ムラ」の抵抗で例外的に導入してこなかった
「ストレス・テスト」という国際基準(これもまたグローバルスタンダードに他ならないのだが)を導入し、このテストのクリアを再稼動の条件にすることは、それ自身として実にまっとうな政策なのである。
にもかかわらず、半月前には経産省官僚の求めるままに旧来基準での再稼動を容認して海江田経産相を地元自治体に派遣して再稼動を認めるよう要請しておきながら、それを「無かったことにして」ストレス・テストの導入を指示し、他方でこの方針転換を国会で語るでも、記者会見を開いて自ら政策の意図を説明するわけでもないという対応は、「政治的メッセージの欠
如」以外の何物でもない。
しかもそれは、結果としてではあれ人々が原発とその事故について、そして国際的な原発の安全対策などを正しく知る絶好の機会を菅首相みずからが奪い、原発推進派と同様の拠らしむべし、知らしむべからず≠フ愚民政治に手を染め、「市民派宰相」が民主主義を破壊するに等しい愚策と言わずしてなんと言うべきだろうか?
繰り返して言うが、菅の引き起こす政治的混乱は「変革主体の不在」もしくはその未熟さの反映であって、「いら菅」などと揶揄される彼の個人的資質は、混迷を増幅させることはあっ
ても本質的要因ではない。それでも「成長戦略派」と「脱成長派」の潜在的分岐の顕在化が情勢に大きく立ち遅れ、結果的にではあれ「市民派宰相」が繰り返す愚行が長期に及ぶような事
態になれば、それは脱原発機運に水を差し、脱成長派の足元をすくう危険となる可能性はあるのだ。
したがって事態は、民主党と自民党の二大政党のみならず、現在あるすべての政党を巻き込むであろう政党再編にむけて、さらにはこの政治再編と連動した中央省庁官僚機構内部の路線的分岐をはらんで、激しい暗闘が始まることになる。
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ところで7月は、中央省庁では来年度予算の概算要求の策定にむけて、政府の予算編成方針に影響を与えようと水面下の駆け引きが活発化する時期である。つまり来年度の原発関連予算をめぐる暗闘は、すでに始まっているのである。
その暗闘は単に原発推進派と脱原発派のみならず、電力自由化をめぐる経産省内部の対立が、あるいは自然エネルギーをめぐる環境省と経産省の対立が、さらに電力業界と割高な電気料金の値下げを要求する自動車や家電業界との対立が、そして電力総連の強力な力の前に屈従してきた連合内の反電力総連労組の対立が等々、あらゆる利害をめぐる激しい駆け引きと衝突として進行しつつある。
だから改めて問われているのは、新たなイニシアチブの可能性を秘めた自覚的な「脱成長派」が、こうした暗闘を含めた再編の過程に関与しうる一定のポジションを占めることができる
か否か、あるいはそうしたポジションの確保をめざして、前述した多様な諸勢力との連携や協働を実現する能力があるか否かなのである。
(7・10:きうち・たかし)