●東日本大震災と原発事故

人災を隠す「未曾有災害」の大合唱に抗して「効率化」が生んだ脆弱な社会からの脱却を

(インターナショナル第199号:2011年4月号掲載)


 3月11日午後2時46分、東北の三陸沖から関東の房総沖にまでおよぶ南北500キロ、東西200キロという広大な震源域を持つ巨大地震が、東北地方と関東地方東北部を襲った。さらに地震発生からわずか10分ほどで、15メートルから20メートルもの巨大津波が岩手、宮城、福島、茨城そして千葉県の太平洋岸に来襲、平野部では海岸から最大4.5キロの内陸部にまで、リアス式海岸では海抜40メートル付近まで海水が押し寄せ、多くの人命と家屋、田畑や漁業施設を押し流した。
 私はまずなによりもこの震災と津波によって被災した、私たちの知人や親族を含むすべての方々に心からのお見舞いを申し上げると共に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、その縁者の方々にお悔やみを申し上げたい。
 今回の大震災は、近年まれに見る大災害であった1995年の阪神淡路大震災と比較しても、その被災地の広大さ、死者・行方不明者の膨大な数、津波被害の深刻さ等々、どれをとっても桁違いの激甚災害であることは疑いない。それを象徴するのが、1960年のチリ地震津波以来、日本有数の規模を誇る防波堤や水門を築いて巨大津波に備えてきた三陸海岸の諸地域が、文字通り壊滅的な被害をこうむった事実である。
 その意味ではこの地震と津波が「想定外」の「未曾有の大災害」だったことは間違いないが、だからと言って被災後の社会的・経済的混乱と、福島原発の事故に代表される第2次、第3次の被害までもが「未曾有の災害」によるやむを得ない結果だったとは断じて言えないのも、厳然たる事実なのである。
 以下ではそれを確認するとともに、この大災害を受けて私たちの社会生活はどう変わるべきなのかを、単なる防災対策を超えて考えてみたい。

▼備蓄を「無駄」と呼ぶ「効率化」の果てに

 4月10日現在、震災被害の最大の焦点はなお、東京電力福島第一原発の危機的状況を如何に終息させるかだが、この事故の人災的側面やその責任問題については後で述べることにして、まずは救援活動や支援物資輸送の遅延の大きな要因ともなった燃料不足や、首都圏まで巻き込んだ物資不足が、単に「未曾有の災害」による甚大な被害だけが原因ではないという事実の指摘から始めよう。
 震災直後の最も深刻な問題は、車両用ガソリンと暖房用灯油の不足だった。たしかに震災によって東日本にある製油所11カ所中6カ所が被災して稼動停止となり、被災から2週間後の3月25日現在でも仙台(14万バレル/日)、鹿島(25万バレル/日)、千葉(22万バレル/日)の計61万バレル/日の精製能力が失われていた。しかも国内最大手の石油元売会社・JX日鉱日石エネルギーの仙台製油所は、各社が大消費地である首都圏に製油所を集約した結果として東北地方では唯一の生産拠点になっていたのだが、4月に入ってもまったく復旧の見通しが立っていない状態にある。
 だが被災地や首都圏のガソリン不足の原因は、震災による石油精製能力の喪失もあるが、より直接的には「在庫を極限まで減らした配給システムの破綻」と、多数のガソリンスタンド(GS)が営業不能に陥ったことにある。特に前者の要因は、ここ15年間の石油関連施設の大幅な削減・合理化の数字に端的に示されている。
 阪神淡路大震災のあった1995年と比較すると、全国の製油所は44ヶ所から2011年には27ヶ所とほぼ半減し、タンクローリー車は1万8000台から2010年現在で7000台と6割以上も減少、供給の中継拠点たる油槽所に至っては600ケ所から、すでに04年時点で190ヵ所と7割も減少しているのだ。こうした状況下で「東北唯一の生産拠点」が機能停止すれば、被災地のガソリン供給が逼迫して当然である。
 もちろん日本の石油需要は1999年をピークに減少の一途をたどり、いわば構造的な供給過剰に陥っていて、過剰設備の削減が不可避ではあった。最近では日量330万バレルの需要に対して、国内の27製油所の精製処理能力は450万バレルもあり、点検や補修による稼動停止を考慮した「適性稼働率」を90%と想定しても供給能力が2割以上も上回る過剰供給であり、このため石油元売各社の精製販売マージンは減少しつづけ、2009年度には元売各社が軒並み実質的な赤字に転落したからである。
 こうした供給過剰構造に危機感を募らせた各社が製油所やタンクローリー車の削減を加速し、政府も2010年度から「業界の過当競争是正のため」と称して「重質油分解装置の装備率」なる新たな規制を導入して過剰設備の削減を強制的に促しはじめた。だがまさにその最中に、今回の大震災が発生したのである。「皮肉な話だが、業界が過剰な精製処理能力を抱えていたので、西日本から東日本に製品を回すことができた。震災が3年後に起きていたら、燃料供給はもっと大混乱を来たしたと思う」(『週刊東洋経済』4・2号)という業界関係者の証言が、ガソリンと灯油不足による被災地の苦難と首都圏の混乱の知られざる要因を的確に言い当てている。
 そのうえで問題なのは、過剰供給構造と過当競争の原因はなにか? それは今回の震災ではどんな事態を招いたのか? であろう。
 日本国内で石油製品とくにガソリンをめぐる過当競争が顕在化する契機は、1996年3月に国際エネルギー機関(IEA)による石油製品輸入自由化要求を受けて、特定石油製品輸入暫定措置法(特石法)が廃止されたことだった。
 1972年のオイルショック以来、「想定外の」国際的激変や自然災害への備えとして石油業界にも課されてきた義務的備蓄などを大幅に緩和し、石油流通を完全に市場にゆだねる新自由主義への転換は、たちまちガソリンなど石油製品の過当競争を激化させ、石油業界全体に効率化を、言い換えれば最小の設備で最大の利潤を追求する資本効率の引き上げを業界全体に強制することになった。製油所、油槽所、タンクローリー車の大幅削減は、その効率化の必然的結果であった。
 当然のことだが、こうした効率化は利潤率を上昇させる一方で、自然災害や情勢の急変に備えた「供給余力」を徹底的に削り取ることになる。そのひとつの典型が油槽所の大幅な削減、つまり備蓄量の徹底的な削減であった。緊急時の供給余力でもある備蓄をギリギリまで減らし、タンクローリーをフル稼働させる供給システムは、トヨタ看板方式として知られる「ジャストインタイム」の石油業界版に他ならない。
 ところが現実は、もっと深刻だった。「ジャストインタイム」という供給余力の削減は、実は石油業界に限らずあらゆる業種に及んでいたからである。
 例えば震災直後から、首都圏では「買占め需要」で米が飛ぶように売れて一時は在庫不足に陥ったが、それも「倉庫費用の削減のために、関東ではほぼ在庫を持たず、随時生産地から調達して精米する体制をとっているのが原因」(『週刊東洋経済』3・26号)なのである。そしてこれに、「選択と集中」なる掛け声の下で展開された「一極集中の生産体制」が追い討ちをかけた。日本ハム茨城工場やニチレイの東北工場が被災して稼動停止に追い込まれた一方で、西日本の生産拠点からの出荷はガソリン不足による物流のマヒで停滞し、ハムやソーセージ、冷凍食品や缶詰までもが首都圏のスーパーやコンビニの陳列棚から姿を消すことになったのである。
 少し大げさに言えば、新自由主義とグローバリゼーションに対応する効率化と称して、食料や生活必需品の多くを脆弱な供給体制に委ねる、いわば「供給システムのコンビニ化」の進展が、未曾有の自然災害後の救援活動や支援物資供給のアキレス腱となって被災地の混乱と苦難とを助長したのであった。

▼「想定外の大津波」の強調は責任逃れ

 ではこうした、つまり「効率化に邁進してきた日本社会」への批判的視点に立って、福島第一原発の事故を見るとどんな景色が見えてくるだろうか。
 それは、すでに過去の出来事になった「高度経済成長」を追い求めつづけた果ての「電力の大量消費」という膨大な浪費と、莫大な原発利権に群がり、原発の危険性を「無いことにする」安全神話を撒き散らす「原発マフィア」とでも呼ぶべき勢力と、その神話の劇的な崩壊が世界の原発政策に与えた衝撃の情景である。
 まずは、最初に指摘した原発事故の「人災的側面」に関わる事実を確認することから始めよう。それは今回の福島原発の事故は、すでに5年も前から「想定されていた」という事実である。つまり「想定外の大津波」がすべての事故原因であるかのような東京電力、原子力安全保安院そして政府の説明と、これらの説明を無批判に垂れ流すマスメディアの報道は、事故の真相を覆い隠してその責任を逃れようとする、実に不純な動機と思惑に満ちていると言って過言ではない。
 と言うのは、日本共産党の吉井英勝衆院議員は京大工学部の原子核工学科卒という専門的知識を生かし、06年の3月、5月、10月に震災や津波で引き起こされる原発事故の可能性を指摘、当時の小泉、安部内閣の対応策を鋭く追及してきたからである。とくに10月の衆院内閣委員会では、震災や津波で外部電源が失われ非常用電源も作動しない「全電源喪失」に陥った場合、冷却機能が失われて炉心溶融(メルトダウン)に発展する危険があると言及、まさに福島第一原発でいま起きている現実を具体的に「想定して」政府と原子力安全委員会に善処を要求していたのである。
 ところが東電や保安院は、今回の事故原因を「津波による外部電源の喪失」などと曖昧にしてきたのだが、3月30日の朝日新聞には、原子炉に冷却水を送る機能が失われた原因が、冷却用の海水を汲み上げるポンプ設備とその非常用電源設備が津波で破損したためだという、元東電の原子力技術者の証言が掲載された。しかもこの証言によれば、こうしたポンプ設備の破損の原因は、「建屋に入っている第二(原発)とは違い、(第一原発では)ポンプが裸で外に出ていたことが大きい」と言うのだ。つまり東電と保安院、そして政府つまり経済産業省も、5年もの間なんら震災や津波への対策を施すことなく放置しておきながら、今になって「想定外」や「未曾有の津波」を事故原因だと強弁するという、実に許し難い責任逃れに終始していると言う他はない。
 さらに、こんなずさんな災害対策を放置したまま原発建設を推進してきた歴代自民党政権の責任が、見逃されて良いはずはない。もちろん現在の民主党政権の事故対応も腹立たしい限りだが、他方の谷垣自民党は野党であることを良いことに、口を噤んで責任追及をやり過ごそうとしているかのようだが、文字通り無謀としか言いようのない原発リスクの無視は、歴代自民党政権が推進してきたこの国の原発政策が、「原発=ノーリスク」という強力なプロパガンダと手を携えてきた結果だからである。
 今や、沸騰水型(BWR)と加圧水型(PWR)の両方を手がける世界で唯一の原発メーカーとなり、福島第一原発の2号機と3号機の納入業者でもある東芝で、原子炉格納容器の設計に携わってきた元エンジニアの後藤政志さんの「事故は絶対にありえないのが前提だった。業界の中では(事故のリスクは)存在していたが、ないことにしていた」(『週刊東洋経済』4・2号) という証言は、日本の原発がその危険性に目と耳を塞ぎつづけてきたことを暴いて余りある。

 だが福島原発の事故が、原発政策の今後を一変させつつある。しかもそれは事故のあったこの国以上に「原発先進地域」のヨーロッパで、原発事故の深刻さに危機感を強めた人々が明快な意思表示をはじめる契機となっている。
 典型はドイツである。周知のようにドイツでは2000年6月、シュレーダー首相の社会民主党(SPD)・緑の党の連立政権と電力業界の間に、原発を順次廃炉にする「脱原発合意」が成立した。ところが09年9月の総選挙で11年ぶりに政権に復帰したキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と自由民主党(FDP)の連立政権が、まだ稼働中の17基の原発について「稼動期間の延長」を打ち出していた。
 これが日本では「脱原発の流れに〃歯止めが掛かった〃」などと、まるで原発もエコロジーに貢献すると再評価されたかのように報じられたのだが、この報道は意図的かどうかは別にしても、現在のドイツの「脱原発の流れ」を過小に評価する、不当に歪められたものである。その詳細は『世界』2011年1月号の特集「原子力復興という危険な夢」を参照していただくとこにして、ここでは割愛する。
 ところでそのドイツでは福島原発の事故以降、1980年の結党当時から「原発廃止」を掲げてきた緑の党の支持率が急上昇し、3月27日に行われた西南ドイツの2つの州議会選挙=バーデン・ヴュルテンベルク(BW)州とラインラント・ファルツ(RLP)州で緑の党が地すべり的大勝を収めた。これによってBW州では、実に58年間つづいたCDUの州政権に終止符が打たれただけでなく、CDUとの連立政権内でも原発稼動期間の延長を強力に主張してきたFDPも、BW州では議席が半減し、RLP州では議席獲得に必要な得票率5%を割り込む大敗を喫したのである。
 福島原発の事故を受けて、CDUのメルケル首相は州議会選挙直前に「原発稼動期間延長の凍結」を表明し、FDPの党役員も老朽化した7基の原発を廃炉にすると表明するなど、急速に高まった脱原発世論との妥協を図ったが及ばす、むしろ緑の党の大勝で「原発廃止の前倒し」が国民的合意となったとの見方が有力となった。
 こうして福島原発の事故は、周辺住民をはじめ広大な地域を巻き込む甚大な被害を引き起こすことで、いや今では文字通り世界中に放射性物質を拡散させるという危機を作り出すことで、世界中の脱原発運動と世論の追い風になるという皮肉な、だかこれまた実に腹立たしい事態を招き寄せたのである。

▼いまこそ「成長神話」との決別を

 ところが当の日本では、まるで原発事故を逆手に取るように、電力不足の不安を煽る施策とキャンペーンが横行している。悪評高い「計画停電」と「節電キャンペーン」である。
 もちろん、不測の大停電を回避するには「計画的な停電」が必要な場合もあろうし、節電それ自身は悪いことではないという以上に、むしろ「電力の大量消費」という膨大な浪費に明け暮れる現在の日本には必要なことだとさえ言える。
 問題なのは、原発増設計画を含む「電力の大量消費」構造は省みずに、あるいは「電力の大量消費」を前提にして、「原発が無ければ大停電だゾ」と言わんばかりの脅迫めいたキャンペーンであり、これと軌を一にした「自粛ムード」の強要であり、あるいは「計画の立てようのない」無作為な輪番停電方式を一方的に押し付ける一方で、大口契約者への供給制限などが後回しにされる政府や東電のやり方である。
 あまりに杜撰で恣意的な「計画停電」は強い批判を受け、4月6日には「暖房需要の減少」を口実に中止が宣言されはしたが、「原発がなければ夏の電力需要を賄えない」という脅迫的キャンペーンは、「日本は強い国」とか「日本人は頑張れる」などの、上から目線の押し付けがましいCMとともに継続中である。
 そこには、新古典派経済学や新自由主義というイデオロギーが世界中に押し付けてきた「市場が牽引する経済成長」とか、サプライサイド(供給側)重視の、つまり企業減税や規制緩和で「資本の利益を優先する成長戦略」といった、08年9月のリーマンショックで劇的に破綻したはずの発想に囚われつづけ、経済政策と社会生活の抜本的転換を頑なに拒絶する、現代日本の「思考停止状態」が映し出されている。
 と言うのも1990年代後半には、いわゆる「失われた10年」の打開策をめぐって、新自由主義的成長戦略か、それとも持続可能な低成長かという「2つの道筋」が提唱されたのだが、現実には小泉人気というポピュリズム賛歌の喧騒の中で、21世紀の日本は新自由主義的成長戦略をひた走ってきた。トヨタやキャノンといった日系多国籍資本が史上最高益を更新する一方で、人々の暮らし向きは一向に向上しなかったその過程は、「持続可能な低成長経済」や「浪費というぜい肉のダイエット」等々のもうひとつの道筋が、「構造改革」と称する成長戦略の優劣を競う自民・民主二大政党制の狭間に突き落とされたかのように片隅に追いやられる過程でもあった。
 たが、まさにそのツケが今、放射能という見えない敵となって日本列島を覆っていると言えるのかもしれない。日系多国籍資本の好調な業績は、そのまま電力使用量が増加の一途をたどり、原発増設論の追い風にもなってきたからである。

 

 しかし今「強制された節電」が、改めて「浪費というぜい肉」のダイエット、あるいは大量生産・大量消費という「浪費する社会のダウンサイジング」の必要を思い起こさせるきっかけになり始めているように見える。
 地下通路の壁を埋め尽くす「節電で消灯された照明の群れ」が、乗客の少ない時間帯でも「猛スピードで電力を浪費する快速電車」の運休が、震災による停電で露呈した「オール電化住宅」なる電力浪費の脆弱さが、リアルに、私たち自身に、効率と利便性ばかりを指標にした「成長戦略」の危うさを暴き、その転換を迫っている。
 そうした意味で、「節電の必要」を一過性のキャンペーンに終わらせてはならない。
 稼働中の原発すべてを直ちに廃炉にすることはできないとしても、この危険極まりない発電システムにこれ以上巨額の資金を投入するのを正当化する理由は絶対に、そう絶対にあり得ない。廃炉となる福島原発を、これ以上被害が拡大しない程度に封鎖・管理するだけでも数十年の単位で巨額の資金を投入しつづけなければならないし、破損した核燃料を「安全に廃棄」するには、さらに数万年に及ぶ巨額資金の投入が必要となる。これに、すでに生み出された膨大な量の使用済み核燃料の最終処分が加わる以上、こうした猛毒の核物質を増産する原発の増設という贅沢な浪費は、経済成長や利便性をどれほど強調しようとも許されるはずはないからである。
 そんなことに資金を投じるくらいなら、それこそ太陽光発電や風力発電などクリーンエネルギーの研究・開発にこそ巨費を投じる「選択と集中」が実践されるべきだし、それこそが「未来志向の投資」というものだろう。
 だがこの「未来志向の投資」を実現するには、節電を謳いながら待機電力を浪費する家電製品や、大量の電気を使う飲料用アルミ缶の大量消費、がら空きの快速電車の運行などを「無駄遣い」と感じる、私たち自身の生活観の転換が必要でもある。昼間の快速電車の運行本数が減れば、私たちは時刻表を見て電車を選びそれに間に合うように出かけるという、20年ほど前までは普通だった生活態度を取り戻すだろうし、明るすぎる地下通路に違和感を覚えた「そう遠くない昔」を思い出し、使い捨てのアルミ缶から再利用可能な瓶詰め飲料を選択することもできるようになるだろう。
 この程度の利便性を捨てることと、この利便性に固執して原発というリスクを負いつづけることのどちらを選ぶのかが、いま私たちに問われているのだ。しかも私たちの前には、脱原発に向けて大きく歩み出した「ドイツの選択」という、十分に実現可能な格好の先例が示されてもいる。
 「節電の必要」を一過性のキャンペーンに終わらせてはならない。原発の「安全神話」の崩壊を好機として戦後世界経済の「成長神話」をも根本的に見直し、モノと電力の浪費というぜい肉を減らす「社会のダウンサイジィング」を実現する、言い換えれば大量生産・大量消費・大量廃棄が常態化した「水ぶくれ社会」と決別する多様な提案や試みを、最も広範な協働によって具体化する時が訪れているのだと思う。

【4/10:きうち・たかし】


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