【麻生内閣支持率の急落】
迷走する麻生自民党と国際経済再編への胎動
−今こそ小泉-竹中路線の清算が必要だ−
(インターナショナル第184号:2008年12月号掲載)
▼金融危機への甘い認識
12月初旬、新聞各社の世論調査結果に、麻生自民党には衝撃が走った。内閣支持率が読売新聞で20・9%、毎日新聞21%、朝日新聞22%と軒並み20%近くまで落ち込み、政権に黄信号が灯ったからである。
支持率急落の原因は様々あろうが、その最大の要因は、麻生内閣の経済対策が迷走をつづけていることである。
「政局より政策」なるキャッチフレーズを無意味に繰り返す麻生は、景気対策の優先を饒舌に語って総選挙を先送りはしたものの、10月になってから、7カ月前に失効したばかりの「金融機能強化法」の復活にあわてて着手するなど後手に回り、景気対策の目玉政策として打ち出した「定額減税」は、迷走のあげくに「給付金」という文字通りのバラまきに変更されたりと、まったく効果的な対応ができなかったことが内閣支持率の急落を招いたと言っていい。
麻生内閣を支持しない理由として、6割もの人が「政策が信用できない」と回答したことにも、それは示されている。
ところがこの麻生内閣の迷走は、単にこの内閣が無能だということだけでなく、小泉−竹中改革を機にこの国の経済政策が新自由主義へと大きく傾斜し、結果として9月金融危機=「リーマン・ショック」というマネタリズムの劇的な破綻に対して、政府・自民党と国家官僚機構には、まったく何の備えも無かったことをも暴き出した。
現に、アメリカ大手投資銀行をなぎ倒すことになった9月金融危機について、欧州主要国の首脳たちはその直後から、1930年代の世界恐慌に匹敵する深刻な危機だとする認識を示したが、危機の震源地であるアメリカ政府と金融当局の対応は鈍く一貫性を欠き、混乱したものであった。
だが危機の認識に関して最も立ち遅れていたのは、ほかでもなく日本政府であった。それは9月の金融危機について、与謝野馨経済産業相や中川昭一財務相兼金融担当相といった、経済政策の中枢を担う閣僚たちの発言に端的に現れていた。
▼危機の連鎖と悪循環
「リーマン・ショック」直後、与謝野経済産業相は、アメリカ金融危機の日本経済への影響は「ハチに刺された程度」だとタカをくくった見解を吐露したし、10月10日にワシントンで開催されたG7(先進7カ国)財務相・中央銀行総裁会議に向かう中川財務相兼金融担当相は、「90年代の日本の経験を伝えたい」と、欧米諸国の危機感とは対照的な余裕を見せていたのである。
与謝野や中川の発言は、欧米金融機関を破綻に追い込んだ金融派生商品への投資が、日本では比較的少ないことを根拠にしていたが、こうした認識がとんだ見込み違いであることは、すぐに明らかになった。
なによりも、金融投資という「不確実なビジネス」を牽引車とする金融グローバリゼーションの好況は、実態経済の数倍の規模に達する過剰流動性を生み出し、生産と消費が必要とする資金の流れを逆に左右して、実態経済に重大な影響を与える構図を作り出していたからである。
こうした金融と実態経済の倒錯した関係と悪影響とは、98年のアジア通貨危機の経験からも明らかだったが、自民党も官僚機構も、そしておそらくは民主党をはじめとする野党各党も、日本の金融機関の金融派生商品投資が少ないという理由だけで、「影響は軽微」という通説の上に安住を決め込んでいたのであろう。
だが、「リーマン・ショック」の最初の影響は、日本を巻き込む巨額の投機資金の「巻き戻し」として始まった。
投資していた証券や不動産を売却して現金を回収しようとするこの動きは、日本では不動産投資の劇的な減少となって現れたのである。都市部を中心としたマンションブームなど、「ミニバブル」の様相を呈していた不動産市場から大量の外資が流出し、10月に入ると、資金繰りの悪化による不動産会社の倒産が続出することになった。
2千億から3千億円と言われるリーマン・ブラザーズの対日不動産投資の「消滅」で、これに依存してきた東京・品川の京浜ホテルが資金繰りに行き詰まってホテルの売却と従業員の解雇を発表し、これに反発した労働者が職場を占拠して自主管理の争議となったのは、そのひとつの典型である。
しかしより深刻な影響は、世界同時株安による「逆資産効果」であった。
好況に沸いていた証券投資が次々と元本割れに陥り、その損失の拡大が「投資で得られるはずの利益」を吹き飛ばし、消費に向けられていたお金がたちまち減少し始めたのである。それは、大衆消費財をはじめあらゆる商品とサービスの売れ行きに急ブレーキをかけ、デパートからファミリーレストランまで、第三次産業全体の売上を減少させて業績悪化の波紋を広げ、ついには世界中の自動車や家電メーカーを大幅減産へと追い込んだ。
11月になって、アメリカの過剰消費に依存してきた日本の輸出産業が、自動車を中心に大幅な減産に追い込まれ、それとともに契約期限前に大量の派遣労働者の契約打ち切が急増したのが、そうした危機の象徴である。
さらに、11月中旬に発表された日本の金融機関の中間決算は、文字通り惨憺たる内容であった。日本の6大金融グループの純利益は、前年同期比58%減の3983億円となって、2年前に記録した過去最高の1兆7352億円の4分の1にまで落ち込み、主要な地方銀行も、不動産や建設部門の倒産の続出で、貸し倒れ引き当て金を含む不良債権処理の費用がかさみ、上期だけでも通年見通しの数倍にまで膨らみ、金融危機最中の97年以来の高水準に達したのである。
大手金融グループが保有する株式や証券価格の下落が、保有資産を劣化させて財務状態を悪化させたり、消費の減退が中小業者の倒産を急増させて債務不履行が多発した結果だが、それは同時に、銀行を貸渋りや貸し剥がしへと向かわせ、中小企業の資金繰りを悪化させて更なる倒産を誘発する、信用収縮の兆候でもある。
だが前述したように、麻生内閣の主要な経済閣僚たちは、そして日本の「有能な」国家官僚機構も、金融危機が引き起こすこうした悪循環について、まったく予測すらできなかったのである。
▼的外れの経済政策論争
ところが、この国の政治の場で展開されている経済論争(国家財政論争と言う方が正確だが)は、世界恐慌とまでは言えないまでも、世界的な大不況が急速に広がりつつある現実に目をふさぐかのように、「財政出動」派と「財政再建」派が財源をめぐって争い、あるいは「上げ潮」派と「財政出動」派が企業減税か公共投資かをめぐって争うと言った、まったく的外れな議論を延々と繰り返えしているのである。
もちろん財政出動派、財政再建派、上げ潮派といった分類は自民党内の諸傾向に過ぎないが、他方の民主党からはこれと言った経済論争は聞こえてこないし、共産党と社民党の主張は、あえて言えば財政出動派の枠内で、公共投資より社会保障支出の増額を求めると言ったものであろう。
ところで財政出動派は、国家が経済に介入すべきだとして、公共投資などの国家財政を積極的に支出する考え方であり、財政再建派は、社会保障の充実などで国家財政の支出を容認する一方で、その財源を増税とくに消費税率を引き上げて「財政の健全化」、つまり国家財政収支のバランスを保つべきだとする考え方である。
その意味で両者は共に「大きな政府」の考え方であり、当面の不況対策としての財政出動についても、赤字国債の大量発行や財政健全化の先送りなど、「財政規律の弛緩」は認めないという条件つきながら、後者もこれを容認するのである。
ところが小泉−阿部の両政権下の自民党では、増税を主張する財政再建派と、「小さな政府」を唱える上げ潮派、つまり財政支出を徹底的に削減する「構造改革」で、国家財政収支の均衡は達成できるという考え方の対立が主要な論点であった。
だが一昨年の参院選挙で自民党が歴史的大敗を喫して以降、いわゆる財政出動派が台頭し、さらに昨年夏にサブプライムローン問題が顕在化してからは、上げ潮派は論争の埒外に追いやられつつある。
実はこの時点で、つまり昨年夏にサブプライムローン問題が一連の金融危機を引き起こし、マネタリズムの申し子でもある「構造改革」や「小さな政府」の前途に暗雲が漂い始めた時点で、小泉−竹中路線の転換が提起され始めたと言える。
ところがこの課題は、自民党の「政権を手放さない」という「政局優先の判断」によって、財政出動路線へのなし崩し的転換という中途半端な方策に収斂されたのだ。だからこのなし崩しを進めた福田内閣の崩壊は、客観的には、サブプライムローン問題を契機に景気後退懸念が強まる中では、こうした課題の先送りには限界があることの露呈だったと言うべきなのである。
言い換えればそれは、「政局優先の判断」の果てに党総裁に選出された麻生は、小泉−竹中路線からの転換を客観的課題として背負った政権だったのであり、それができなければ、解散・総選挙で民意を問う以外にない内閣として発足したのだ。麻生政権が「選挙管理内閣」だとする評価の意味は、本質的にはそういうことである。
だから麻生が、「政局より政策」をどれほど強調しても、与えられた課題に応えられない以上、内閣支持率は低下しつづける以外にはないのだ。そして9月金融危機と日本経済の急速な悪化が、この先送りされた課題、小泉−竹中路線からの転換を改めて自民党政権に突きつけたのである。
▼戦略喪失状態に陥った日本
では財政出動派と財政再建派は、どちらが小泉−竹中路線からの転換として「ふさわしい」のだろうか。だがこうした二者択一的な問題の立て方こそが、経済政策の迷走に拍車をかけているのだ。
たしかに、小泉−竹中の構造改革と「小さな政府」の路線は、アメリカ金融資本の国際的覇権を確立しようとするブッシュ政権の国際戦略に全面的に追随し、日本経済に大きな歪みを作り出すことになった。今年の経済白書(7月22日)にもあるように、02年2月に始まった景気拡大の局面において、実質国内総生産(GDP)成長率の実に6割超を輸出に依存する「外需依存型」経済へと日本の経済構造を歪め、他方では、公共事業に代わる新たな内需産業の育成を省みない歳出削減の大ナタを振るうことで、農業や漁業といった一次産業や、中小零細企業が担う国内必需品生産の疲弊をも促進し、ついには、金融グローバリゼーションの破綻に対する国内経済の抵抗力を脆弱にしたと言える。
にもかかわらず小泉−竹中路線は、日本の国家・社会構造の全面的な再編を通じて、変貌する世界経済に順応するという「戦略的思考」に基づいては、いたのだ。
これに対して、現実の財政出動派と財政再建派の経済戦略は、1980年代までと同じ経済成長戦略、つまり土木建築偏重の国内公共投資と、基幹産業の大半を占める大衆消費財輸出産業の設備投資という両輪で景気を牽引するという、あえて言えば戦後保守政治の既存の路線を一歩も越えない、文字通り旧態依然たる戦略にその基礎を置いていると言わなければならない。
これでは、二者択一的選択には意味が無くなって当然だろう。
つまり、今日この国が直面している最大の課題は、金融グローバリゼーションの破綻によって小泉−竹中路線の挫折も明らかになったことを受けて、次代の経済戦略をどう見いだすかなのである。
ところが自民党内の諸勢力からも、対抗すべき野党各党からも、こうした戦略的構想がまったく示されないという事態に、この国の直面する危機の本質がある。先に述べた、麻生内閣の経済閣僚の見当はずれの発言は、この国が直面する危機、つまり何の準備もないまま、まったく「予想外の危機」に不意を打たれ、戦略的的展望を喪失して右往左往する姿の象徴でもあったのだ。
しかもこの、「政局を優先した」自民党によってもたらされた危機の深刻さは、G8諸国が金融グローバリゼーションの破綻に代わる新たな国際経済の枠組みを模索している現実と比較したとき、一層鮮明となる。
それは11月14−15日、ワシントンで開かれたG20(主要20カ国・地域)金融サミットで、日本政府が「10兆円の外貨準備を提供して国際通貨基金(IMF)を支える」という、基軸通貨・ドルの防衛という硬直した構想しか提案できなかったのに対して、フランス、イギリスなどの欧州主要国と、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)などの新興諸国は、「ドルの一極支配」を脱して、欧州、アジア、南米など、地域的経済圏の多極化構造を土台にした、新たな国際経済の枠組みを模索しはじめていたからである。
▼国際経済再編の胎動
そもそも、70年代初頭の「ドル危機」に対応して、基軸通貨・ドル防衛のために構築された国際協調の枠組みであるG7を大きく変更するG20金融サミットは、破綻した金融グローバリゼーションに代わる新たな国際経済の枠組みを再構築する、最初の試みと言える画期的な国際会議であった。
しかもフランスやイギリスが、この国際会議をあえて「ブレトンウッズU」と名付けたのは、基軸通貨・ドルの凋落を見越し、国際的な決済システムを再編しようとする戦略的思惑があったからであろう。
1944年のブレトンウッズ会議が、第二次大戦後の基軸通貨をポンドからドルに変更する新たな国際的な決済システムを確認した会議だった以上、その会議と今回のG20とを意図的にアナロジーさせる呼び名は、国際経済におけるアメリカとドルの特権的地位の失効を印象づけ、次代のシステム構築でイニシアチブを取ることを狙っているからに他ならないからである。
BRICs諸国にとっても、世界経済で存在感を増してきた自国経済を背景に、国際経済に対する発言権を強めることは、アメリカのドル政策に振り回される不安に終止符を打ち、同時にアメリカの経済的覇権の道具であった世界銀行とIMFの統制に関与できる、文字通り絶好の機会である。
さらに言えば、マネタリズムを信奉するブッシュ政権の下で金融グローバリゼーションの破綻に見舞われたアメリカでさえ、次期大統領・オバマの政権移行チームが世界経済の多極化の容認を示唆するとともに、藩基文(バン・キムン)国連事務総長が「緑のニューディール」と呼ぶ、金融グローバリゼーションに代わる新たな経済戦略への支持を表明し、クリーンエネルギーへの転換に今後10年間で1500億ドルを投じる、「新エネルギー政策」と銘打った野心的な経済戦略構想を発表してもいるのだ。
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いまや、マネタリズムと金融グローバリゼーションの破綻が世界の共通認識となりつつあることは、誰の目にも明らかである。
にもかかわらずこの国では、今も小泉−竹中改革への「大衆的人気」に幻惑され、マネタリズムに傾倒してブッシュ政権への追従をつづけた自民党と官僚機構が、効果の疑わしい景気対策なるものを唱え、それが平然とまかり通るという、異常な事態がつづいているのである。
(12/18:きうち・たかし)