●ガソリン暫定税率の期限切れ

国交省の誤算と福田政権の迷走

−官僚との協調路線とアトム化社会のギャップ−

(インターナショナル第179号:2008年4月号掲載)


▼説得力のない道路整備計画

 3月31日、ガソリン税に上乗せされていた暫定税率の期限が切れ、全国のガソリンスタンドに値下げ競争が広がった。仕入れ時の暫定税率分が赤字になるのを覚悟で値下げに踏み切る店も続出し、スタンドには給油を待つ車が長蛇の列をなした。
 福田首相は翌4月1日、「政治のツケを国民にまわした」と陳謝したが、むしろ衆参ねじれ国会という、政権の独占に慣れ切った自民党の未体験状況に困惑するばかりで、有効な対策をとれない福田政権の無能が、またもや露呈した感がある。
 改めて言うまでもないだろうが、値下げ競争の原因となったガソリンの暫定税率をめぐる与野党の対立は、道路特定財源の存廃をめぐる対立でもある。
 国土交通省と自民党道路族議員は、地方の道路整備の必要性や環境問題まで持ち出しているが、要はこの特定財源を維持してこれまでどおり道路建設を続けたいだけであり、福田政権もまたこれを受け入れ、道路特定財源維持の税制関連法案を国会に提出した。対する民主党をはじめとする野党各党が、暫定税率は撤廃してガソリン税を一般財源化する、つまり道路に特化した税収を他の分野にも使えるようにすべきだと主張してきたのは、周知のとおりだ。
 一般論だが、地方ではなお道路建設が必要だとしても、それは道路特定財源のような、ブラックボックス化された特別会計を維持する必要を意味しないし、ガソリンが値下がりすればCO2排出量が増加し、環境に悪影響があると言う町村官房長官が持ち出した議論に至っては、噴飯物のへ理屈としか言いようがない。現に06年の経団連の分析には「ガソリン価格は04年度以降約4割上昇したが、消費量は特に抑制されていない」とあるように、ガソリン価格と消費量の関係は一律的ではない。むしろ道路ができて利便性が向上すれば、交通量が増えてCO2排出量も増えるのが実情だろう。
 つまりガソリンの暫定税率を今後10年間もすえ置き、道路特定財源の維持を主張する国交省と自民党からは、「道路建設はまだ必要だ」という以外、ただの一度も説得力のある説明がないのだ。
 他方、暫定税率と道路特定財源の廃止を要求する、国民新党を除く野党各党は、暫定税率廃止にともなう2兆7千億円(うち地方税収分は1兆円)の税収減を何でカバーするのか代替案がないと批判されている。だが道路特定財源を一般財源に繰り入れ、医療や教育など他の分野にも使えるようにすべきだという点では、少なくとも国交省や自民党より、はるかに説得力がある。
 なによりも交通量が極端に少ない、「必要な道路」とは到底いえない高規格道路が無数に存在し、建設計画の決定過程も極めて不透明なままだからだ。
 それでも町村官房長官は、4月中に衆院の3分の2以上で関連法案を再議決し、暫定税率を復活させたいと言う。国際的な原油や穀物価格の高騰で物価が上昇しはじめたこの時期に、能天気に「暫定税率復活の再議決」を語る政府官房長官の感覚は、民衆の期待との落差を暴いて余りある。

▼「ムダな公共事業」めぐる攻防

 昨年11月、国交省が65兆円の費用を見込んだ「道路整備中期計画案」を公表したとき、自民党道路族は活気づいた。なぜなら自民党内には、公共事業費を削減した「改革路線」が地方経済に打撃を与え、それが昨年の参院選で大敗した原因だという声が根強かったからである。
 国交省も「『改革、改革』と唱えていればよかった時代は終わった」(07年11/14:朝日)と吹聴して道路整備復活をアピールしたが、なによりも小泉・安倍両政権の「改革路線」が頓挫し、代わって与党・官僚との協調を重視する福田首相が登場したという変化が、道路族を勢いづかせた。
 案の定、福田政権は、事業費を65兆円から59兆円に減額しただけで、暫定税率を10年間すえ置いて道路特定財源を維持する法案を国会に提出したのだ。それは06年12月、安倍政権が「道路整備で余った道路特定財源を一般財源化する」とした閣議決定を事実上骨抜きにして、国交省官僚と自民党道路族の期待に応えるものだった。
 だがまさにこうして、与党・自民党と野党の攻守が逆転することになった。
 なぜなら、衆院で与党に3分の2以上の議席をもたらした小泉の人気は、「税金のムダ使いを無くす」という大義名分を掲げ、道路利権に群がる族議員に「守旧派」のレッテルを張って「口撃」し、道路公団に限定してだが、道路整備という公共事業を、族議員と国交省が結託した「ムダ使い」の象徴に仕立て上げたからだったし、郵政民営化の大義名分も、当初は「ムダな公共事業」に資金を供給する国家金融=郵便貯金を民営化し、その資金供給源を断つということだったからだ。
 つまり小泉人気の重要なキーワードのひとつが「ムダな公共事業をなくす」だったのだが、道路整備計画を無反省に継続することは、その「ムダな公共事業」の温存を宣言するに等しく、小泉人気を演出した大義名分をむざむざと野党に引き渡すことになったのだ。
 道路特定財源をめぐる攻防で福田政権が常に後手に回り、暫定税率の期限切れに追い込まれたのは、このためだったのだ。

 しかしそれでも、人々が道路特定財源の維持に反対する大きな理由は、道路整備という公共事業が、地方経済活性化の起爆剤だという「道路神話」が、グローバリゼーションの進展の中で、いちじるしく劣化していることが背景にあると思う。
 そしてこの点に、道路族と国交省の、だからまた福田の誤算がある。

▼衰退する「道路神話」

 道路特定財源は1954年、後に首相になった田中角栄らが、一般財源だったガソリン税を道路整備用に目的税化する法案を提出して作られた。それは当時、敗戦後の日本経済再建の動脈として道路網を整備し、都市と地方、あるいは太平洋側と日本海側のインフラ格差を解消し、全国的な産業再編・再配置を促進する政策であり、いわゆる「列島改造論」の先駆けだった。
 道路網の整備はその後、モータリゼーションの進展で自動車業界の後押しを受けるようになり、60年代後半以降は、低賃金の労働力を求める企業の地方進出をも促し、それが、過疎に悩む地方自治体に「道路神話」を浸透させていった。
 だが「神話」には、成功や効果を過大に評価する思い込みがつきものだ。
 現実には、道路整備が経済の活性化につながった地方もあれば、反対に周辺都市圏に若年労働者や顧客が吸い寄せられ、人口減少が止まらない「ストロー現象」と呼ばれる逆効果もあったのだ。しかも皮肉なことに、この現象の典型は、田中の地元だった新潟県・長岡や、歴代首相を輩出して有数の「道路先進県」と言われる山口なのだ。
 さらに90年代後半になると、グローバリゼーションの波が「道路神話」の衰退に追い打ちをかけた。いまや企業は、工場立地に最適な場所を、国内に限らず世界中から選ぶようになったからだ。道路整備などインフラの拡充と企業誘致を目的とした用地造成が、地方経済活性化の起爆剤になる可能性が損なわれはじめたのである。
 昨年10月、値下げを告げる看板が出現した岩手県花巻市の「花巻流通団地」に、その実態を見ることができる。この団地は、独立行政法人・都市再生機構と花巻市が80億円を費やして02年までに造成し、周辺バイパスや花巻空港へのアクセス道路にも170億円が投じられたのだが、その半数の土地が今も売れ残っているのだ。
 花巻市の人口は、01年をピークに減少に転じ、15年後には65歳以上の割合が29%になると予測されており、これに歯止めを掛ける経済活性化の起爆剤として期待されたのが、この流通団地だった。だが新規雇用も、市が見込んだ1600人の3分の1にも満たず、販売価格の値下げに追い込まれたという(以上=07年11/1:朝日新聞)。
 こうした現実が、財政が悪化しつつある地方自治体の「道路離れ」を誘発した。国の補助金があっても、自らも巨額の負担を覚悟しなければならない道路整備だけに、経済効果が不確実になった道路事業に自治体が二の足を踏むのも当然だ。
 例えば北海道は昨年、08年度予算の概算要求ではじめて、大半が道路事業である北海道開発関連の補助事業を要求しなかった。費用の半額は国の補助金でも、残りの地元の負担は昨年度、予算ベースで130億円あった。しかし08年度予算で470億円の一般財源の不足が見込まれたために、積極的な道路整備に見切りをつけたのだ。最終的には、地元建設業者や国(国交省と北海道開発庁)に配慮し、07年度比7%減の要求をし直したが、道庁幹部も「財政は火の車。道路には、もう飛びつけない」と言う。
 また青森市は、「これからは車が使えない高齢者が社会の中心。郊外に立派な道路を造る必要がなくなった」として、99年度から郊外開発を抑え、市街地道路を活用する方針に転じている(以上=前掲紙)。

 こうした事態がここ数年、道路特定財源に数千億円の「余り」を生み、前述した06年12月、安倍政権が「道路整備で余った道路特定財源を一般財源化する」と閣議決定する根拠にもなった。ところがこの同じ問題が、国交省に道路整備計画縮小の危機感を抱かせ、逆に「ムダな道路」建設を加速させるようにも作用するのだ。

▼ムダな道路を造るメカニズム

 今回も多くの地方自治体の首長が、道路整備の必要を訴えて道路特定財源と暫定税率の維持を求めるのは、道路整備計画とくに建設箇所の優先順位が、道路族議員たちの「政治力」に大きく左右されるブラックボックスになっていて、「必要な道路」はまったく恣意的に決められ、道路網の整備に歪みがあるのが現実だからだ。
 しかも整備箇所の決定は、事実上は国交省の行政権限と化し、それが政治家との癒着の温床にもなってきた。財務省幹部が、「国交省は自分で族議員をまとめ財源も確保してくる。そこは聖域だ」と吐き捨てるのも、理由があってのことなのだ。
 今回の「道路整備中期計画」でも、国交省は「真に必要な道路」を選定したというが、具体的な整備箇所は、高速道路など一部を除いて明らかにしていない。「場所は絞り込んでいるが、すべてを示すと予算を硬直化させる」と言うのが国交省の説明だが、使い道を明示しない税金の使い方の方が異様だろう。だがこうして国交省官僚は、補助金の恣意的支出の権限を握り、道路事業に行政権限なみの強制力を持たせてきたのだ。
 ところが、地方自治体の財政悪化によって「道路離れ」が広がり、道路特定財源が余りつづければ、一般財源化の声がさらに高まるのも確実だ。それは国交省にとっては、道路に関する「行政権限」がさらに縮小するという悪夢である。
 すでに小泉、安倍両政権の下で公共事業費は大幅に削られ、98年度の国の公共事業費14・9兆円は、07年度には6・9兆円まで激減、これに「脱談合」による過当競争の激化もあり、平均落札率(発注価格÷予定価格)も、01年度の96%が06年度には89%にまで落ち込み、業者からも「利益が減って魅力が無くなった。政治家に頼る意味も薄れてきた」との声が出るように、今や業界にとっても道路建設は、必ずしも「美味しい仕事」ではなくなりつつあるのだ。
 いきおい国交省は、特定財源を使い切り、存続の必要性をアピールしようと「早く、たくさん道路を造れ」(片山・前鳥取県知事の証言)と自治体をせかすことになる。ところが、渋滞などで「真に必要な」市街地の道路整備は、用地買収や住民の退去に時間がかかるから「早く、たくさん」は造れない。替わりに事業のやりやすい、人があまり住んでいない山奥の道路建設が先行し、必要とは言えない道路が増えつづける。
 国交省が「予算の硬直化」を嫌うのは、山奥の道路建設を先行させるなどして特定財源を使い切るには、整備箇所の特定は妨げにしかならないからなのだ。
 要するに道路特定財源というブラックボックスは、財源のある限りムダな道路建設がつづく仕組みなのだ。
 さらに、建設計画の是非をチェックすることになっている「国土開発幹線自動車道建設会議」(国幹会議)も、先の5カ年計画中に03年、06年、07年に3回開かれただけで、質疑時間も各々1時間程しか無く、事実上は国交省案を追認するだけのセレモニーと化しているのが現実だ。そのうえ、一般国道として造った道路を後になって高速道路に「格上げ」するといった、国幹会議の審議を経ずに高規格道路が建設できる、国道「A’路線」なる姑息な抜け道があることも暴露された。
 これでは福田首相も、「一般財源化」を表明せざるを得なくなって当然だ。

 こうして、道路特定財源をめぐる自民党内の激しい攻防が顕在化した。
 福田首相の「一般財源化」への言及に反発する道路族と、「一般財源化」を求めて、その保証がなければ再議決に応じないとまで主張する党員たちが相争う与党内の内紛は、自民党内にさえ、特定財源への強い不信があることを暴き出した。
 官僚との協調ばかりか、与党との協調も重視する福田首相が直面したこの騒動は、いったい何を意味するのだろうか。

▼「イエ・ムラ」社会の失墜

 たしかに、「強力なリーダーシップ」を標榜した小泉・安倍の両政権下で、政官財の癒着構造に依拠した伝統的な戦後保守政治の手法は、大きな打撃を被った。
 だからまた官僚と族議員との協調を重んじる福田政権の登場は、「伝統的な戦後保守政治」を体現する道路族と国交省の癒着構造の再構築を図る動きを活発化させたのは前述のとおりだし、その大義名分も「地方切り捨てが参院選大敗の原因だ」とする、いわば「地方の選挙区で強い自民党」の復活を意図したものだった。
 だが、政官癒着によるバラマキを基調とする自民党的な利益誘導は、いわゆる郵政選挙で、当時の自民党総裁・小泉自身の手ですでに粉砕されたものである。
 なぜなら公共事業であれ公共サービスであれ、天下りと政治利権の絡む補助金事業は、特権的な保守勢力には利益をもたらしても、個々の有権者には必ずしも利益をもたらさない金食い虫だという認識が、都市と地方を貫いて浸透していたからこそ、郵政民営化に反対して「地方の利益を守る」と主張した自民党の郵政族は、小泉の送り込んだ対立候補に苦戦を強いられたのだ。
 もちろん、「改革路線」のツケでもある地方経済の疲弊を打開するために、国家資金の投入は是非とも必要だし、昨年の参院選でも自民党は、「農家への所得補償」を掲げて地方での支持拡大に成功した民主党に、地方の1人区で大敗した。しかし民主党の「農家への所得補償」の公約は、たとえそれがバラマキだとしても、補助金の支給対象が個々の世帯(家族)であることに特徴がある。それは、業界団体に象徴される特権的な保守勢力が公共事業を受注し、それを介して金がバラまかれる地域や業界の「ボス支配」、いわば戦後日本の「家=イエ」や「村=ムラ」社会を前提にした族議員の政策とは、まったく似て非なる政策なのだ。
 つまり天下りや利権がらみの公共事業は、今や人々にとって「税金のムダ使い」を象徴する政策だが、他方で個々人や家族に直接支給される「農家への所得補償」や「子育て支援」の補助金は、「必要な国家的支援」と見なされはじめているのであり、こうした民衆意識の変化が如実に現れたのが、郵政選挙と参院選挙だったのだ。
 このような民衆意識の変化は、現代日本の「イエ・ムラ」社会が、バブル崩壊後の長期不況の時期に個々の構成員と家族の生活保障を切り捨てたことで信頼と権威を失い、それが旧来的な互助システムの衰退を加速して人々のアトム化を促進し、個々人が、それこそ「自己責任」として、個々の利害に「だけ」敏感にならざるを得ない状況に陥ったからでもある。
 そして官僚と族議員との協調を重視する福田政権の危機の本質は、この日本社会と民衆意識の変化をまったく理解していないことにある。官房長官の町村が、「暫定税率復活の再議決」を「民衆の期待との落差」に無自覚なままで発言できるのは、この政権のそうした危機の象徴なのだ。
 社会と民衆意識の変化を認識できない政権は、民衆にとっては耐え難い不幸であり、速やかに退場させられるべきだろう。ガソリンの暫定税率をめぐる混乱は、改めてこのことを明らかにしたのだ。

(4/10:さとう・ひでみ)


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